朝ごはんが二回
まだ空が薄暗い時間、杏々は王宮の食堂で焼いたパンを食べていた。
「早いですね……」
向かいに座っているリネットは、眠そうに眼鏡の位置を直している。
「うん」
「眠くないんですか?」
「ちょっと」
「その割には普通に食べてますね」
「お腹は起きてる」
「便利ですね……」
杏々の皿には、パンと焼いた岩鳥の肉、それから温かい豆のスープが載っていた。いつもの朝食より少し簡単だが、出発前に食べるには十分な量だ。
「今日何するんだっけ?」
「昨日話したでしょう」
「時間」
「そうです」
リネットは小さくため息をつき、持ってきた紙をテーブルへ広げた。
「北側農地と、その近くの森側支脈を、一日の中で何度か測ります」
「何回?」
「朝、昼前、昼過ぎ、夕方。最低四回です」
「ずっと外?」
「ほぼ一日ですね」
「お昼ある?」
「あります」
「やった」
「そこは忘れてないんですね」
◆
今回の調査は、王宮魔術院と魔力管理局、それから農地設備の保守担当による合同観測だった。目的は単純で、農地側の魔力利用量が一日中同じではないことを確認し、水路を開ける時間や調整柱が作物へ魔力を送る時間、設備の負荷が上がる時間に合わせて、周囲の魔力の流れがどう変わるかを見るのである。
「杏々さんには、機材運びをお願いしています」
「重いやつ?」
「はい」
「いっぱい?」
「はい」
「分かった」
「嬉しそうですね」
「仕事ある」
「そういう意味で言ったんじゃないんですが」
◆
北門へ着くと、すでにダリオが待っていた。
「早いな」
「朝ごはん食べた」
「聞いてない」
「ダリオは?」
「食った」
「何?」
「麦粥」
「おいしい?」
「普通だ」
「今度食べたい」
「朝から元気だな……」
ダリオの横には、以前も見た透明な結晶付きの測定棒と、何枚かの探査板が積まれている。
「これ持つ?」
「こっちの箱も頼む」
「うん」
杏々は箱を二つ重ねて持ち上げた。
「それ両方か?」
「うん」
「……まあいい」
ダリオはもう驚かなくなっていた。
◆
少し遅れて、管理局のローディンもやって来た。
「おはようございます」
「おはよ」
「今日は長いぞ」
「お昼ある」
「そこを基準にするな」
「朝ごはんも食べた」
「もう食べたのか?」
「うん」
「……じゃあ問題ないか」
「何がですか?」
リネットが呆れたように言う。
◆
最初の観測地点は、北部農地にある第二集積所の近くだった。そこは六年前、農地拡張に合わせて改修された施設で、農業側へ流せる魔力量を一・四倍まで増やした場所でもある。
「今日は止めたりする?」
杏々が尋ねる。
「しない」
ローディンが答えた。
「通常運用のまま測る」
「いつも通り?」
「ああ。今日は実験じゃない」
「見るだけ」
「そうだ」
調査側から設備を操作すれば、それ自体が結果へ影響してしまう。まず知りたいのは、普段の運用で何が起きているのかだった。
◆
「朝一番」
ダリオが測定棒を立てる。杏々は観測柱を指定された位置へ置いた。
「ここ?」
「そこ」
「今日は普通?」
「今のところは」
結晶が淡く光り、探査板に細い線が伸びる。
「農地側、流量安定」
ローディンが記録する。
「昨日までの平均範囲内ですね」
リネットも数値を書き込んだ。
「森側は?」
「次だ」
◆
そこから少し離れた森側へ移動し、以前測った支脈に近い地点で観測を行う。
「ここ低かったところ?」
「そうです」
リネットが答えた。
「北の森中央部ほどではありませんが、農地側と比べると低い場所です」
「測る」
「お願いします」
杏々が柱を立てると、結晶が光り、探査板へ数値が表示された。
「朝は……」
ローディンが探査板を見る。
「昨日の簡易測定と大差ない」
「大きな変化なし」
リネットが記録する。
「普通?」
杏々が聞く。
「今のところは」
「また」
「今日は特に、その言葉が多くなりますよ」
◆
二地点を測り終えると、いったん農地側へ戻った。杏々はそこで水路へ目を向ける。
「水少ない」
「まだ本格的に開けてないからな」
ダリオが答えた。
「もう少ししたら増える」
「時間決まってる?」
「作物と区画によるが、今日は八の鐘の少し前からだ」
「鐘鳴ったら水増える?」
「だいたいな」
「魔力も?」
「それを見るんだよ」
「なるほど」
◆
次の観測まで少し時間があったため、杏々は農道脇へ座った。
「眠いですか?」
リネットが聞く。
「ちょっと」
「まだ朝ですよ」
「いつもより早い」
「それは私もです」
「リネットちゃん眠そう」
「かなり」
「寝る?」
「仕事中です!」
「私はちょっと寝れる」
「羨ましい……」
杏々が膝を抱えると、数分もしないうちに本当に目を閉じた。
◆
「杏々さん」
「ん」
「起きてください」
「ご飯?」
「違います」
「そっか」
「その反応やめてください」
ちょうどそのとき、遠くで鐘が鳴った。
「来た」
ダリオが水路を見る。水門が少しずつ開き、水量が増えていく。それに合わせて、調整柱の光も少し強くなった。
「光った」
「負荷が上がった」
ダリオが答える。
「水路だけじゃなく、東側区画の生育補助もこの時間から増える」
「いっぱい使う?」
「朝の山の一つだな」
◆
第二回の観測では、農地側の流量が上昇していた。
「朝一番より一割少し上」
ローディンが言う。
「想定範囲ですね」
リネットが記録する。
「集積所側の供給も増えてる」
ダリオが設備記録を見る。
「正常運用だ」
「次、森?」
杏々が聞く。
「ああ」
◆
森側へ移動し、同じ地点で同じ器具を使い、同じ手順で測定する。探査板が光り、リネットが数値を確認した。
「少し下がってます」
「どのくらい?」
「朝一番より数パーセント」
ローディンが眉を寄せる。
「誤差範囲を少し越えるかどうかだな」
「農地上がった時に?」
杏々が聞く。
「時間は重なっています」
リネットが答えた。
「でも」
「まだ?」
「はい。一回だけです」
リネットはすぐに頷いた。
「気温、植物活動、近くの魔物、他の術式。時間で変わる要因はいくらでもあります」
「じゃあまた測る」
「そうです」
◆
農地へ戻る途中、杏々が「お腹すいた」と言った。
「さっき食べましたよね?」
リネットが尋ねる。
「朝早かったから」
「まだ普通なら朝食の時間ですよ」
「じゃあ朝ごはん食べれる?」
「二回目です!」
「やった」
「喜ばないでください!」
ダリオが笑った。
「保守詰所に軽食あるぞ」
「ほんと?」
「作業員用だけどな」
「私も作業員?」
「荷物持ってるし、いいだろ」
「やった」
◆
保守詰所では、平たいパンに塩味の白いチーズ、細切りの干し肉、それから温かい土玉芋の薄切り焼きが用意されていた。
「二回目」
杏々が嬉しそうに言う。
「本当に食べるんですね……」
リネットは飲み物だけ受け取っていた。
「リネットちゃん食べない?」
「さっき食べたので」
「おいしいよ」
「知ってます」
杏々が土玉芋を一枚持ち上げる。
「表かりかり」
「誘惑しないでください」
「中ほくほく」
「実況もしないで!」
◆
「でも」
ダリオがパンを食べながら言った。
「農地側が上がって、森側が下がったって?」
「今のところ、一回だけです」
リネットが答える。
「時間は一致していますが、原因までは分かりません」
「設備側の記録は?」
「正常」
「異常負荷もなし」
ローディンも頷いた。
「つまり、普段通り動かしてるだけだ」
「それが大事なんです」
リネットが言う。
「異常な操作をしていない時に何が起きるか見たいので」
「なるほどな」
「もし毎回同じ傾向が出れば」
「調べる価値は上がる」
「はい」
杏々が土玉芋を食べながら言った。
「ご飯作る時に、森の分ちょっと減る?」
全員が杏々を見る。
「…………」
「違う?」
「可能性の一つです」
リネットが慎重に答える。
「でも、それを言うにはまだ早いです」
「また」
「今日は本当に多いですね、そのやり取り」
◆
昼前の三回目の観測では、農地側の負荷が少し落ちていた。
「朝の山は過ぎた」
ダリオが言う。
「今は維持運転」
「農地側、朝より下がってます」
リネットが数値を読む。
「最初の観測よりは、まだ少し高い」
「森側は?」
杏々が聞く。
「測りましょう」
◆
森側で観測柱を立て、探査板を確認すると、リネットが目を細めた。
「戻ってます」
「どこまで?」
「朝一番とほぼ同じ」
ローディンが記録を見比べる。
「農地側の負荷が上がった時だけ下がったように見えるな」
「一回ずつですが」
「そうだ」
「まだ?」
杏々が聞く。
「まだです」
「分かった」
「でも」
リネットが続けた。
「調べる価値はあります」
「お」
「少なくとも、時間帯ごとに測る意味はありました」
◆
昼には、農地の作業所で正式な昼食が出された。焼いた岩鳥に豆、葉野菜、パン、そして薄く切った月蜜果まで並んでいる。
「三回目?」
「朝食二回と昼食です!」
「いっぱい」
「嬉しそうですね……」
「あ」
杏々が月蜜果を一切れ食べる。
「好きなやつですか?」
「甘いやつ」
「前に市場で見てましたね」
「うん」
「甘い」
「名前の通りですね」
「もう一個」
「どうぞ」
「リネットちゃん今日優しい」
「朝から働いてますから」
「いつも働いてる」
「杏々さんは食べる方です!」
◆
食後、ローディンとダリオが設備記録を確認する一方で、リネットは朝からの数字を並べていた。農地側、森側、時刻、水路、調整柱。それぞれの記録を見比べている。
「分かる?」
杏々が横から見る。
「数字だけなら」
「どう見えます?」
「ここ上がってる」
「はい」
「ここ下がってる」
「はい」
「次、戻ってる」
「はい」
「反対」
「そうなんです」
杏々は少し考えた。
「引っ張ってる?」
「…………」
「違う?」
「まだ何とも言えません」
「また」
「でも、その可能性も含めて見ています」
◆
「ただ」
リネットは別の紙を出した。
「一つ問題があります」
「何?」
「農地側と森側を同時に測っていません」
「順番」
「そうです」
農地側を測ってから森側へ移動するため、どうしても少し時間がずれる。
「その間に変わってるかも?」
「はい」
「じゃあ二個あればいい」
「測定器が?」
「うん」
「そうなんですが」
ローディンが苦い顔をした。
「高いんだよ」
「いくら?」
「聞かない方がいい」
「剣より?」
「物によるが、たぶんかなり高い」
「じゃあ無理」
「即答だな」
「もったいない」
◆
「管理局に追加機材を頼みます」
リネットが言う。
「通るか?」
ローディンが尋ねる。
「今日の記録をつければ、理由にはなると思います」
「一回じゃ弱いぞ」
「分かっています」
「じゃあ?」
「今日の夕方まで測ります」
「それで同じ傾向が出たら?」
「継続観測の申請を出します」
「なるほど」
◆
午後になると、農地側の負荷は一度低くなったあと、別の区画への供給開始に合わせてまた上がった。
「第二の山」
ダリオが言う。
「朝ほどじゃない」
「でも上がった」
杏々が探査板を見る。
「そうだな」
農地側を記録してから森側へ移動し、測定を行う。すると、リネットの手が止まった。
「また下がってます」
「朝と同じ?」
「幅は少し小さいですが」
「農地上がる」
杏々が言う。
「森下がる」
「そう見えます」
「二回」
「はい」
「まだ?」
「まだです」
「分かった」
「今日は素直ですね」
「何回も聞いたから」
◆
ただし、探査板の線そのものは、以前の第六観測点で見た横へ流れるような波形とは違っていた。森側の値が少し下がる。それだけで、方向までは分からない。
リネットも、第六観測点の記録を思い出さなかった。今はまだ、別の観測だった。
◆
夕方の最後の測定では、農地側の負荷が一日の中で最も低い状態へ近づいていた。
「作業終わり」
杏々が言う。
「農地側は、です」
ダリオが答える。
「夜も最低限は流してる」
「ゼロじゃない?」
「ああ」
「森側は?」
「測るぞ」
◆
最後に森側で測定すると、リネットが探査板を見ながら言った。
「朝一番より、少し高い」
「上がった?」
「ほんの少しです」
「農地下がったから?」
「可能性はあります」
「まだ?」
「もちろん」
「分かった」
杏々はもう驚かなかった。
◆
王都へ戻る頃には、空が赤くなっていた。
「疲れた」
リネットが言う。
「眠い?」
「それもあります」
「私はお腹すいた」
「三回食べましたよね?」
「夕ご飯まだ」
「それはそうですが!」
◆
王宮魔術院では、夕方の会議に朝からの記録が机いっぱいに並べられていた。
「まとめるぞ」
先輩術師が言う。
「農地側の利用量が増えた時間帯が二回」
「はい」
リネットが答える。
「その直後に測った森側では、二回とも値が低下しています」
「農地側の負荷が落ちた後は?」
「森側も元の範囲へ戻っています。夕方は朝よりわずかに高めでした」
「再現性は?」
「まだ不十分です」
「同時観測じゃない」
「はい」
「原因も?」
「不明です」
「他の要因は?」
「除外できていません」
先輩術師が頷いた。
「なら結論は出せない」
「はい」
「ただし」
別の記録を見る。
「無視もできないな」
「はい」
◆
「次は?」
「同時観測です」
リネットが答える。
「農地側と森側へ別々に機材を置いて、同じ時間で測ります」
「管理局へ申請?」
「します」
「設備側の詳細運用記録も必要だな」
「ダリオさんが協力してくれます」
「森側は?」
「ギルドにも観測地点への立ち入り許可を相談します」
「分かった」
◆
杏々は会議室の端で、小さな菓子を食べていた。
「杏々さん」
「なに?」
「聞いてます?」
「聞いてる」
「本当に?」
「農地いっぱい使うと森ちょっと減るかも」
「…………」
「でもまだ」
「正解です」
「やった」
「そこまで理解してるなら十分です」
◆
「でも」
杏々が菓子を食べながら尋ねた。
「もし本当にそうだったら?」
「何がです?」
「農地使うと森減る」
リネットはすぐには答えなかった。
「止める?」
「簡単にはできません」
「なんで?」
「農地も必要だからです」
「ご飯作る」
「はい」
王都にも村にも畑にも、そこに住む人たちがいる。彼らは魔力を使って作物を育てている。
「森もご飯いる」
「そうです」
「人もいる」
「そうです」
杏々は黙り、少し考えた。
「両方足りるようにする?」
「それができれば一番です」
「じゃあそれ」
「方法が分からないんです」
「また大変」
「本当に大変なんです!」
◆
その夜、王宮の食堂で杏々が尋ねた。
「今日何食べる?」
「朝からずっとそれですね……」
「いっぱい働いた」
「それは認めます」
夕食には、大角牛の煮込み、焼いた土玉芋、葉野菜、パンが並んでいた。
「大角牛」
「赤角牛ではありませんよ」
「分かってる」
「念のためです」
杏々が煮込みを食べる。
「おいしい」
「今日四回目ですかね」
「何が?」
「食事」
「朝ごはん二回、昼、夜」
「本当に四回ですね……」
「働いたから」
「そういうことにしておきましょう」
◆
杏々は大角牛の肉を食べながら、昼間のことを思い出していた。
「リネットちゃん」
「はい?」
「魔力って」
「はい」
「いっぱいあるように見えても、使う時間で足りなくなる?」
「可能性はあります」
「ご飯みたい」
「またですか?」
「大皿いっぱいあっても」
「はい」
「みんな一気に食べたらなくなる」
「…………」
リネットが少し止まる。
「かなり近い考え方かもしれません」
「ほんと?」
「量だけじゃなくて」
リネットは机に指で線を描いた。
「どこから、どこへ、どの速さで流れるかが大事なんです」
「道?」
「そうです」
「詰まったり」
「します」
「引っ張られたり」
「……それも、ありえます」
「なるほど」
◆
今日分かったことは、ほんの少しだけだった。農地側で魔力の使用量が増える時間には、森側の値が少しだけ下がっていた。それが二回、同じ傾向として確認された。
けれど、まだ同時には測っていない。原因も分からない。
それでも、北の森の問題は少しずつ、時間の中でも形を見せ始めていた。
「明日も測る?」
杏々が聞く。
「申請が通れば」
「朝早い?」
「たぶん」
「朝ごはん二回?」
「そこ期待しないでください!」




