北の森は開く
北部第三農区で一週間の試験運用を終えてから、さらに三週間ほどが過ぎていた。
その間も杏々は、ほとんど毎日のようにギルドへ通っていた。薬草を採った日もあれば、荷車の護衛をした日もあり、牙鼠や角兎の討伐へ出た日もある。北の森の簡易巡回や魔術院の観測補助を頼まれることもあったが、毎日研究ばかりをしていたわけではない。
昇格したことで以前より報酬の良い依頼を受けられるようになり、盗賊捕縛の報奨金や調査補助費も加わった。相変わらず食費は大きかったものの、それでも注文剣のために分けた革袋は少しずつ重くなっている。
そして、この三週間で増えたのはお金だけではなかった。
毎日依頼書を見て、報酬を数え、屋台で値段を確認し、店で支払いをする。その繰り返しのおかげで、数字についてはもう日常生活で困ることがほとんどなくなっていた。金額も個数も時間も自分で読める。簡単な足し引きなら、面倒がりながらも一人でできる。
文字の方も、まだ文章をすらすら読めるほどではないが、「採取」「討伐」「護衛」「報告」「危険」「禁止」といった依頼で何度も見る言葉なら、かなり迷わず分かるようになった。食堂や屋台で頻繁に見る料理や食材の文字については、それ以上に覚えが早かった。
リネットに言わせれば偏りがひどいらしい。
杏々に言わせれば、必要なものから覚えただけだった。
北の森でも、この三週間の間に記録が積み重なっていた。第三農区では最低十分を基準としたピーク分散が続けられ、森林側の魔力密度は以前より高い最低値を保っている。横方向への急な引き込みも、試験後はほとんど確認されていない。同じ地脈構造を持つ隣接農区でも慎重に運用変更が始まり、農地だけでなく森側の数値まで見ながら調整するやり方が少しずつ広がっている。
森そのものが元通りになったわけではない。それでも、一か月近く記録を取り続けたことで、少なくとも以前のように悪化し続けてはいない、と判断できるだけの材料は揃い始めていた。
◆
その日の朝、杏々は北門近くのギルド支所で、新しく貼り直された掲示を見上げていた。
「変わった」
「分かります?」
隣にいたリネットが尋ねる。
「ここ。禁止、減った」
杏々が指差したのは、北の森に関する注意書きだった。
「あと、採取」
「そこまで読めました?」
「うん。危険もある」
「本当に増えましたね」
リネットが少し感心したように言うと、杏々はもう一度掲示を見た。
「二十」
「え?」
「赤露実、二十まで」
リネットが掲示を確認する。
「……数字まで先に読んでる」
「数字は分かるよ」
「いつの間にそんな自信満々になったんですか?」
「毎日お金見るから」
「理由があまりにも杏々さんらしいですね」
◆
今日から北の森では、部分開放区域が少しだけ広がることになっていた。
今回の変更は、森が完全に回復したと判断したからではない。第三農区周辺で魔力密度の急落が抑えられ、その状態が数週間続いていること。大型魔物が人里側へ移動する新しい兆候がないこと。閉鎖していた区域の一部でも、危険度が以前より上がっていないこと。そうした複数の記録を合わせた結果だった。
「もう大丈夫?」
杏々が尋ねる。
「そこまでは言ってません」
「まだ?」
「まだです。ただ、これ以上閉鎖区域を広げる必要はなさそうですし、一部は以前の使い方へ戻せそうだ、という段階です」
「ちょっと開ける」
「そういうことです」
「赤露実も増えた」
「採取上限が十二から二十になりましたね」
「読めた」
「はいはい。えらいですよ」
杏々がリネットを見る。
「一回目」
「……まだ数えてるんですか?」
「うん」
◆
今日の依頼も、その新しい開放区域に関係していた。
受付嬢が依頼書を差し出すと、杏々はいつものようにすぐ読み上げてもらおうとはせず、自分で紙を覗き込んだ。
「採取」
「はい」
「赤露実」
「はい」
「二十まで」
「はい」
「……報告」
「そこも読めますね」
その先で止まる。
「これ分かんない」
「『異常』です」
「異常」
「普段と違う危険な状態があれば報告、という意味です」
「覚える」
杏々は依頼書をもう一度見た。
「報酬……これ」
指で数字を追い、自分の中で数える。
「前の採取より高い」
受付嬢が目を丸くした。
「そこまで分かるんですか?」
「数字読めるから」
「少し前まで報酬額を毎回聞いていた人とは思えませんね」
「値段、大事」
「食べ物とお金が絡むと本当に強い……」
◆
依頼内容は、新たに再開する区域で赤露実を規定数まで採取し、その際に実の状態や魔物の痕跡、危険な変化がないか確認するというものだった。
「熟していない実は残す。枝を折らない。巣や穴を見つけても触らない。大型魔物の新しい痕跡があれば追わずに報告。開放区域から出ないこと」
受付嬢が最後に確認する。
「分かった」
「今日は一人でも受けられます」
「一人?」
「今のランクなら問題ありません」
「お」
杏々はもう一度依頼書を見て、それから報酬欄を確認した。
「これ、終わったらこの金額?」
「問題なく達成できれば」
「分かった」
「もう報酬の説明もいらなくなりそうですね」
杏々が受付嬢を見る。
「褒めた?」
「褒めましたよ」
「二回目」
リネットが横で小さく息を吐いた。
◆
北の森へ向かう道には、以前より人の姿が増えていた。採取籠を持つ者や巡回の冒険者、管理局の職員が行き交い、森の入口では新しく開放された範囲について説明を受けている人たちもいる。
「人いる」
「少しずつ戻ってきましたね」
今日は森林側の記録を回収する仕事があるため、リネットも入口までは一緒だった。
「杏々さん、今日は普通の冒険者依頼ですからね」
「うん」
「何か気になるものを見つけても、勝手に調査を始めないでください」
「しないよ」
「本当に?」
「仕事違う」
杏々が当然のように答えると、リネットは少し黙った。
「……ちゃんと分かってますね」
「三回目?」
「今のは褒めて――」
そこでリネットは杏々の顔を見る。
「……少し褒めました」
「三回目」
「判定が厳しい」
◆
入口でリネットと別れ、杏々は一人で森へ入った。
この一か月ほどで何度も歩いた道だが、今日から入れる場所は少し先まで伸びている。林床にはまだ草の薄い場所もあり、北西側ほど豊かになったわけではない。それでも、新しく悪くなった場所は見当たらなかった。
鳥の声がする。虫もいる。小動物の足跡も、数週間前から同じ程度の頻度で確認されている。
増えた、と断定できるほどではない。
ただ、減ってもいない。
「いる」
杏々はそれだけ確認して先へ進んだ。
◆
赤露実の採取区域に着くと、すぐには実へ手を伸ばさず、周囲の足跡や枝の折れ、穴や糞、大型種の気配を順番に確認した。危険な痕跡がないことを確かめてから、一つずつ赤露実を見る。
まだ小さい実も多い。以前とほとんど変わらないものもある。
けれど、三週間前と比べると、極端に小さいものばかりという印象ではなくなっていた。
「これ大きい」
一つだけ、明らかに育ちの良い実を見つける。
杏々はすぐに「戻った」とは言わなかった。
「一個だけ」
最近、リネットから何度も言われて覚えた。
一つだけでは分からない。
匂いを確認し、十分に熟している実だけを籠へ入れる。
「一」
次を見る。
「これはまだ」
赤みが浅いので残す。
「二、三」
別の枝から熟した実を採る。
数を数えるのに迷うことは、もうなかった。
◆
十五個まで採ったところで、杏々は手を止めた。
上限は二十個。
残っている熟した実を見れば、あと五個くらいなら採れそうだった。
けれど、森の入口で自分の後から採取籠を持って入ってきた人たちを思い出す。
「十五」
もう一度数える。
「これでいい」
籠を閉じた。
以前なら、二十個まで取っていいと言われれば二十個持って帰ったかもしれない。今は、上限が「取らなければならない数」ではないと知っている。
◆
帰路につこうとしたところで、茂みの向こうに動くものが見えた。
「角兎」
一匹の角兎がこちらを見ている。
以前より大きいかどうかは、見ただけでは分からない。
「普通」
角兎はしばらく杏々を警戒したあと、草の中へ逃げていった。
杏々は追わない。
今日は討伐依頼ではない。
「今度食べる」
それだけ言って歩き出した。
◆
少し先では、大きな足跡が見つかった。
「熊」
森爪熊のものらしい。
ただし新しくはない。土の縁は崩れ、雨の跡も残っている。以前にもこの辺りまで来た可能性があるため、これだけで行動範囲が戻ったとは言えない。
「古い」
杏々は足跡の向きだけを確認した。
「追わない。報告」
近くには小さな足跡らしきものもあったが、形が崩れていて二頭の子熊のものかまでは分からなかった。
「これも、分かんないって報告」
◆
森を出る途中、採取籠を持った親子とすれ違った。
小さな子どもが杏々の籠を見て尋ねる。
「赤露実?」
「うん」
「いっぱいある?」
「あるよ」
「甘い?」
杏々は少し考えた。
「前より甘いのもある」
「ほんと?」
「でも、すっぱいのもある」
「そっか」
母親らしい女性が頭を下げた。
「今日から少し奥まで入れるって聞いて来たんです。昔はこの時期になると、よく家族で採りに来ていたんですけど」
「最近来てなかった?」
「ええ。何年か前から危ないと言われていましたから」
女性は森の方を見る。
「また普通に入れるようになるといいんだけど」
「今、ちょっと」
「え?」
「ちょっとずつ開いてる」
杏々はそれ以上は言わなかった。
森が治った、とまではまだ言えない。
でも、悪くなり続けていた頃とは違う。
◆
ギルドへ戻ると、赤露実を検品へ出した。
「十五個ですね」
「うん」
「上限は二十個でしたけど」
「残した」
「理由は?」
「後から人来てた。あと、まだ小さいのある」
受付嬢は杏々を一瞬見てから、記録へ視線を落とした。
「成熟果十五個。未成熟果は残置。大型魔物の新しい危険痕なし。森爪熊らしき古い足跡あり、追跡せず。小型の足跡らしきものもあるが判別不能。角兎一匹、接触なし」
「うん」
「問題ありません。判断も適切です」
「四回目」
「即答ですね」
◆
検品した赤露実のうち、一部はギルドが買い取り、杏々は残りから二個だけ安く買い戻すことにした。
受付嬢が値段を提示する。
杏々は数字を見る。
「二個でこれ?」
「はい」
少し考え、今日の報酬から引く。
「平気」
「何がです?」
「剣のお金減らない」
「食費として分けてある分から出せるってことですか?」
「うん」
「自分で計算したんです?」
「した」
「……成長しましたね」
杏々が顔を上げる。
「五回目?」
「五回目でいいです」
「お」
◆
午後、杏々は魔術院へ寄った。
リネットの机には、第三農区だけでなく、隣接する農区や北の森の監視記録も並んでいる。
「戻った?」
「おかえりなさい。どうでした?」
「十五取った」
「上限二十でしたよね?」
「残した」
「どうしてです?」
「後から人来てた。小さいのもあった」
「なるほど」
リネットが杏々を見る。
「自分でそこまで判断したんですね」
「六回目?」
「……まだ褒める前です」
「顔」
「顔で数えないでください」
◆
杏々は買った赤露実を机へ置いた。
「大きい」
「本当ですね」
「一個だけじゃない。何個かあった」
「それは少し気になりますね」
「戻った?」
「まだ断定はできません。でも」
リネットは三週間分の記録を取り出した。
「三週間前、二週間前、先週と比べると、極端に小さい実の割合は少しずつ下がっています」
「割合?」
「小さいものばかりではなくなってきた、ということです」
「戻ってる?」
「回復傾向の可能性はあります」
「お」
「ようやく、そう言ってもいいくらいには記録が積み上がりました」
◆
二人で赤露実を半分ずつ食べる。
杏々が先にかじった。
「甘い」
「前より?」
「うん。でも前に食べた大きいやつと同じくらい」
リネットも食べてみる。
「……確かに、以前の北の実より酸味は弱いですね」
「森のせい?」
「それだけとは言えません。ただ、複数回の記録でも同じ傾向が続けば、魔力密度の安定との関係を考えられます」
「まだ見る」
「はい」
「長い」
「自然は一日で変わりませんから」
「三週間でも?」
「三週間だから、やっと変化らしいものが見え始めたんです」
「なるほど」
◆
「森側の魔力は?」
「第三農区周辺では安定しています。隣接農区も今のところ大きな問題はありません」
「横は?」
「ピーク分散後は確認されていません」
「畑は?」
「供給不足なし」
「じゃあ両方食べてる」
「杏々さん流に言えば、そうですね」
杏々は満足そうに頷いた。
◆
その日の夕方、木苺亭で杏々は買った赤露実のもう一個を厨房へ持ち込み、簡単に焼いてもらった。
店内の品書きを見ながら、杏々は指を動かす。
「森猪、煮込み……これ大角牛?」
「読めるようになったんですか?」
リネットが驚く。
「食べたことあるのは分かる」
「なるほど。料理名だけ異常に強い」
「あと値段」
「そっちはもう完璧ですね」
杏々は品書きの数字を見比べる。
「大角牛、高い」
「以前もそう言ってました」
「今日は森猪」
「ちゃんと予算を考えて選んでる……」
「剣ほしいから」
◆
やがて、半分に割った赤露実へ少量の蜜をかけて焼いたものが運ばれてきた。加熱すると酸味が丸くなり、中の甘さが少し強く感じられる。
「おいしい」
杏々が言う。
リネットも一口食べた。
「前より蜜が少ないですね」
「うん。それで平気」
店の者も味を確かめる。
「最近、北から入ってくる赤露実は少し状態が良くなったって話は聞くね。まだ昔ほど安定してないけど」
「昔は?」
「もっと大きくて、甘みも強かったらしいよ」
「戻る?」
「そうなれば仕入れる側は助かるね。ジャムにも菓子にも使いやすくなる」
「お」
◆
杏々は焼いた赤露実を食べながら、この一か月を思い返した。
最初は、何が起きているのか分からなかった。
森の魔力が減っている。赤露実が小さい。魔物の肉が減っている。森爪熊が人里へ近づいている。それぞれ別々に見えていたものが、少しずつ繋がった。
農地へ必要な魔力を送ること自体が悪かったわけではない。ただ、一度に強く引きすぎていた。そして、人間が使う側の数字ばかりを見て、森の側を誰も見ていなかった。
使う時間を少しずらし、森の分も一緒に見るようにした。
それから三週間。
森は急に元通りにはならなかった。
それでも、悪くなり続けることは止まり、ようやく小さな変化が見え始めている。
◆
「リネットちゃん」
「はい?」
「森、開いた」
「少しだけですけどね」
「前は閉じてた」
「はい」
「今は人入れる」
「はい」
「実も、ちょっと戻ってるかも」
「そうですね」
「じゃあ」
杏々は残っていた赤露実を食べる。
「やった?」
リネットは少し考えた。
「少なくとも、最初の問題に対してはかなり前へ進みました。それに杏々さん自身も、最初にここへ来た時とはずいぶん変わりましたよ」
「私?」
「数字はほとんど読めるようになりましたし、依頼書も一部なら自分で読める。報酬の計算もするようになって、採取上限いっぱいまで取らなくてもいい理由も自分で判断できるようになりました」
杏々がじっとリネットを見る。
「褒めてる?」
「はい。かなり」
「今日何回?」
「……六回くらいじゃないですか?」
杏々の目が少し輝いた。
「六」
「そんなに嬉しいんですか?」
「うん」
即答だった。
リネットはその顔をしばらく見つめてから、何かを理解したように目を細めた。
「……なるほど」
「なに?」
「いえ。今後の参考にします」
「?」
◆
北の森は、まだ元通りではない。完全に安全になったわけでもない。
それでも、閉じるしかなかった区域の一部が再び開き、人が入り、採取できるようになった。
悪くなり続けていた森は、ようやく立ち止まった。
そして杏々も、この世界へ放り出されたばかりの頃とは違う。
数字を読める。
仕事の言葉も少し読める。
自分で金を稼ぎ、自分で使い道を考える。
まだ知らないことの方が多い。
それでも、ここで暮らすために必要なものを、一つずつ覚え始めていた。
「杏々さん」
「なに?」
「明日は普通の依頼にします?」
「食べれる?」
「まず内容を最後まで聞いてください」
「うん」
リネットは少し考えたあと、付け加える。
「ちゃんと最後まで聞けたら、褒めますよ」
杏々がすぐに顔を上げた。
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ聞く」
「…………」
「なに?」
「やっぱり参考になりました」




