北の森産
翌朝、王宮魔術院の一室には、いつもの研究資料とは少し違う紙が積み上がっていた。
「菓子店の帳簿」
「はい」
「薬草商の仕入れ記録」
「はい」
「冒険者ギルドの素材買い取り記録」
「はい」
「……次は何だ?」
先輩術師に尋ねられたリネットは、机に広げた一覧を見ながら答えた。
「できれば、魔物の解体記録です」
「お前、とうとう魔術院で肉屋の帳簿まで読み始めたな」
「必要なんです!」
昨日、杏々が木苺亭から持ち帰った記録によって、赤露実に起きている変化が四、五年前から続いている可能性が浮かび上がった。ならば、薬草や魔物、木材など、森から得られる他のものにも同じ変化が起きていないかを調べれば、魔力そのものを測っていなかった過去についても、別の形で変化を追えるかもしれない。
「薬草商の方は?」
先輩術師が尋ねると、リネットは別の紙を取り出した。
「まだ途中です。ただ、北の森で採れた薬草については、上等品として買い取られる割合が少し下がっています」
「いつから?」
「はっきりするのは、やっぱり数年前からです」
「他の産地は?」
「そこを比較しています。王都南側の林や西の丘陵から入る薬草には、同じ傾向がほとんどありません」
先輩術師の表情が少し変わった。
「北だけか?」
「今のところは」
「それは重要だな」
「はい」
世界中で起きていることではない。少なくとも、今確認できている範囲では、北の森だけが少しずつ変わっている。
◆
その頃、杏々は冒険者ギルドの受付で依頼を選んでいた。
「今日は何ある?」
「昨日は木苺亭でしたね」
「うん」
「お菓子はおいしかったですか?」
「おいしかった」
「仕事は?」
「したよ」
「一応確認しただけです」
受付嬢は依頼一覧に目を通し、ちょうどいいものを見つけたように一枚の依頼書を取り出した。
「今日は、解体所で人手を募集しています」
「解体」
杏々の反応が早い。
「お肉?」
「はい」
「やる」
「説明を聞いてください」
「聞く」
昨日と同じやり取りだった。
「最近、北側の警戒が少し落ち着いたので、王都周辺の討伐依頼も増えてきています。その影響で、ギルドの解体所へ持ち込まれる魔物が増えているんです」
「いっぱい?」
「今日はかなり多いそうです」
「食べる?」
「全部食べる場所ではありません」
「そっか」
「肉、皮、角、牙、骨、それから魔術素材になる部位を分ける場所です」
「お肉もらえる?」
「報酬は普通にお金です。ただし、解体所の職員用昼食付きです」
「やる」
「そこまで予想通りだと安心しますね」
◆
冒険者ギルドの裏手には、大きな石造りの建物がある。普段、杏々が討伐した魔物を持ち込んでいる解体所だ。今日は表側の受取口ではなく、作業場の中へ案内された。
「おー」
中央には何台もの大きな作業台が並び、天井からは太い鎖や滑車が下がっている。壁には解体用の刃物が掛けられ、床には排水用の溝が走っていた。奥には冷気の漂う保存庫もある。
「嬢ちゃんが今日の手伝いか?」
声をかけてきたのは、腕の太い年配の男だった。厚い前掛けを着け、腰には何本もの解体用ナイフを下げている。
「うん。杏々」
「知ってる」
「なんで?」
「森猪を背負ってきた嬢ちゃんだろ」
「また」
「ここじゃかなり有名だぞ」
「やだな」
「安心しろ。客じゃなくて職員の間だけだ」
「ならいい」
「いいのか?」
男は笑いながら、今日の仕事を説明した。
「今日は解体そのものじゃなく、搬入と仕分けを手伝ってもらう。刃物を使う作業は慣れてからだ」
「使えるよ」
「そういう問題じゃねえ。重量物を運べるって聞いてるから、それだけでも十分助かる」
「分かった」
◆
最初に運ばれてきたのは角兎だった。三体とも南側の農地から持ち込まれたものらしい。
「角兎」
「知ってるか?」
「食べた」
「そりゃ知ってるな」
杏々は解体済みの肉を保存庫へ運び、次に運ばれてきた森猪を見て「これも食べた」と言い、さらに岩鳥を見ても「食べた」と答えた。
「……嬢ちゃん、食ってない魔物の方が少ないんじゃねえか?」
「いっぱいあるよ」
「嬉しそうに言うことじゃねえ」
魔物ごとに、肉、皮、骨、素材と行き先が違う。男に指示されるまま、杏々は角兎の角を所定の場所へ運び、状態のいい皮を分け、肉を保存庫へ入れた。
「内臓の一部は廃棄じゃないから混ぜるなよ」
「食べる?」
「薬に使う」
「そっか」
「本当に判断基準が食えるかどうかなんだな」
◆
しばらくして、別の荷車が到着した。
「北側からだ!」
職員の一人が声を上げる。
「持ち込み四体!」
「北の森?」
杏々が反応すると、職員は「森の外縁近くだ」と答えた。警戒区域そのものではなく、周辺農地の安全確認を兼ねて活動している中堅冒険者の一団が仕留めたものらしい。
運び込まれたのは角兎が二体と牙鼠が二体だった。
「…………」
杏々は角兎を見つめた。
「やっぱ小さい」
「ん?」
年配の職員が近づいてくる。
「何が?」
「角兎」
昨日、北の森の中で見た痩せた個体。そして、今日運び込まれた二体も、南側で杏々が見た角兎より少し小さい。
「こいつら北側か」
「うん」
「最近こんなもんだぞ」
男は何気なく答えた。
「前は?」
「前?」
「もっと大きかった?」
男が杏々を見る。
「誰に聞いた?」
「自分で見た」
「北の森入ったのか?」
「調査で」
「ああ、例のやつか」
男は角兎を持ち上げ、身体の状態を確かめた。
「……そうだな」
「大きかった?」
「昔はもうちょっと肉が取れた」
「やっぱり」
「昔っていっても、十年も二十年も前じゃねえぞ」
「何年?」
「五、六年前くらいまでは」
杏々の目が止まった。
「五年」
「そのくらいだったと思うが」
男は牙鼠も見た。
「こっちも最近小さい」
「牙鼠も?」
「ああ」
「なんで?」
「知らん」
答えは即座だった。
「解体屋は、来たものを解体するだけだ」
「ダリオと一緒」
「誰だ?」
「設備の人」
「知らん」
◆
角兎の処理が始まると、職員は皮を外し、内臓を抜き、可食部を分けていった。杏々は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「これでどのくらいお肉?」
「この個体なら……」
職員が秤を確認する。
「このくらいだな」
「少ない?」
「南のやつよりはな」
「南?」
「さっき入っただろ。王都南側の農地で討伐された個体だ」
「同じ角兎なのに?」
「産地が違えば多少は変わる」
「食べ物みたい」
「食べ物だろ」
「そうだった」
杏々は南側の角兎と北側の角兎を見比べた。
「角は?」
「ん?」
「角の長さ」
「大して変わらんな」
「じゃあ同じくらい大人?」
職員が少し驚いた顔をする。
「よく分かったな」
「この前セリアに聞いた」
森で見た痩せた角兎も、角の長さから成体だと判断されていた。
「同じくらい大人なのに、小さい?」
「そういう個体ってこともある」
「二匹とも?」
「……まあ、なくはない」
「最近ずっと?」
男は答える前に少し考えた。
「気になるなら帳簿見てみるか?」
「文字読めない」
「じゃあ聞くなよ!」
「リネットちゃんなら読める」
「ああ、魔術院の子か」
「知ってる?」
「昨日からギルドの記録をひっくり返してる」
「もう来た?」
「朝からな」
「早い」
「嬢ちゃんの友達だろ。止めてくれ」
「無理」
「即答かよ」
◆
ちょうどその頃、ギルドの資料室では、リネットが大きな帳簿を机へ置いていた。
「これです! 北の森周辺で討伐された角兎の買い取り記録!」
「声を落とせ」
先輩術師が注意する。向かいには受付嬢と、ギルドで素材査定を担当している職員が座っていた。
「産地まで残してあるんですね」
「依頼番号と紐づいてるからな」
査定担当が答える。
「討伐場所によって、同じ魔物でも素材品質が変わることがある」
「それです!」
「近い」
「すみません」
リネットは椅子へ座り直した。
「五年前と今年を比較できますか?」
「できるが」
帳簿を開くと、角兎、北の森周辺、成体という記録が並んでいる。
「討伐証明だけじゃなく、重量もある」
「どうしてです?」
「肉の買い取り値を出すためだ」
「なるほど……!」
「肉屋の帳簿が研究資料になるとはな」
先輩術師が呟いた。
◆
五年前、三年前、今年の記録を比較すると、リネットは小さく呟いた。
「……下がってる」
「どれくらい?」
先輩術師が尋ねる。
「年によってばらつきはあります。でも、同程度の角長、つまりおおむね同じ成長段階とみられる個体の平均可食部重量が、五年前より一割以上少ないです」
「角兎だけか?」
「牙鼠も見ます」
別の帳簿を開き、北側の牙鼠の記録を確認する。
「こっちも同じような傾向があります」
「南側は?」
王都南側の農地、南東の林、西側の丘陵と順番に比較していく。
「…………」
リネットが手を止めた。
「ほとんど変わってない」
「西は?」
「多少の年変動はあります。でも、北側ほど一方向へ変化していません」
「北だけ」
受付嬢が言う。
「今の記録を見る限りは」
リネットが答えた。
「はい」
◆
さらに、薬草、赤露実、魔物の記録を並べていく。
「変化が始まった時期は?」
先輩術師が尋ねる。
「完全には揃いません。赤露実は四、五年前、角兎と牙鼠は五年前頃から平均が落ち始めています」
「薬草は?」
「品質低下が目立つのは四年前くらいからです」
「魔力濃度は?」
「三年前の記録ですでに低下傾向が出ています。その前は観測回数が少なすぎます」
「つまり」
先輩術師が整理する。
「大体五年ほど前から、北の森で複数のものが変化し始めている」
「はい」
「だが、全部が同時に始まったとまでは言えない」
「はい」
「原因も分からない」
「はい」
「よし」
「よし?」
「お前が先走って結論を出してないからだ」
「私だって学習します!」
◆
解体所では昼食の時間になっていた。
「飯だぞ」
「やった」
「本当に仕事中で一番いい返事だな」
職員たちと一緒に大きな机へ座ると、杏々の前には端肉の煮込みが置かれた。
「これ何?」
「今日出た肉じゃねえぞ」
「違うの?」
「昨日までに処理した森猪と角兎の端肉だ」
大鍋の中では、根菜や豆と一緒に肉が柔らかく煮込まれている。
「いろんなお肉」
「売り物にするには小さい部分を使ってる」
「もったいなくない」
「そういうことだ」
杏々はスプーンを入れ、一口食べた。
「おいしい」
「解体所の賄いは肉だけは豪華だからな」
「毎日これ?」
「そんなわけあるか」
「働きたい」
「冒険者やめる気か?」
「それはやだ」
「なんで?」
「自分でご飯取りに行けるから」
「……ああ、そう」
職員は納得した。
◆
「北の角兎」
煮込みを食べながら、杏々が言った。
「味も違う?」
「どうだろうな」
「食べたら分かる?」
「個体差もあるから、一匹二匹じゃ判断できん」
「いっぱい食べる?」
「研究のために全部食おうとするな」
「ダメ?」
「買うなら止めん」
「お金かかる」
「当たり前だ」
男はパンをちぎりながら続けた。
「ただ、北の森の獲物が軽くなったって話は、猟師連中も前からしてた」
「知ってた?」
「知ってたってほどじゃねえよ」
「?」
「そんなもん、毎年同じじゃない」
雨、寒さ、餌、繁殖、魔物の数。いろいろな条件で獲物の大きさは変わる。
「二、三年くらいなら、そういう年もあるで終わる」
「五年は?」
職員は少し考えた。
「こうやって言われると、長いな」
「誰も調べなかった?」
「困るほどじゃなかったからな」
「困らない?」
「一匹から取れる肉がちょっと減ったくらいなら、別の個体を狩ればいい」
「そっか」
「依頼そのものも減ってきたら?」
杏々が聞くと、男の手が止まった。
「……それが今か」
「角兎少ない」
「ああ」
「熊、ご飯なくなった」
「…………」
男は煮込みを見つめた。
「なるほどな」
◆
午後、杏々は解体所の搬入を終えてギルドへ戻った。
「お疲れさまでした」
「いっぱい運んだ」
「聞いています」
「お肉も見た」
「それも?」
「北の角兎小さい」
受付嬢の表情が変わった。
「その話、リネットさんたちも今調べていますよ」
「いる?」
「資料室です」
「行く」
「報酬を受け取ってからにしてください!」
「あ」
◆
依頼達成の報酬を受け取り、杏々は資料室へ向かった。
「リネットちゃん」
「杏々さん!」
机の上は今日も紙でいっぱいだった。
「何してた?」
「解体所」
「ちょうどいいところに!」
「?」
「杏々さん、北側から持ち込まれた角兎を見ました?」
「見た」
「小さかった?」
「うん」
「南側と比べて?」
「南の方が大きい」
「やっぱり」
リネットは帳簿を見せた。
「記録でも同じです。北の森周辺で討伐された成体の角兎は、数年前より平均して取れる肉の量が減っています」
「牙鼠も?」
「減っています」
「赤露実も」
「はい」
「薬草は?」
「品質が下がっています」
「いっぱい」
「いっぱいです」
杏々は少し考えた。
「全部、ご飯減ってる?」
「……近いです」
「薬草はご飯じゃないよ?」
「そこは自分で訂正するんですね」
「でも角兎食べる」
「はい」
「牙鼠も食べる?」
「食べる地域はあります」
「じゃあご飯」
「杏々さん基準ではそうですね」
◆
リネットは地図を広げた。
「重要なのは、同じ変化が他の地域ではほとんど見られないことです」
「北だけ?」
「今調べた範囲では」
「南は?」
「角兎の大きさはほぼ変わっていません」
「西」
「同じです」
「赤露実は?」
「北の森に多いので単純比較が難しいです」
「そっか」
「でも薬草については、他地域の品質は大きく変わっていません」
「じゃあ」
杏々が北の森を指す。
「ここだけ変」
「かなり可能性が高くなりました」
「魔力のせい?」
「それはまだ」
リネットはすぐに言葉を止めた。
「魔力低下と同じ場所で起きている、というところまでです」
「同じだから怪しい?」
「はい」
「でも違うかも?」
「はい」
「難しいね」
「研究ってそういうものです」
「大変だね」
「本当に」
◆
そこへ、資料室の扉が開いた。
「リネット!」
ギルド職員が入ってくる。
「北の森の監視班から追加報告だ」
「森爪熊ですか?」
「ああ」
杏々も振り返った。
「熊?」
「親子三頭の足跡を追っていた班からだ」
「どこ行った?」
「北」
「昨日も北って」
「ああ。さらに移動してる」
職員は地図を広げた。
「この辺りだ」
以前の巣と餌を置いた地点から、かなり北へ移動している。
「人里から遠い?」
「かなりな」
「よかった?」
「それだけならな」
リネットが地図を見る。
「この辺りって……」
「何かある?」
杏々が尋ねる。
「昔の地図だと、小さな沢があります」
「水?」
「はい」
「ご飯は?」
「それは分かりません」
「調査班の報告では」
職員が続ける。
「新しい角兎の足跡が見つかってる」
「いる?」
「北の森中央部よりは、痕跡が多いそうだ」
杏々の目が少し明るくなる。
「熊、ご飯見つけた?」
「まだ分からん」
「またそれ」
「大事なんですよ!」
◆
「もう一つある」
職員が言った。
「森爪熊が、自分で獲物を仕留めた痕跡が見つかった」
「ほんと?」
杏々がすぐに聞く。
「ああ」
「何?」
「森猪の小型個体らしい」
「食べた?」
「食痕から見てな」
「子供も?」
「そこまでは分からん」
「そっか」
それでも、人間が置いた餌ではない。森爪熊が自分で獲った食べ物だ。
「よかった」
杏々が笑うと、リネットも少しだけ表情を緩めた。
「もし、その辺りにまだ餌が残っているなら、親子がそこへ定着する可能性もある」
職員が言う。
「そうなれば、少なくとも農地へ戻ってくる危険は下がる」
「熊の問題終わる?」
「まだだ」
杏々が頬を膨らませる。
「また?」
「今度は本当にあと少しだ。親子がそこに留まるか確認する。それから周辺に人間の生活圏がないか、他の危険な魔物がいないかも調べる」
「なるほど」
「すぐ『解決』って言うな」
「分かった」
◆
リネットは、森爪熊が移動した位置へ小さな印をつけた。
「北の方」
杏々が言う。
「はい」
「森の真ん中より、ご飯ある」
「そうみたいですね」
「魔力も多い?」
「……それは」
リネットは答えかけて、言葉を止めた。
「測ってみないと分かりません」
「また測る?」
「いずれは」
「私も行く?」
「まだ決まってません」
「お昼――」
「それも決まってません!」
◆
その夜、北の森の奥にある細い沢の近くで、森爪熊の親は鼻先を地面へ近づけていた。血の匂い、土、水、そして獲物の匂いが混じっている。
少し離れたところでは、二頭の幼獣が森猪の残った肉を食べていた。罠にかかっていた一頭の脚はまだ完全ではない。それでも、以前よりはしっかり地面へついている。
親熊は自分の分を少しだけ食べると、顔を上げた。沢の向こうの暗い森からは、角兎の匂いと牙鼠の気配が漂ってくる。数は少ない。だが、今までいた場所よりは確かに多かった。
「ヴゥ……」
親熊は、もう人里の方向を見なかった。
ただ、その足元に生えている魔灯苔は、北の森中央部で見たものよりほんの少しだけ明るく光っていた。




