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北の森の部分開放区域が広がってから、さらに数日が経った。
第三農区を中心に始まった供給ピークの分散運用は継続され、隣接する農区でも同じ方法が使えるか慎重な確認が続いている。森側の魔力密度は急落することなく、赤露実にもわずかな回復傾向が見え始めた。
もちろん、北の森が元通りになったわけではない。
それでも、ギルドと農業管理局、魔術院の間では一つの判断がまとまっていた。
北の森について出されていた緊急の対応は、ひとまず通常の監視体制へ移行する。
◆
「終わり?」
ギルドで説明を聞いた杏々が尋ねると、受付嬢は少し考えてから答えた。
「北の森の特別対応については、一区切りですね」
「治った?」
「そこまでは言ってません。これからも監視は続きますし、また数値が悪くなれば対応します」
「じゃあ、まだ?」
「森そのものについては、まだです。ただ、毎日のように杏々さんたちが測定へ行く段階は終わった、という意味です」
「普通に戻る?」
「少しずつですね」
杏々は頷いた。
最初に北の森へ入った時には、何が起きているのか分からなかった。森爪熊が人の近くへ来るようになり、赤露実が小さくなり、魔物の肉付きも落ちていた。森の魔力密度も低かったが、何が原因なのかは分からない。
そこから測って、比べて、何度も見た。農地の負荷を変え、南の森とも比べ、二つの測定器を並べた。最後には、農地へ魔力を送る設備の運用と北の森の低下が繋がっていることが分かり、使う時間をずらす方法まで見つかった。
杏々が全部を理解していたわけではない。今も難しい話は面倒だった。それでも、森にも食べる分がいる、ということくらいは分かった。
「森の分、残ってる?」
「今のところは」
隣にいたリネットが答える。
「じゃあいい」
◆
受付嬢が別の帳面を開いた。
「それと、杏々さん。最近かなり依頼を受けていますね」
「毎日」
「本当にほぼ毎日ですね。北の森の仕事以外にも、採取、討伐、護衛、運搬補助……よく働いてます」
「褒めた?」
「褒めました」
「一回目」
リネットが横で杏々を見る。最近、その反応の意味を理解し始めている。
「それだけ依頼をこなしてるなら」
杏々が少し期待したように受付嬢を見る。
「また上がる?」
「ランクですか?」
「うん」
「まだです」
「なんで?」
「そこはガルドさんから説明してもらった方が分かりやすいですね」
◆
少しして、ガルドが奥から出てきた。
「またお前か」
「また私」
「今日は何した」
「森終わった」
「終わってはいない」
「リネットちゃんも言った」
「じゃあ覚えろ」
「うん」
ガルドは受付台の横にある掲示板へ杏々を連れていった。そこには冒険者のランクについて書かれた表がある。
以前にも見たことはあった。ただ、当時の杏々にはほとんど読めなかった。
「今なら少し分かるだろ」
「うん」
杏々が上から見る。
「白」
「そうだ」
「黒」
「ああ」
「黄」
そこまで読んで、自分の札を見る。
「私これ」
「ようやく自分のランクを正しく認識したか」
「黄色なのは知ってた」
「その先は?」
杏々は掲示板へ目を戻した。
「赤。その次、緑。次、青」
「読めるじゃないですか」
リネットが少し嬉しそうに言う。
「最近覚えた」
◆
「白と黒が新人?」
「大まかにはな」
ガルドが説明する。
「黄と赤までが駆け出し。緑からは中級として扱う仕事が増える」
「私、駆け出し」
「そうだ」
「いつ赤?」
「まだ先だ」
「毎日仕事してる」
「知ってる」
「いっぱい」
「それも知ってる」
「失敗してない」
「記録にある」
「褒められてる」
「知らん」
「いっぱい」
「だから何だ」
杏々は黄色い札を持ち上げた。
「じゃあ赤」
「ならん」
「なんでぇ……」
珍しく語尾が伸びた。
受付嬢が口元を押さえ、リネットが少し横を向く。
「笑った?」
「笑ってません」
「笑ってる」
「少しだけです」
◆
ガルドは気にせず続ける。
「白から黒は、冒険者として最低限の仕事ができるかを見る段階だ。黒から黄は、新人扱いを外していいかを見る。だが黄から赤は違う。一定期間、黄として問題なく活動した実績が必要になる」
「何件?」
「件数だけじゃない」
「毎日やったら早い?」
「ならん」
「一日二個」
「ならん」
「三個」
「増やすな」
杏々が不満そうに眉を寄せる。
「同じ仕事を百回やったところで、別の状況に対応できるとは限らん」
ガルドは杏々の札を指差した。
「黄から先は、討伐が強いだけでは駄目だ。長めの護衛、知らない地域での活動、他の冒険者との連携、依頼人への対応、不測の事態での判断。それをある程度の期間をかけて見る」
「私、強いよ」
「知ってる」
「赤より?」
「戦うだけなら、おそらくな」
「じゃあ赤」
「話を聞け」
「聞いてる」
「なら理解しろ」
◆
杏々は不満そうに受付台へ頬を乗せた。
「規定きらい」
「好き嫌いで変わらん」
「毎日やってるのに」
「だから実績は十分な速度で積み上がってる。焦る必要はない」
「焦る」
「なぜだ」
杏々が顔を上げる。
「赤角牛」
ガルドが黙った。
受付嬢も黙る。
リネットだけが「ああ」と小さく声を漏らした。
◆
「赤角牛、まだ?」
「まだです」
受付嬢が答える。
「黄になった」
「なりましたね」
「ランク上がったら食べれるって言った」
「何回か上がれば、です」
「聞いてない」
「最初の頃に説明しましたよ」
「文字読めなかった」
「……それはそうですね」
杏々はランク表を見る。
「赤なら?」
「赤角牛はまだです」
「…………」
「規定としては緑以上ですね」
杏々の視線が、黄、赤、緑と移動する。
「二個?」
「二段階です」
「この前上がったのに?」
「黄になったばかりですから」
「…………」
◆
杏々はしばらく黙ったあと、再び受付台へ頬をつけた。
「赤角牛食べたい」
「知ってます」
「倒せるよ」
「たぶん倒せるでしょうね」
「じゃあ行く」
「駄目です」
「なんで」
「緑以上だからです」
「倒せる」
「それはランクを飛ばしていい理由になりません」
「お肉」
「駄目です」
杏々が少しだけ頬を膨らませた。
「ギルドきらい」
「そこまで言います!?」
受付嬢がとうとう笑った。
◆
「お前な」
ガルドが呆れたように頭を掻く。
「赤角牛しか見てないのか」
「うん」
「赤になれば、今より受けられる討伐依頼は増えるぞ」
杏々の目が少しだけ動いた。
「食べれる?」
「そこから入るのか」
「うん」
ガルドは討伐対象の一覧へ目を向けた。
「例えば、大型の川鎧魚だ」
「川鎧魚?」
杏々がすぐに反応する。
「前の?」
「覚えてるんですね」
リネットが言う。
「小さいの逃がした」
「幼体でしたね」
「食べなかった」
「依頼が討伐ではありませんでしたから」
ガルドが頷いた。
「川鎧魚は育つと別物だ。成体はかなり大きくなるし、鱗も厚い。川の中から体当たりされれば、並の駆け出しじゃ簡単に吹き飛ばされる」
「大きい?」
「お前よりは確実にな」
「小さい私?」
「今のお前だ」
「じゃあ普通」
「比較対象がおかしい」
◆
受付嬢が説明を引き継ぐ。
「特に大きな成体は脂が乗っていて、高値で取引されますよ。腹側は柔らかくて、焼いても煮ても美味しいそうです」
「おいしい?」
「かなり人気ですね」
杏々が起き上がった。
「赤」
「え?」
「赤になる」
「復活した!」
リネットが思わず声を上げる。
「さっきまでギルド嫌いって言ってたじゃないですか」
「魚あるから平気」
「切り替えが早すぎます!」
◆
杏々はランク表を指差す。
「黄、今」
「はい」
「赤、川鎧魚」
「大型の成体ですね」
「緑、赤角牛」
「そういうランク名ではありませんよ」
「分かった」
「絶対分かってませんよね?」
杏々の中では、もう十分に整理されていた。
黄色は今。
赤になれば、大きな川鎧魚。
緑になれば、赤角牛。
「今日、何すれば赤近づく?」
「今日はもう北の森の仕事が終わってます」
「明日」
「普通の依頼を一つずつ積み上げてください」
「いっぱいやる」
「一日に無理して何件も受ける必要はありません」
「じゃあ毎日」
「それならいいです」
◆
リネットが少し考えてから言った。
「杏々さん。黄ランクの間に色々な依頼を経験して、きちんと報告して、規則を守っていれば、ちゃんと赤には近づきますよ」
「うん」
「それに、この一か月はかなり良くできてました」
杏々がすぐに振り向く。
「二回目」
「数えるの早いですね」
「褒めたから」
「じゃあ明日も、依頼内容を最後まで聞いてから受ける仕事を決められたら褒めます」
「ほんと?」
「はい」
「聞く」
ガルドが二人を見る。
「お前、扱い方覚えてきたな」
「扱ってません!」
「今ので完全に動いただろ」
「…………」
リネットが黙る。
杏々は気にしていない。
「明日、何?」
「ほらもうやる気になってる」
◆
ギルドを出た杏々は、そのまま武器屋へ向かった。
この数週間、依頼報酬の一部を食費とは別に貯め続けている。盗賊捕縛の報奨金と調査補助費も加わり、以前なら遠かった注文剣が、ようやく現実的な金額になっていた。
「また来たか」
店主が杏々を見る。
「お金貯まった」
「どれくらいだ」
杏々は革袋から金を出し、自分で数えた。以前なら金額を店主に確認していたが、今は一枚ずつ自分で計算できる。
「これ」
「……ずいぶん増えたな」
「毎日仕事した」
「食費で消えてるかと思ってた」
「食費は別」
「ちゃんと分けるようになったのか」
「うん」
◆
店主は以前話した注文剣の条件をもう一度確認した。
小さい身体でも扱いやすく、本来の身体へ戻した時にも極端に短すぎない。片手で振れて、刺す、払う、受けるのどれにも偏りすぎず、魔力を前提にしない。
「頭金なら十分だ」
「作れる?」
「作り始められる」
「全部払わなくていい?」
「完成時に残りだ」
杏々は残る金額を確認した。
「これ払って、残りこれ」
「そうだ」
「ご飯、平気」
「そこから計算するのか」
「大事」
杏々は少し考えた。
大型の川鎧魚。
赤角牛。
これから受ける依頼。
今の剣。
何度も研ぎ直した刃。
「お願い」
頭金を机へ置いた。
「分かった。寸法は前に取った通りでいいな?」
「うん」
「お前の場合、寸法の意味が普通と違うから面倒なんだよな……」
「両方着る服と同じ」
「そうか…」
「うん」
「まあいい。少しかかるぞ」
「待つ」
「飯は待てないくせに」
「剣は腐らない」
「その理屈は初めて聞いた」
◆
夕方、杏々は木苺亭で夕食を食べていた。今日選んだのは、森猪と土玉芋の煮込みだった。
以前なら値段だけ聞いていた品書きも、今では知っている料理なら自分で見つけられる。数字はもう問題なく読めるので、注文前に値段を確認する癖もついた。
「今日は大角牛じゃないんですね」
リネットが言う。
「剣のお金払った」
「だから節約?」
「うん」
「森猪も十分食べてるじゃないですか」
「ご飯減らすのはだめ」
「そこは絶対なんですね」
「うん」
◆
杏々は煮込みを食べながら、今日覚えたランク表を思い出していた。
「黄」
「はい」
「赤」
「はい」
「緑」
「はい」
「青」
「はい」
リネットが感心する。
「ちゃんと覚えてるじゃないですか」
「赤は川鎧魚」
「やっぱりそっちで覚えてる」
「緑は赤角牛」
「はいはい」
「青は?」
「もう次を探すんですか?」
「何食べれる?」
「知りません!」
◆
杏々は少し残念そうにしながらも、また煮込みを口へ運んだ。
この世界へ来たばかりの頃、自分が何者なのかも分からなかった。
王宮では、勇者召喚に失敗したのではないかと言われた。魔力はなかった。文字も読めなかった。金の価値も分からず、魔物の名前も知らなかった。
ただ、お腹は空いた。
だから食べた。
美味しいものがあった。
もっと食べたくなった。
そのために冒険者になった。
白から始まった札は黒になり、今は黄色になった。杏々自身は、今日までその意味をあまり分かっていなかった。
「駆け出し」
杏々が呟く。
「はい?」
「私、駆け出しなんでしょ」
リネットが少し驚いたあと、頷いた。
「そうですね」
「じゃあまだいっぱいある」
「先は長いですよ」
「おいしいのも?」
「……たぶん、いっぱいあるんでしょうね」
「じゃあいい」
◆
杏々は満足そうに頷く。
帰る方法は、まだ分からない。
この世界についても、知らないことだらけだ。
北の森の向こうにも、王都の外にも、もっと遠い地方にも、杏々がまだ名前すら知らない食べ物がある。
「明日も仕事する」
「まず依頼を最後まで聞くんですよ」
「うん」
「ちゃんと覚えてますね。えらいです」
杏々がすぐに指を一本立てた。
「三回目」
「……本当に嬉しいんですね」
「うん」
それだけは、ランクの色よりずっとよく覚えていた。
第1章完結となります。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます
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