森の分
一週間の試験運用が終わった翌日、杏々は王宮魔術院の会議室で欠伸をしていた。
「ねむい」
「寝ないでください」
「話長い」
「まだ始まってません」
「もう長い」
「どういうことですか?」
杏々の前には、第三農区で行った一週間分の試験結果をまとめた厚い紙束が置かれている。晴れの日、曇りの日、小雨の日。利用量が多い時間と少ない時間。東側を先に使った場合と西側を先に使った場合。十分ずらした時と十五分ずらした時。その全部が細かく記録されていたが、杏々にはほとんど読めなかった。
「いっぱい」
「いっぱい調べましたからね」
「私もいた」
「かなりいましたね」
「じゃあ読まなくていい?」
「杏々さんは元から全部読めません」
「そっか」
今日の会議には魔術院だけでなく、農業管理局の技師や北部農地の監督も参加していた。机の中央には北部の地図が広げられ、第二集積所、第三農区、北の森、森林支脈、そしてこれまで測定してきた地点が書き込まれている。
「では、第三農区における供給ピーク分散試験について、魔術院側の見解をお願いします」
管理局の担当者に促され、リネットの先輩術師が頷いた。
「現時点では、有効と判断しています。東西二系統の高負荷時間を十分以上分散した場合、農地への必要供給量を維持しながら、森林支脈の急激な魔力密度低下を大きく抑制できました」
「成功?」
杏々が顔を上げる。
「杏々さん」
「だって昨日も成功って言った」
「試験としては、です」
技師が記録へ目を落とした。
「横方向流動は?」
「十分、十五分の分散条件では、今回の試験期間中には確認されていません」
「五分では出た」
杏々が言うと、一瞬だけ全員の視線が集まった。
「……はい。五分条件では短時間ですが、南東方向への流動が再現されています」
リネットが答える。
「覚えていたんですか?」
「見た」
「そうでしたね」
農地監督が腕を組む。
「作物側には十分でも十五分でも問題は出ていない。なら十五分でいいんじゃないか? 森側はその方が安定していたんだろ?」
「森林側だけを見るなら、そうです。ただ、農作業の工程まで十五分動かす区域が増えれば、現場の負担も大きくなります」
「第三農区一つなら問題ないが、北部全体となると話が変わるな」
杏々は地図を見た。
「十分なら?」
「現場側としては、かなり取り入れやすい。今までの作業手順を大きく変えずに済む」
「森も?」
「試験では、かなり改善していた」
「じゃあ十分」
「そう簡単に決めるものでは――」
リネットが言いかけたところで、管理局の担当者が小さく笑った。
「いや。大まかな方向としては、杏々さんの言う通りだ」
最終的に提案されたのは、十五分の一律運用ではなかった。最低十分を基準としてピークを分散し、農地側に余裕がある日はさらに長くずらす。ただし、作物の状態や天候によって必要量が増えた場合には、農地側の判断で調整する。
「ずっと同じじゃない?」
「はい。晴れが続く日と雨の日では必要な供給量が違いますし、気温でも変わります」
「畑いっぱい食べる時は?」
「必要な分は送ります」
「森は?」
「そこで、もう一つ変えることがあります」
リネットが地図の森側を指した。そこは、これまで何度も測定してきた森林支脈の観測地点だった。
「これまで農地設備の運用では、主幹線と農地側の供給量を中心に確認していました」
「森見てなかった」
「そうです」
「今度見る?」
「見ることになりました」
杏々が少し身を乗り出す。
「毎日?」
「簡易測定ですが、定期的に」
「高いやつ?」
「高い三組を毎日置くわけではありません」
「そっか」
「安心する場所がおかしいですよ」
管理局の担当者が続けた。
「森林側にも暫定的な監視地点を設けます。森の魔力が急に下がっていないか確認する場所です」
「減ったら?」
「まず供給ピークの重なりを確認する。それでも低下が続くなら、状況によっては農地側の出力を一時的に調整します」
「畑足りなくならない?」
「そこは農業側の必要量と相談する」
「両方見る」
「そういうことだ」
杏々はしばらく地図を見つめた。
「前は、畑の分だけ見てた」
「はい」
「今は森の分も見る」
「そうですね」
「なるほど」
大した言葉ではなかった。それでも、会議室は一瞬だけ静かになった。
農地へどれだけ届いたか。主幹線に異常がないか。設備が予定通り動いているか。これまで確認していたのは、ほとんどが人間が使う側の数字だった。森の側にどれだけ残っているかは、運用の基準に入っていなかった。
「森の分、残す?」
杏々がもう一度尋ねる。
先輩術師は少し考えてから頷いた。
「その考え方でいいと思います。農地に必要な量は使います。でも、周囲へどんな影響が出ているかも一緒に見る。そのための監視です」
「全部取らない?」
「そうですね」
「分かった」
ただし、北部第二集積所そのものが悪い設備だと決まったわけではない。六年前の増強によって農地の生産量は増え、それで食べられるようになった人もいれば、不作を防げた年もある。
「これなくしたら?」
「困ります」
農地監督が即答した。
「どのくらい?」
「かなりだ」
「ご飯減る?」
「減る可能性が高い」
「じゃあなくさない」
「だから、使い方を変えるんです」
リネットも頷いた。
「設備そのものが悪いというより、増強した後で周辺への影響を十分に確認しないまま、以前と同じ基準で運用を続けていたことが問題だったんだと思います」
「知らなかった?」
「はい」
「じゃあ次から見る」
「そういうことです」
そこから会議はさらに長く続いた。誰が測定するか。記録をどこへ送るか。どこまで下がれば異常と判断するか。農地側が緊急で供給量を上げたい時にはどうするか。雨の日、設備点検日、農繁期にはどう扱うか。
杏々は途中から机へ頬をつけていた。
「杏々さん」
「起きてる」
「目閉じてます」
「聞いてる」
「今、何の話でした?」
「ご飯減らさないで、森も減らさない」
「……大筋は合ってます」
昼前になって、ようやく会議が終わった。
「終わり?」
「終わりです」
「ご飯?」
「そこへ行くと思いました」
「長かった」
「重要な会議だったんですよ」
「お腹すいた」
「それも杏々さんには重要なんでしょうね」
「うん」
廊下へ出ると、ギルドの職員が待っていた。
「杏々さん、午後は予定あります?」
「ご飯」
「その後です」
「ない」
「ちょうどよかった。北の森の状況確認依頼が出ています」
「また調査?」
「半分はそうですね。ただ、今回は魔術院だけの研究ではなく、ギルドが出す正式な森林巡回です」
部分開放を続けている北の森で、魔物の活動域、足跡、採取対象、危険種などに変化がないか確認する仕事だった。
「冒険者の仕事?」
「はい」
「お金出る?」
「出ます」
「やる」
「決断が早い」
「今日はフィアさんと組んでもらいます」
「フィア」
「以前、北の森で一緒になりましたよね」
「覚えてる」
「本当ですか?」
「顔」
「名前も覚えてください」
「フィア」
「今言ったからでしょう!」
昼食を済ませると、杏々はフィアと一緒に北の森へ向かった。
「久しぶり」
「うん」
「最近ずっとこっちにいるって聞いたけど」
「測ってた」
「魔術院の人みたいになってるらしいな」
「冒険者」
「そこは譲らないんだ」
「うん」
森へ入る前に、二人は掲示板を確認した。部分開放、採取上限、立入禁止区域、危険情報。杏々が一つの文字を指差す。
「これ読める」
「どれ?」
「禁止」
「そこか」
「危険も」
「増えたな」
「うん」
「最初の頃、全然読めなかったもんな」
「今もちょっと」
「ちょっとどころじゃないだろ」
森へ入ると、まず以前と同じ道を通って赤露実の採取区域へ向かった。
「実ある」
「あるな」
フィアも枝を見る。
「前より多くないか?」
「ちょっと」
「お前もそう思う?」
「うん」
ただし、杏々は手を伸ばさなかった。今日は採取依頼ではない。
「食べないの?」
「許可ない」
「…………」
「なに?」
「いや。本当にちゃんと冒険者になったなって」
「前も冒険者」
「そういう意味じゃなくて」
少し奥へ進むと、灰尾狐の足跡、小型の角兎、虫や鳥の姿が見つかった。
「角兎」
「いるな」
「前より大きい?」
「どうだろうな」
二人が距離を取ったまま見ていると、角兎は杏々たちを警戒して草の中へ消えていった。
「追わない?」
フィアが尋ねる。
「今日、討伐じゃない」
「正解」
「食べたかった」
「そこは変わってないな」
さらに進むと、地面に大きな足跡が残っていた。杏々が立ち止まる。
「熊」
「森爪熊だな」
「親?」
「大きさ的には、たぶん」
「北西の?」
「可能性はある」
二人は足跡だけを確認し、追跡はしなかった。森爪熊の一家は現在、討伐対象ではない。北西側へ移動してから人里へ下りる行動も減っている。
「戻ってきた?」
「この辺まで行動範囲を広げた可能性はあるな」
「ご飯増えたから?」
「それならいいけど」
足跡の近くには掘り返された土があり、果実の種や小動物の毛も落ちていた。
「食べてる」
「みたいだな」
「前より森で食べれる?」
「そうかもしれない」
杏々がしゃがみ込み、少し離れたところを指差した。
「子どももいる」
「分かる?」
「小さい足」
親の足跡の横に、少し小さな跡が二つ続いている。
「ああ。本当だ。まだ一緒なんだな」
「元気?」
「歩けてるなら、少なくともな」
「そっか」
杏々は少しだけ笑った。
「よかった」
フィアが横目で見る。
「熊、好きなの?」
「肉は食べてない」
「そうじゃない」
「?」
「……まあいいや」
巡回を続けて森の中心部へ入ると、以前魔力密度が低かった区域へ出た。北西の川沿いほど豊かな様子ではなく、赤露実も小さいものが混じり、魔物の痕跡も場所によって薄い。
「全部戻ってない」
「そりゃそうだろ。何年もかかって変わったんだろ?」
「五年くらい」
「なら、一週間で元通りにはならないさ」
「うん」
フィアは周囲を見回した。
「でも、前に来た時よりは森っぽい」
「森っぽい?」
「音がする」
「私も言った」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ、気のせいじゃないかもな」
その時、茂みの奥で枝が揺れた。フィアが武器へ手をかけ、杏々も音のした方を見る。葉の向こうから現れたのは、一匹の牙鼠だった。
「牙鼠」
「一匹だな」
牙鼠も二人を見る。数秒の間、互いに動かなかったが、やがて牙鼠の方が先に向きを変え、そのまま反対方向へ走っていった。
「逃げた」
「追うなよ」
「追わない」
「言う前に分かってたか」
「うん」
杏々は逃げていく牙鼠を見送りながら言った。
「ちょっと太かった」
「そこ見る?」
「肉」
「今日は食えないぞ」
「知ってる」
巡回の最後に、二人は新しく設けられた森林側の簡易監視地点へ寄った。低い杭には簡易測定板を固定するための溝と、記録を残す箱がつけられている。
「これ?」
「今日から使うやつらしい」
杭には杏々でも読めるよう、大きな印がつけられていた。
「森?」
「森林側の観測点って意味だってさ」
「畑だけじゃない」
「ん?」
「今まで畑だけ見てた」
「ああ」
フィアも杭を見る。
「今度は森も見るってことか」
「うん」
杏々は杭へ軽く触れた。
「森の分」
「何それ?」
「残すやつ」
「……よく分からんけど、たぶん大事なんだろうな」
「うん」
王都へ戻ると、ギルドで巡回報告を行った。赤露実、角兎、牙鼠、灰尾狐、森爪熊親子の足跡。危険行動なし。人里方向への大型魔物の新しい移動痕もなし。
「森爪熊が中央寄りまで戻っている可能性がありますね」
受付嬢が記録する。
「危険?」
「今のところは」
「また」
「まだ、ですよ」
「うん」
受付嬢は続ける。
「採取区域についても、もう少し様子を見れば上限を見直せるかもしれません」
「いっぱい取れる?」
「森の状態が良ければ」
「赤露実?」
「それもです」
「お」
「まだですよ」
「また」
依頼報酬を受け取り、杏々は革袋へ入れた。
「増えた」
「最近それ言うな」
フィアが横から覗く。
「何か買うの?」
「剣」
「今のじゃ駄目?」
「注文の欲しい」
「へえ」
「あと食べる」
「それで貯まるのか?」
「最近貯まる」
「ならいいけど」
夕方、木苺亭で杏々は森猪の煮込みとパンを食べていた。肉の脂と豆、香味野菜が溶け込んだ汁へパンを浸し、一口食べる。
「おいしい」
向かいに座ったリネットが尋ねる。
「今日はどうでした?」
「森っぽかった」
「フィアさんと同じ言い方ですか?」
「音いっぱい」
「そうですか」
「熊いた」
「えっ」
「足跡」
「ああ……」
「子どもも」
「北西から行動範囲が戻り始めたのかもしれませんね」
「ご飯あるから?」
「そうなら、かなり良い兆候です」
「牙鼠も太かった」
「そこは記録に書いたんですか?」
「書いてない」
「正解です」
杏々は煮込みの汁を吸ったパンを食べながら、少し考えた。
「リネットちゃん」
「はい?」
「森、もう大丈夫?」
リネットはすぐには答えなかった。
「いいえ。まだ魔力密度が低い場所があります。赤露実も全部戻ったわけではありません。第三農区以外では、同じ方法が使えるかどうかも分かっていません」
「そっか」
「でも、これ以上悪くしないためにできることは見つかりました。それに、少しずつ戻り始めている可能性もあります」
「うん」
「じゃあ、今はそれでいい」
「珍しく長い目で見ますね」
「五年のやつだから」
「覚えてたんですね」
「うん」
リネットは少し笑った。
「杏々さん、最初に北の森へ来た時のこと、覚えています?」
「熊いた」
「それもそうですけど」
「実すっぱかった」
「それもです」
「魔力少なかった」
「はい」
あの頃は、何が起きているのか誰にも分からなかった。森爪熊がなぜ人の近くへ出てきたのか。赤露実がなぜ小さく酸っぱくなったのか。魔物がなぜ減っていたのか。北の森の魔力が、なぜ低いのか。
今は、その全部ではないにしても、一つの答えが見えている。
農地へ魔力を送る設備。その高負荷運用が北の森からも魔力を引いていた。そして使い方を少し変えれば、畑を止めることなく、森への負担を減らせる。
「原因、分かった?」
「北の森については、かなり」
「全部?」
「全部ではありません」
「また」
「はい」
リネットは窓の外へ視線を向けた。
「むしろ、北だけが特別なのかは、まだ分かりません」
杏々がパンを食べる手を止める。
「南は普通だった」
「はい」
「じゃあ北だけ?」
「今回調べた南側は、です。王国には農地も魔力設備も、もっとたくさんあります。全部を調べたわけではありません」
「うん」
「だから――」
杏々が先に言った。
「まだ?」
「……はい」
リネットが笑う。
「まだ、です」
杏々はしばらく考えたあと、煮込みの汁をたっぷり吸ったパンを口へ運んだ。
「じゃあ次も見ればいい」
「そうですね」
「おいしいものあるかも」
「最後で全部台無しです」
「大事」
「知ってます」




