ひとりで行っていい
翌朝、杏々が冒険者ギルドへ入ると、いつものように掲示板へ向かった。
「護衛」
昨日覚えた文字を見つけると、杏々は指でなぞりながら呟いた。
「読めた」
「復習できてますね」
後ろから受付嬢が声をかける。
「うん」
「では、これは?」
受付嬢が別の依頼書を指すと、杏々はしばらく眺めた。
「討……」
「討伐です」
「とうばつ」
「これは覚えておいた方がいいですね」
「食べるやつ?」
「そうとは限りません」
「食べれる?」
「今見ている依頼については食べられます」
「何?」
杏々がすぐに受付嬢を見ると、彼女は苦笑した。
「やっぱり、そこには食いつくんですね」
◆
受付へ移動すると、受付嬢は依頼書を杏々の前へ置いた。
「南側の穀物倉庫から出ている牙鼠の駆除依頼です」
「牙鼠」
「はい。最初の薬草採取のときや、昨日の護衛でも遭遇した小型の魔物ですね」
「何匹?」
「確認されているのは三体ですが、最低討伐数は二体です」
「なんで全部じゃない?」
「数が確定していないからです」
「三匹って見たのに?」
「三体同時に見たわけではありません。足跡や食害の状況から、おそらく複数いるだろうという話です」
「なるほど」
「それから」
受付嬢は少し間を置いてから、杏々を見た。
「この依頼、杏々さん一人で受けられますよ」
「…………」
杏々が動きを止める。
「一人?」
「はい」
「誰も来ない?」
「杏々さんが希望するなら、誰かを紹介することもできます」
「セリアは?」
「今日は別の依頼です」
「レオル」
「別の仕事です」
「フィア」
「採取系の依頼を受けています」
「リネットちゃん」
「冒険者ではありません」
「そっか」
杏々はもう一度依頼書へ目を落とした。
「一人で行っていい?」
「いいですよ」
「おー」
◆
「ただし」
受付嬢が続ける。
「『一人で行ける』と『何をしてもいい』は違いますからね」
「分かってる」
「本当に?」
「危険行かない」
「はい」
「禁止も」
「はい」
「追いすぎない」
「はい」
「分かんないの見つけたら戻る」
「…………」
受付嬢は、少しだけ目を細めて笑った。
「そこまで自分から言えるなら、大丈夫そうですね」
「前はダメだった?」
「戦う力については、最初からあまり心配していませんでした」
「じゃあ何?」
「それ以外です」
魔物の知識、土地勘、依頼範囲の理解、危険の判断、撤退、そして報告。冒険者は強いだけでは、一人で仕事を任せてもらえない。
「冒険者は、強いだけでは一人で仕事を任せてもらえません」
「前聞いた」
「はい」
「今は?」
「杏々さんが、分からないことを勝手に判断せず、人に聞けることは分かりました」
「リネットちゃんに聞く」
「そういうところです」
「あとセリア」
「はい」
「レオルも」
「増えましたね」
「受付のお姉さんも」
「それも正解です」
◆
「それで」
杏々が依頼書を指しながら尋ねる。
「これやったらランク上がる?」
「上がりません」
「早い」
「先に言っておきました」
「赤角牛」
「まだです」
「川鎧魚」
「まだです」
「でも一人」
「はい」
受付嬢は杏々の冒険者証へ目を落とした。
「今のランクでも、低危険度の魔物なら単独討伐は可能です。ただ、杏々さんには、しばらく経験者と一緒に行動するよう勧めていましたから」
「もう大丈夫?」
「全部ではありませんよ」
「牙鼠は?」
「これまでの記録を考えれば、任せられると判断しました」
薬草採取、赤露実、森爪熊からの救助、角兎討伐、森猪、用水路作業、北の森の試験採取、そして街道護衛。杏々が積み重ねてきた経験は、少しずつ一人で依頼を任せられるだけのものになっていた。
「やる」
「はい」
「一人で」
「はい」
杏々は、少しだけ嬉しそうに言った。
「冒険者っぽい」
「今まで何だと思ってたんですか?」
◆
依頼場所は王都の南側で、昨日護衛した村ほど遠くはなかった。街道から少し外れた場所には、大きな共同穀物庫が三棟並んでいる。
「ギルドから来た子か?」
「うん」
倉庫を管理している男が杏々を見ると、すぐに不安そうな顔をした。
「……一人?」
「うん」
「大丈夫なのか?」
「たぶん」
「そこは『大丈夫』って言ってくれないか?」
「大丈夫」
「今言い直されると、逆に不安だな」
杏々は冒険者証を見せた。
「牙鼠どこ?」
「まず説明を聞いてくれ」
「うん」
◆
被害が出ているのは、三棟ある穀物庫のうち一番端の建物だった。中には大量の麦袋が積まれているが、そのうち何袋かは下の方が破れている。
「麦?」
「ああ」
「食べられた」
「そうだ」
床には麦粒と細かな木片が散らばっていた。
「袋噛んだ?」
「牙鼠だと思う」
倉庫裏へ回ると、外壁にも引っ掻いた跡が残っている。
「いつから?」
「四日くらい前だ。最初は夜だけだったが、昨日は昼にも一匹見た」
「お腹すいてる?」
「まあ、食い物があるから来てるんだろうな」
杏々は麦袋を見上げた。
「いっぱいあるから」
「だから困ってる」
「これなくなったら?」
「村から集めた分だからな」
「ご飯減る」
「そういうことだ」
「分かった」
◆
「他に何いる?」
杏々が尋ねると、管理人は首を傾げた。
「何って?」
「牙鼠以外」
「見たのは牙鼠だけだ」
「大きい足跡」
「ないと思う」
「人?」
「盗まれた形跡はない」
「罠ある?」
「昔使っていた鼠罠が、倉庫の裏に一つある」
「今も?」
「いや。今回の被害が出る前から壊れている」
「分かった」
管理人は少し驚いた顔をした。
「結構聞くんだな」
「聞くように言われた」
「誰に?」
「いっぱい」
「……いい人たちなんだな」
「うん」
◆
杏々は、まず倉庫の周りを一周した。土の上には小さな足跡が残っており、これまで何度も見てきた牙鼠のものだと分かる。
「一匹?」
杏々はしゃがみ込み、足跡をじっくり観察した。角兎や森猪の痕跡を見てきたことで、新しい跡と古い跡、重なった跡を少しずつ見分けられるようになっている。
「…………」
一つ、二つ。同じ方向へ続いているが、大きさが少し違う。
「二匹はいる」
さらに別の跡を見つけた。
「三匹?」
ただ、そこから先は足跡が乱れていて、追跡できそうになかった。
「…………」
杏々は、そこで追うのをやめた。依頼範囲は倉庫周辺であり、まずはその範囲を確認することが大切だと分かっていたからだ。
◆
倉庫の裏には草が生え、古い木箱と壊れた罠が置かれていた。罠の横には小さな穴が開いている。
「これか」
杏々は古い木製の箱罠を見た。入口は壊れていて、もう使えそうにない。
「…………」
その横にある穴を覗き込む。
「巣?」
手は入れない。
「危険」
誰もいないのに、杏々は自分へ言い聞かせるように呟いた。穴の周りには新しい足跡が残っている。
「ここから来てる?」
しかし、穴は倉庫の下へ続いているわけではなく、外側の畑の方へ向かっているようだった。
「分かんない」
杏々は穴の横へ目印になる石を置いた。
「あとで聞く」
◆
最初の牙鼠が現れたのは、それからさほど時間が経たないうちだった。がさり、と倉庫の横で音がする。
「…………」
杏々が振り向くと、木箱の陰から牙鼠が一体姿を現した。大きさは、以前倒したものと同じくらいだ。
「いた」
牙鼠も杏々を見て、低く唸った。前脚で地面を掻いたかと思うと、次の瞬間には飛び出してくる。
◆
杏々は剣を抜いた。以前、初めて牙鼠に遭遇したときは蹴り一つで倒したが、今日は剣を使う。
「剣使う」
牙鼠が一直線に突っ込んでくる。杏々は横へずれ、首を狙って剣を振った。
「ギッ」
牙鼠が地面へ倒れる。
「…………」
杏々はすぐには近づかず、しばらく様子を見た。セリアから、死んだふりをする魔物もいると教わっていたからだ。
「死んだ?」
剣先で少しだけ触れる。牙鼠は動かなかった。
「死んだ」
杏々は頷いた。
「一匹」
◆
牙を証明部位として切り取り、肉を持ち帰るなら処理も必要になる。しかし、杏々は少し考えた末に、すぐには処理しないことにした。
「まだやらない」
依頼の最低討伐数は二体で、今は一体しか倒していない。それに、肉を長時間放置するのもよくない。
「…………」
倉庫は近い。
杏々は管理人を呼んだ。
「一匹倒した」
「もうか?」
「うん」
「早いな」
「これ置いていい?」
「日陰なら、ひとまず裏の作業場へ置いとけ」
「ありがとう」
「肉持ってくのか?」
「食べる」
「……そうか」
◆
一体目を処理すると、杏々は再び倉庫周辺の確認を始めた。辺りは静かで、横から指示を出してくれるセリアも、レオルも、フィアもいない。
「一人」
少しだけ変な感じがした。
それでも、杏々は地面を見て、音を聞き、匂いを確かめながら歩いた。依頼範囲は倉庫周辺であり、守るべきものは麦袋だ。
「できる」
杏々は小さく呟いた。
「ご飯守る」
◆
二体目は、午前の終わり頃に現れた。今度は倉庫の向こうに二匹の牙鼠がいて、破れた麦袋からこぼれた麦を食べている。
「二匹いる」
一匹は少し大きく、もう一匹は小さい。
「食べてる」
依頼は牙鼠の駆除であり、最低討伐数は二体だ。このまま放置すれば、また麦を食べられてしまう。
「やる」
◆
杏々が少し近づくと、大きい方の牙鼠が気づいた。牙鼠がこちらを向く一方で、小さい方は逃げ出した。
「追わない」
杏々は向かってきた牙鼠だけを見る。牙鼠が突進してくると、杏々は横へ避け、剣の腹で相手の向きを逸らした。
「こっち」
牙鼠が体勢を崩す。そこへ刃を入れる。
「終わり」
二体目の牙鼠が倒れた。
◆
小さい方の牙鼠は茂みの向こうへ走っていった。
「三匹目」
依頼書には、確認されているのは三体程度と書かれていた。追加で倒せば、追加報酬が出るかもしれない。
杏々は茂みの先へ続く足跡を見る。畑を越え、その向こうには低い林がある。追えば、たぶん追いつける。
「…………」
それでも杏々は動かなかった。
「追わない」
依頼範囲は倉庫周辺までだ。杏々は剣を鞘へ戻した。
そのとき、茂みの向こうへ逃げた牙鼠が一度立ち止まった。こちらを見ている。距離があるため、杏々が近づかなければ、すぐには逃げないらしい。
やがて牙鼠の鼻先が、麦の匂いがする倉庫側へ向いた。
「戻ってくる?」
杏々は足元を見ると、小さな石を一つ拾い、親指と中指の間へ挟んだ。
「こっちはダメ」
指を弾くと、ぱしん、と乾いた音が響いた。飛んだ小石は牙鼠には当たらず、その鼻先より少し前の地面へ突き刺さり、土を跳ね上げる。
「ギッ!?」
牙鼠が驚いて後ろへ飛ぶ。
杏々はもう一つ石を拾った。今度は牙鼠の横を狙って指を弾く。小石はぱしっと音を立てて木の幹に当たった。
「ギィッ!」
牙鼠は跳ねるように向きを変え、そのまま林の奥へ走っていった。
「…………」
杏々はしばらく見送った。牙鼠は戻ってこない。追ってはいないし、倒してもいない。それでも、少なくとも今は倉庫から離れた。
杏々は手に残っていた小石を見た。
「遠いと剣届かない」
もう一度、林を見る。
「石はある時しか使えない」
少し考えてから、杏々は呟いた。
「遠い用、何かあった方がいいかも」
今すぐ必要というほどではない。牙鼠くらいなら、近づいてくれば剣で十分だ。けれど、近づかずに追い払いたい相手や、近づけない相手と戦うこともあるかもしれない。護衛の最中なら、自分から離れられないこともある。
「あとで聞こ」
杏々は依頼範囲へ戻った。
「二匹終わった」
◆
「もう終わりか?」
管理人が驚いたように尋ねる。
「二匹倒した」
「三匹目は?」
「逃げた」
「追わなかったのか?」
「依頼範囲から出る」
「……なるほど」
「でも戻りそうだったから」
「ん?」
「石飛ばした」
「石?」
「うん」
管理人が周囲を見る。
「投げたのか?」
「指」
「指?」
「こう」
杏々が親指と中指を合わせる。
「…………」
「?」
「いや、いい」
「そう?」
「ああ。何となく、聞かない方がいい気がした」
◆
「でも」
杏々は倉庫を見る。
「まだ終わりじゃない」
「何が?」
「もう一匹戻ってくるかも」
「まあ、そうだな」
「穴もある」
「穴?」
「裏」
◆
二人で倉庫裏へ回ると、杏々は先ほど目印を置いた穴を指した。
「これ」
「……前からあったか?」
「知らない」
「俺も知らん」
「牙鼠の巣?」
「どうだろうな」
「掘る?」
杏々が尋ねると、管理人は少し考えてから首を横に振った。
「やめとこう」
「なんで?」
「何がいるか分からん」
「うん」
「ギルドに見てもらった方がいい」
「分かった」
「……お前、掘るって言った割には、止められると素直なんだな」
「分かんないから」
「そうか」
◆
依頼条件は満たしていたが、杏々はすぐには帰らなかった。
「何してる?」
「待つ」
「三匹目?」
「来るかも」
「倒すのか?」
「倉庫来たら」
「追わない?」
「うん」
「また石を飛ばすのか?」
「近づかなかったら」
「……本当に指で飛ばすんだよな?」
「うん」
「それ、普通なのか?」
「?」
「何でもない」
管理人は深く聞くのを諦めた。
◆
昼食は、倉庫の外にある木陰で取ることになった。管理人が簡単な食事を用意してくれたのだ。
「依頼に昼飯付きってあったか?」
「なかった」
「じゃあサービスだ」
「いいの?」
「二匹倒してもらったからな」
「やった」
パン、豆、チーズ、そして茹でた卵が並ぶ。
「卵」
「岩鳥の卵だ」
「岩鳥」
「知ってるか?」
「食べたことある」
「肉を?」
「うん」
「卵は?」
「ない」
「じゃあ初めてだな」
茹でられた卵は鶏卵より少し大きく、殻は薄い灰色をしていた。
「いただきます」
杏々が殻を割ると、濃い黄色の黄身が現れた。
「大きい」
「味も濃いぞ」
一口食べる。
「…………」
「どうだ?」
「おいしい」
「だろ?」
「黄身すごい」
「この辺じゃよく食う」
「どこいる?」
「南の岩場とか草原だな」
杏々は少し考えた。
「依頼ある?」
「俺に聞くな」
◆
食事をしながらも、杏々は時々倉庫の方へ目を向けた。
「まだ気にしてるのか?」
「うん」
「三匹目」
「うん」
「戻らなかったら?」
「帰る」
「追わない?」
「うん」
「追加報酬があるかもしれないぞ?」
「でも」
杏々は岩鳥の卵を食べながら答えた。
「知らない林入ったら危険」
「……ちゃんとしてるな」
「えらい?」
「えらい」
「今日も言われた」
◆
「さっき言ってたやつ」
管理人が思い出したように尋ねる。
「遠い相手用の何かって?」
「うん」
「弓とかか?」
「弓」
杏々は少し考える。使えないわけではないが、弓は大きい。
「大きい」
「まあ、剣と一緒に持つなら邪魔にはなるな」
「すぐ使いたい」
「だったら投げる武器なんかもあるが」
「投げる」
「短い刃物とか、小さな投擲具とかな。冒険者で使う奴はいる」
「ふーん」
「興味あるのか?」
「ちょっと」
杏々は自分の腰の剣を見る。
「今の剣もまだちゃんと使えてないから」
「そうなのか?」
「先遅い」
「……よく分からんが」
「だから今すぐはいらない」
「意外と堅実だな」
「高いかもしれないし」
「そっちか?」
「大事」
◆
午後になっても、三匹目の牙鼠は戻ってこなかった。
「もういい?」
杏々が尋ねると、管理人は頷いた。
「ああ。二匹倒したし、今日は十分だ」
「でも倉庫」
「今夜は入口を塞ぎ直す。それでも出たら、またギルドに依頼する」
「穴は?」
「報告してくれ」
「分かった」
「あと、逃げた一匹を探しに行かなくていいからな」
「行かないよ」
「石まで飛ばしたしな」
「うん」
「……あれ、当てようと思えば当てられたのか?」
「たぶん」
「じゃあ何で当てなかった?」
「追い払いたかったから」
「…………」
「倒すなら近い方が楽」
「そうか」
管理人は、それ以上聞かなかった。
◆
杏々は討伐した牙鼠二体を背負った。
「…………」
管理人がその様子を見ている。
「二体とも持ってくのか?」
「うん」
「重くない?」
「大丈夫」
「知ってた気がする」
「何が?」
「冒険者って色々いるんだな」
「うん」
◆
王都へ戻る道を、杏々は一人で歩いた。来たときと同じ道には、畑や荷車があり、時折人の姿も見える。
いつもなら、隣にはリネットやセリア、レオルがいた。
「一人」
杏々は少しだけ笑った。
「できた」
しばらく歩いていると、道端に小石が落ちているのが目に入った。杏々は一つ拾い、親指と中指に挟むと、少し先にある木の根元へ向けて指を弾いた。
ぱしっ。
小石は狙った場所へ当たった。
「使える」
もう一つ拾い、今度はさらに遠くへ飛ばす。
「でも」
杏々は石を見下ろした。
「毎回拾うの面倒」
投げる武器。さっき管理人が言っていた言葉を思い出す。
「今度、武器屋さんに聞こ」
今すぐ買うとは、まだ決めていなかった。
◆
「お帰りなさい」
ギルドへ戻ると、杏々は受付へ牙鼠二体を置いた。
「二匹」
「見れば分かります」
「依頼終わった」
「まず報告を聞きますね」
「うん」
◆
「確認個体は?」
「三匹」
「討伐は?」
「二匹」
「残り一体は?」
「逃げた」
「どこへ?」
「依頼範囲の外」
「追跡は?」
「してない」
「そのまま逃がしたんですか?」
「一回戻りそうだった」
「戻りそう?」
「倉庫の方見た」
「それで?」
「石飛ばした」
「…………」
受付嬢の筆が止まった。
「石を?」
「うん」
「投げたんですか?」
「指で」
「指で?」
杏々は親指と中指を合わせて見せる。
「こう」
「…………」
「?」
「当てたんですか?」
「当ててない」
「外した?」
「違うよ」
杏々は首を振った。
「前に落とした」
「わざと?」
「うん」
「その次は木」
「…………」
「びっくりして逃げた」
受付嬢は、しばらく杏々の指を見つめた。
「それ、かなり危ないことできません?」
「石?」
「杏々さんの指です」
「普通だよ?」
「たぶん普通じゃないです」
「そう?」
「まあ……」
受付嬢は頭を押さえた。
「魔物へ直接当てなかったのは?」
「倒す必要なかったから」
「…………」
「追い払えばご飯守れる」
受付嬢は少し黙ってから、記録へ書き込んだ。
「状況に合わせた威嚇行動、と」
「何それ」
「褒めてます」
「やった」
◆
「他に異常は?」
「穴」
「穴?」
「倉庫裏。牙鼠か分かんない」
「中は確認しました?」
「してない」
「どうして?」
「分かんないから」
「…………」
「ダメだった?」
「逆です」
受付嬢は顔を上げた。
「いい判断です」
「やった」
「中を覗いたり、手を入れたりしていないですよね?」
「してない」
「掘ってませんね?」
「管理人のおじさんに止められた」
「掘ろうとはしたんですね」
「ちょっと」
「…………」
「でも掘ってない」
「……はい。結果としては問題ありません」
◆
「穴については、明日、巡回担当に確認してもらいます」
受付嬢は別の用紙へ記録した。
「牙鼠だったら?」
「必要なら追加依頼です」
「私行ける?」
「今すぐ予約しないでください」
「三匹目」
「今日の依頼はもう達成しています」
「そっか」
「追加報酬が欲しかったですか?」
「ちょっと」
「食べる方?」
「それも」
「でしょうね」
◆
「それから」
杏々が言った。
「卵おいしかった」
「何の話です?」
「岩鳥」
「依頼先で食べたんですか?」
「うん」
「……また食べ物の情報を増やしてきたんですね」
「岩鳥の依頼ある?」
「今はありません」
「そっか」
「そんなに食べたいんですか?」
「卵もおいしかった」
「覚えておきます」
「ほんと?」
「依頼を杏々さんのために作るわけではありませんよ」
「分かってる」
◆
「あと」
「まだあるんですか?」
「遠い用の武器」
「遠い用?」
「遠くにいるやつ」
受付嬢が杏々の腰の剣を見る。
「弓ですか?」
「大きい」
「投擲武器?」
「そういうのあるって聞いた」
「ありますけど」
受付嬢は少し考える。
「杏々さん、剣を買ったばかりですよね?」
「うん」
「しかも一回壊しかけましたよね?」
「直った」
「今度は投げる武器まで増やすんですか?」
「まだ買わないよ」
「珍しい」
「お金貯めてる」
「成長してる……」
「いい剣高いから」
「やっぱりそっちが先なんですね」
「うん」
「それなら、今は知識だけ増やしておくくらいでいいと思います」
「分かった」
「投擲武器も、ただ投げればいいものではありませんからね。回収や携行、周囲への危険もあります」
「人いたら危ない」
「はい」
「落としたらなくなる」
「はい」
「もったいない」
「そこまで含めて理解できてるなら十分です」
◆
「今日」
受付嬢は、杏々の冒険者証へ記録を追加しながら言った。
「初めての単独討伐依頼、達成です」
「単独」
「はい」
「一人」
「はい」
「問題なし?」
「細かく言えば、倉庫裏の穴を掘ろうとしたところは少し気になります」
「掘ってない」
「止められたからですね」
「うん」
「そこは報告に残しません」
「やった」
「ただ、依頼範囲外へ逃げた個体を追わなかったこと、正体不明の穴を勝手に調べなかったこと、依頼達成後も倉庫周辺を少し観察してから戻ったこと」
「うん」
「それから、必要以上に討伐せず、威嚇で倉庫から遠ざけたこと」
「うん」
「全部、今後一人で依頼を任せる上では良い材料になります」
「また一人で行ける?」
「依頼次第では」
「おー」
「無条件ではありませんよ」
「分かってる」
「本当に?」
「赤角牛はまだ」
「分かってますね」
◆
杏々は、討伐した牙鼠を一体売り、もう一体は食べることにした。
「一匹売る」
「珍しいですね」
「もう一匹食べる」
「やっぱり」
「剣代も貯める」
「おお」
受付嬢が少し驚いた。
「ちゃんと貯金を意識するようになったんですか?」
「いい剣高い」
「食費を減らす?」
「それは無理」
「ですよね」
「だから働く」
「そっちですか」
◆
その頃、王宮魔術院では、リネットが三枚の記録を机へ並べていた。
「比較結果が出ました」
記録には、西側丘陵、南部林、南東農地の調査結果がまとめられている。
「どうだった?」
先輩術師が尋ねる。
「西側丘陵と南部林は、過去の記録とほぼ同じ範囲です」
「自然区域は正常か」
「今のところは」
「南東農地は?」
「こちらも、農地側の魔力濃度そのものは安定しています」
「なら」
先輩術師は北の森を指した。
「やっぱり北が変なのか」
「そう見えます」
王都周辺全域で魔力が減っているわけではない。異常が見られるのは、北の森中央部にある特定の地脈系統だけだった。
「範囲はかなり絞れたな」
「はい」
「次は?」
「時間による変化を見たいです」
「時間?」
「農地の設備は、いつも同じ量の魔力を使っているわけではありません。水路や作物の管理によって、使われる量が変わります」
「朝、昼、夜で比べるのか」
「はい。農作業や水路設備、調整柱の動きも含めて、一日の中で供給量が変わる時間を調べます」
「それと森側を比べる?」
「できれば」
「……管理局が嫌な顔するぞ」
「もう慣れました」
「向こうが?」
「私がです!」
◆
机の端には、以前の記録も積まれていた。
第六観測点。
『一時的な横方向流動を確認。再現せず。原因不明』
ただ、今のリネットはまだその紙を開かなかった。今調べようとしているのは、農地側の魔力利用が一日の中でどう変化するか、それだけだった。
◆
夜、杏々はギルド併設の食堂で、牙鼠の香草焼きを食べていた。向かいには、仕事を終えたリネットが座っている。
「一人でできた」
「単独依頼ですか?」
「うん」
「大丈夫でした?」
「二匹倒した」
「怪我は?」
「ない」
「危ないところへ行ってません?」
「行ってない」
「追いかけてません?」
「行ってない」
「知らない穴とか――」
「掘ってない」
「穴があったんですか!?」
「掘ってないよ」
「そこじゃありません!」
◆
杏々が一通り説明すると、リネットは安心したように息を吐いた。
「……なるほど。ちゃんと戻ってきたんですね」
「うん」
「一人でも」
「うん」
「すごいですね」
「えらい?」
「えらいです」
「今日いっぱい言われた」
「でしょうね」
杏々は牙鼠の肉を食べた。香草と塩の風味が脂に馴染み、焼けた表面は香ばしい。
「おいしい」
「前にも食べましたよね?」
「うん」
「違います?」
「今日の方がおいしい」
「自分で一人で取ったから?」
「たぶん」
「……そういうのもあるんですね」
◆
「あと」
杏々が言った。
「遠い相手用の武器ほしいかも」
「え?」
リネットの顔が強張った。
「なんで急に武器が増えるんですか?」
「牙鼠遠かった」
「それで?」
「石飛ばした」
「投げたんですか?」
「指で」
「指で!?」
杏々が親指と中指を合わせて見せる。
「こう」
「それで牙鼠に?」
「当ててないよ」
「当ててない?」
「びっくりさせた」
「…………」
リネットは、少し安心したような、余計に不安になったような微妙な顔をした。
「杏々さん、それ、どのくらい飛ぶんですか?」
「分かんない」
「どのくらい強いんですか?」
「石による」
「質問を変えます」
「うん」
「人に向けないでくださいね?」
「向けないよ」
「よかった……」
◆
「でも」
杏々は考える。
「石、毎回ないかもしれない」
「まあ、そうですね」
「遠いところにいると剣届かない」
「はい」
「だから何か持ってた方が便利」
「弓とか?」
「大きい」
「投げナイフのような武器もありますけど……」
「投げナイフ」
杏々が少し考える。
「今はいらない」
「珍しい!」
「剣まだちゃんと合ってない」
「ああ……」
「お金も貯める」
「なるほど」
「でも覚えとく」
「そのくらいならいいと思います」
リネットは頷いた。
「必要になってから、ちゃんと使い方や扱い方を知って選びましょう」
「うん」
「いきなり買って、いきなり魔物に投げたりしないでくださいね」
「しないよ」
「川鎧魚の前例がありますから!」
「斬ってないよ」
「そういう問題じゃありません!」
◆
「リネットちゃんは?」
「私は比較調査です」
「普通分かった?」
「少し」
「北以外は?」
「今のところ、大きな異常はありません」
「じゃあ北だけ?」
「かなりそう見えてきました」
「農地?」
「まだです」
「まだ」
「でも、次は時間ごとの変化を調べます」
「時間?」
「朝と昼で、使っている魔力量が違うかもしれないので」
「ご飯と一緒」
「何がです?」
「朝と昼で食べる量違う」
「……杏々さんの場合、全部多いですよね?」
「うん」
「比較になりません!」
◆
初めて一人で受けた討伐依頼は、戦うこと自体が難しかったわけではない。杏々にとって難しかったのは、逃げた魔物を追わないこと、知らないものへ手を出さないこと、そして、もう十分だと自分で決めることだった。
ただ、追わないからといって、何もできないわけでもない。倒す必要がないなら追い払えばいいし、近づけないなら遠くからできることを考えればいい。
剣を買ったときと同じように、冒険者として仕事をするほど、自分に必要なものも少しずつ分かってくる。
「次何しよう」
「明日の話ですか?」
「うん」
「一日くらい休んでもいいんですよ?」
「なんで?」
「聞いた私が間違ってました」
杏々は最後の肉を食べた。
「ごちそうさまでした」
冒険者になってから、少しずつ一人でできることが増えている。使う道具も、覚えることも、食べたいものも、少しずつ増えていた。




