前よりすっぱい
翌朝、杏々は冒険者ギルドへ向かう前に武器屋へ寄っていた。
「ほら」
店主が布の上へ一本の剣を置いた。
「直ったぞ」
「おー」
川鎧魚の鱗に当てて小さく欠けてしまった、杏々の剣だった。刃の欠けた部分は研ぎ直され、以前よりほんの少しだけ形が変わっている。
「触っていい?」
「柄を持つならな」
杏々は剣を手に取り、軽く振った。
「…………」
「どうだ?」
「ちょっと短くなった?」
「分かるのか?」
「先」
「欠けた分を均したからな。ほんの少しだ」
「もっと遅くなった?」
「その程度で分かるのかよ……」
店主は嫌そうな顔をした。
「まあ、使える?」
「もちろん使える。ただし――」
「川鎧魚には使わない?」
「分かってんじゃねえか!」
「でも来たら?」
「逃げろ!」
「お仕事だったら?」
「もっといい剣を買え!」
「高い」
「だから働け!」
「分かった」
「……なんで俺が冒険者の仕事を勧めてるんだ」
杏々は剣を鞘へ戻し、腰に付けた。
「次はもっといいの買う」
「注文するなら金を貯めとけよ」
「うん」
「食い物に全部使うなよ」
「それは無理」
「少しは迷え!」
◆
その頃、王宮魔術院では昨日の北の森調査についての整理が続いていた。机の上には六地点分の観測記録が並び、リネットは外縁部、旧初心者区域、赤境界付近、中層、地脈分岐付近、そして予定にはなかった第六観測点の数値を一つずつ書き写していた。
「第一地点、第二地点、第三地点……」
最後の記録に差しかかったところで、リネットの手が止まる。
『一時的な横方向流動を確認』
昨日、一度だけ、地下の魔力が本来の流れとは少し違う方向へ動いたように見えた。再測定では再現しなかったため、観測誤差や周囲の生物、地中の一時的な魔力変動など、理由はいくらでも考えられる。
「まだ見てたのか」
先輩術師が声をかけた。
「見てます」
「昨日の一回だけだろ」
「はい」
「再現しなかった」
「はい」
「なら、今は置いとけ」
「分かっています」
「本当に?」
「消してはいませんけど」
「それでいい」
先輩術師は記録を覗き込み、指で紙を軽く叩いた。
「変な結果が出たからって、全部に意味があるとは限らん」
「はい」
「逆に、意味がないと決めつけて捨てるのも駄目だ。だから記録だけ残す。今調べるのは、再現性がある方だ」
森の奥ほど低くなる魔力濃度。減っている小型魔物。痩せた角兎。そして、小さくなっている可能性のある赤露実。
「まずはこっちだ」
「分かっています」
リネットは第六観測点の紙を他の記録の下へ入れた。今のところ、それはただの一行にすぎなかった。
◆
「おはよ」
「おはようございます」
冒険者ギルドへ入った杏々を見て、受付嬢が最初に確認したのは腰だった。
「剣、直ったんですね」
「うん」
「よかったです」
「ちょっと短くなった」
「普通は気にしない程度ですよね?」
「ちょっと遅い」
「私は剣のことは分かりません」
「店のおじさんも困ってた」
「でしょうね」
杏々は掲示板へ目を向けた。
「今日は何ある?」
「昨日、北の森へ行ったばかりですし、今日は街中の依頼にしておいた方がいいと思いますよ」
「疲れてないよ」
「杏々さんはそうでしょうけど、調査結果の整理もありますから」
「私、やらないよ?」
「そうでした」
受付嬢は少し考え、一枚の依頼書を取り出した。
「それなら、これなんてどうです?」
「なに?」
「木苺亭からです」
「木苺亭」
杏々はすぐに思い出した。
「赤露実のお菓子」
「覚えていましたね」
「おいしかったから」
「ですよね」
以前、赤露実の採取依頼を受けたときに、杏々が直接納品へ行った菓子店だった。
「何する?」
「倉庫整理と材料の選別です」
「材料」
「赤露実もあります」
「やる」
「まだ説明の途中ですよ」
「聞く」
「受けるのは決定なんですね……」
◆
木苺亭は以前と変わらず、焼いた小麦や果物、砂糖、バターに似た乳脂肪の甘い匂いに満ちていた。
「おー」
店へ入った杏々が鼻を動かすと、奥から出てきた女性が彼女を見て笑った。
「いらっしゃい――あら。前に赤露実を持ってきてくれた子ね」
「杏々」
「そうそう、杏々ちゃん」
「覚えてた?」
「もちろん。納品に来て、その場でジャムまで買って帰った子は珍しいもの」
「おいしかった」
「ありがとう」
店主は笑いながら、杏々を奥の作業場へ案内した。
◆
今日の仕事は、杏々が思っていたより地味なものだった。
「この箱?」
「そう。それをこっちへ」
「分かった」
杏々が箱を持ち上げると、店主は少し驚いた顔をした。
「……一人で持てるのね」
「うん」
「じゃあ、こっちもお願い」
「うん」
保存用の砂糖、小麦粉、乾燥果実、瓶、木箱と、倉庫にあるものを次々に運んでいく。
「すごく助かるわ」
「いっぱい運ぶよ」
「お願い」
北の森が閉鎖された影響で、店の倉庫では材料の整理が進められていた。
「赤露実、少ない?」
杏々が尋ねる。
「今はね」
「森、入れないから?」
「それもあるわ」
店主は棚を見上げた。そこには砂糖漬けにしたもの、煮詰めた果肉、乾燥させたものなど、加工済みの赤露実が並んでいる。
「うちは赤露実をよく使うから、ある程度は保存してあるんだけど、いつまでもは持たないわね」
「生は?」
「今朝、少しだけ入ったわ」
「森から?」
「警戒区域の外側で採れた分よ。許可を持っている採取人が持ってきてくれたの」
「見る」
「仕事が終わったらね」
「分かった」
杏々の動きが、少しだけ速くなった。
「分かりやすいわねえ」
◆
午前の運搬が終わると、次は材料の選別だった。机の上には、今朝入荷した赤露実が並べられている。
「小さい」
杏々は見るなり言った。
「やっぱりそう思う?」
「うん」
「前に持ってきたの、覚えてる?」
「覚えてる」
杏々は両手で大きさを示した。
「これくらい」
「……そこまで?」
「たぶん」
「たぶんなのね」
店主は笑ったが、すぐに表情を曇らせた。
「でも、大体合ってるわ。ここ数年、少しずつ小さくなってるの」
杏々の手が止まる。
「前から?」
「ええ」
「いつから?」
「いつだったかしら……」
店主は考え込み、やがて首を傾げた。
「急に変わったわけじゃないの。だから最初は気にしていなかったわ」
「小さくなっただけ?」
「それだけじゃないのよ」
店主は赤露実を一つ手に取った。
「酸味が強くなってる」
「すっぱい?」
「そう」
「食べていい?」
「選別用から一個だけなら」
「やった」
杏々は赤露実を一つ口に入れた。噛んだ瞬間、表情がわずかに変わる。
「すっぱい」
「でしょう?」
「前の方が甘かった」
「やっぱり分かる?」
「うん」
以前、採ったばかりの赤露実を木苺亭で食べたときも酸味はあった。しかし、その奥にはもっと強い甘さがあった。
「今日の方がすっぱい」
「そうなのよねえ」
◆
「天気?」
杏々が聞くと、店主は肩をすくめた。
「最初はそう思っていたの。暑い年もあるし、雨の多い年もあるでしょう?」
「うん」
「果物なんて、毎年同じ味にはならないもの。だから、年による違いだと思っていたわ」
「でも違った?」
「何年も続いたから、ちょっと気にはなっていた」
「何年?」
「たぶん四年……五年くらい?」
杏々が店主を見る。
「五年」
「そのくらいね」
北の森で小型魔物が減り始めた頃、魔力濃度の低下が目立ち始めた頃と重なる可能性はある。もちろん、杏々は細かい年数までは覚えていなかった。
「リネットちゃんに言う」
「リネットちゃん?」
「魔力調べてる人」
「ああ」
店主も、最近ギルドで森の調査が行われていることくらいは聞いていた。
「役に立つかしら?」
「たぶん」
「そこは相変わらずなのね」
◆
「でも」
杏々が言った。
「どうやって前よりすっぱいって分かるの?」
「食べれば分かるでしょう?」
「リネットちゃん、食べてない」
「……そうね」
「昔のもない」
「昔の生の実はないわねえ」
「じゃあ証拠ない?」
店主は少し考えた。
「証拠になるか分からないけど」
「ある?」
「帳簿なら」
杏々の目が止まる。
「ちょうぼ」
「仕入れや材料の記録よ。商売だから、いくら仕入れて、何をどれだけ作ったかは記録しているの」
「文字いっぱい?」
「いっぱい」
「私は無理」
「でしょうね」
◆
店主は店の奥から数冊の帳簿を持ってきた。
「これは今年」
「うん」
「これは三年前」
「うん」
「これは五年前」
「五」
「数字は読めるの?」
「五は」
「ずいぶん限定的ね」
店主がページを開く。
「赤露実の仕入れ量は、重さで記録してあるわ。こっちが砂糖で、ジャムを作るときに使った量ね」
「うん」
同じ時期の記録を比べていくと、今年の方が砂糖を多く使っていることが分かった。
「甘くするから?」
「そう」
「すっぱいから」
「そういうこと」
もちろん、砂糖の量は実の熟し方や天候、入荷時期、料理人の判断によっても変わる。それでも、五年前は今より少なく、四年前から少しずつ増え、三年前、二年前とさらに増えていた。去年と今年は大きな差がないものの、長い目で見れば増加している。
「ずっと?」
杏々が聞く。
「毎年必ずじゃないわ。途中で少し戻っている年もあるけれど」
店主は帳簿を見比べた。
「長く見ると、増えているわね」
「すっぱくなってる」
「そういうことになるのかしら」
◆
さらに、もう一つ記録があった。
「こっちは何?」
「ジャム一瓶に使う実の量よ」
「そんなのも書く?」
「原価を出すのに必要なの」
「げんか」
「作るのにいくらかかったか、ということね」
「なるほど」
店主は古い帳簿を指した。
「昔は、同じ重さの赤露実を仕入れれば、今より少し多く瓶を作れたの」
「なんで?」
「実が大きかったから……というより、水分と果肉の量かしら」
「中身減った?」
「そうかもしれない」
今年、三年前、五年前と並べてみると、一年単位ではばらつきがある。しかし、長い期間で見ると、赤露実は少しずつ小さくなり、果肉の量も減っているようだった。
「これ」
杏々が帳簿を指す。
「借りれる?」
「店の帳簿そのものは困るわ」
「そっか」
「でも、必要な部分なら写してあげる」
「ほんと?」
「ええ」
「リネットちゃん喜ぶ」
「そんなに?」
「紙好きだから」
「研究者ってそういうものなの?」
「たぶん」
◆
昼休みになると、杏々の前には木苺亭のまかないが並んだ。焼きたてのパン、岩鳥と野菜のスープ、そして小さな赤露実の焼き菓子だった。
「おー」
「試作品よ」
「食べていい?」
「そのために出したの」
「いただきます」
杏々が焼き菓子を割ると、中から赤露実を煮たものが現れた。一口食べた杏々に、店主が尋ねる。
「どう?」
「おいしい」
「よかった」
「でも」
「うん」
「前のジャムの方が赤露実っぽかった」
店主が目を細める。
「よく分かるわね」
「砂糖の味が強い」
「そうなの。酸味を抑えるために砂糖を増やしているから、赤露実そのものの味が少し弱くなるのよ」
「困る?」
「お菓子としては作れるわ。おいしくする方法もある。でも」
店主は焼き菓子を見つめた。
「前と同じものは、作りにくくなっているわね」
「…………」
「値段もね」
「高くなる?」
「材料を多く使えばね」
杏々の顔が少しだけ真剣になる。
「お菓子、高くなるの困る」
「そこなのね」
「大事だよ」
「そうね」
店主は笑った。
「すごく大事ね」
◆
午後、杏々は残りの倉庫整理を終え、写してもらった帳簿の一部を受け取った。
「これ、なくさないでね」
「うん」
「読める?」
「読めない」
「そこは即答なのね」
「リネットちゃん読む」
「よろしく伝えておいて」
「うん」
「それから」
店主が小さな紙袋を差し出した。
「これ」
「なに?」
「今日の焼き菓子よ。仕事を頑張ってくれたから」
「もらっていいの?」
「ええ。ただし」
「?」
「一個はリネットちゃんにあげなさい」
杏々は少し考えた。
「私、食べたい」
「二個入っているから」
「じゃあ大丈夫」
「本当に分かりやすいわね」
◆
夕方、王宮魔術院へ着くと、リネットはまだ資料に埋もれていた。
「リネットちゃん」
「杏々さん?」
「今日は何をしていたんですか?」
「お菓子屋さん」
「木苺亭ですか?」
「うん」
「また食べてきたんですね」
「仕事」
「そこは分かっています!」
「これ」
杏々は紙束を渡した。
「何です?」
「赤露実」
「赤露実?」
「前より小さくて、すっぱいって」
リネットの手が止まる。
「誰が?」
「店のお姉さん」
「いつ頃からです?」
「四年か五年くらい」
「…………」
リネットは紙束へ目を落とした。
「これ、木苺亭の記録ですか?」
「写してくれた」
「何の?」
「砂糖」
「砂糖?」
「すっぱくなったから増えたって」
「…………」
リネットの目つきが変わった。
◆
今年、前年、三年前、五年前。赤露実の仕入れ量、ジャムの製造量、使用した砂糖の量が並べられていく。
「これ……」
リネットが紙を並べた。
「全部同じ店?」
「うん」
「同じ種類の商品?」
「ジャム」
「製法は?」
「知らない」
「確認しないと」
「でも、お姉さんずっと作ってる」
「同じ職人なら比較しやすい……」
リネットの声が、徐々に研究者のものへ変わっていく。
「天候記録も照合して、採取時期も合わせて……」
「リネットちゃん」
「はい?」
「お菓子」
「あ」
杏々が紙袋から一つ差し出した。
「私の分ですか?」
「お姉さんが一個あげろって」
「そうだったんですね」
「食べて」
「いただきます」
リネットが焼き菓子を一口食べる。
「……おいしいです」
「すっぱい?」
「甘いですよ?」
「砂糖いっぱい」
「なるほど」
「赤露実だけ食べたらすっぱかった」
「生の実も確認したんですか?」
「一個食べた」
「仕事中に?」
「許可もらった」
「……成長しましたね」
「今日二回目」
◆
リネットはもう一度、木苺亭の記録へ目を戻した。
「魔術院には、昔の森の魔力記録がほとんどありません」
「うん」
「管理局にも、森側の地脈流量記録がない」
「うん」
「でも」
リネットは紙を持ち上げた。
「こういう記録なら、街に残っているかもしれません」
「お菓子屋さん?」
「それだけではありません」
リネットは立ち上がった。
「薬草商、木材を扱う業者、魔物素材を買い取っている商人、猟師や冒険者ギルドの解体記録。森から持ち出されたものなら、人間たちはずっと記録しているはずです」
「いっぱい」
「はい」
北の森が以前どうだったのか、魔力そのものを測っていた者はほとんどいない。しかし、森から持ち出されたものなら、実の大きさ、薬草の品質、魔物の体格、素材の量といった形で記録が残っている可能性がある。
「魔力を測っていなくても」
リネットが呟いた。
「魔力に影響されたものを調べればいい」
「なるほど」
杏々は、まだ完全には分かっていなかった。
「役に立った?」
「すごく!」
「じゃあ」
「?」
「お菓子、もう一個食べていい?」
「もう一個は杏々さんのですよ」
「やった」
◆
翌朝、北の森の監視所では、冒険者が森の縁に残された足跡を確認していた。
「今日も来てないな」
「人里側には?」
「新しい痕跡なし」
「餌を置いてないのに?」
「ああ」
ここ二日、森爪熊の親子は農地へ姿を見せていなかった。
「森に戻ったか?」
「そうならいいが」
冒険者は地面へ目を落とした。そこには、森の奥へ続く三頭分の足跡が残っている。
「……少し北へ動いているな」
「旧巣とは違う方向だ」
「何がある?」
「知らん」
森爪熊の親子は、王都から少しずつ離れていた。それ自体は人間にとって悪いことではない。ただ、向かっている先が以前の生息地とは違っていた。
「報告しとくか」
「ああ」
◆
同じ頃、王宮魔術院でリネットは昨日の第六観測点の記録を一度だけ見た。
『一時的な横方向流動を確認。再現せず。原因不明』
そして、その紙を閉じた。
今は別の証拠を集める。森の変化がいつから始まったのか、どこまで広がっているのか。それを知らなければ、あの一瞬の異常に意味があるのかどうか判断できない。
ただ、その記録だけは捨てずに残されていた。




