北の森を測ろう
翌朝、杏々が冒険者ギルドへ入ると、いつもの受付嬢がすでに彼女を待っていた。
「おはようございます、杏々さん」
「おはよ」
「今日は依頼を選ばなくて大丈夫ですよ」
「決まってる?」
「はい」
「食べられる?」
「調査依頼です」
「そっか」
少しだけ残念そうな顔をした杏々へ、受付嬢が一枚の依頼書を見せる。
「北の森における魔力環境調査。その運搬及び護衛補助です」
「北の森」
「はい」
「リネットちゃんの?」
「そうです」
杏々の目が少し明るくなる。
「行ける?」
「今回は正式な合同調査ですから」
北の森は、森爪熊の出没以来、新人冒険者が自由に立ち入れる場所ではなくなっている。まして今回向かうのは、以前杏々が薬草を採った浅い区域よりも奥だ。通常なら、今の杏々のランクで入れる場所ではない。
「ただし」
受付嬢が続ける。
「杏々さんは調査隊の護衛ではありません」
「違うの?」
「主な担当は観測機材の運搬です」
「荷物」
「はい。それと、調査中に何か異常を見つけた場合の報告補助です」
「魔物出たら?」
「護衛担当の指示に従ってください」
「倒しちゃダメ?」
「必要な場合を除いて、杏々さんから戦闘を始めないでください」
「分かった」
「今回の正式な護衛は、もっと上のランクの冒険者ですからね」
「セリア?」
「いますよ」
「おー」
「それから」
受付嬢は杏々をじっと見る。
「森爪熊を見つけても追わない」
「うん」
「食べられそうな魔物を見つけても追わない」
「うん」
「知らない実を見つけても食べない」
「分かってるよ」
「よし」
「お昼は?」
「支給されます」
「やった」
「最後だけ一番嬉しそうですね」
◆
北門の前には、すでに調査隊が集まっていた。
「杏々さん!」
「リネットちゃん」
大きな鞄を背負ったリネットが手を振る。その隣には、いつもの先輩術師がいた。さらに見覚えのある顔もある。
「ダリオ」
「おう」
「またいる」
「こっちの台詞だ」
昨日まで農地設備を見ていたダリオが、荷車の横に立っていた。
「ダリオさんにも来ていただくことになりました」
リネットが説明する。
「北部農地側の設備系統を現場で把握している人がいた方がいいので」
「俺は森の地脈測定が専門じゃないけどな」
「管理局から観測担当の方も来ています」
リネットが反対側を見ると、そこには四十代ほどの男性がいて、杏々の背丈ほどもある細長い金属器具を確認していた。
「管理局の観測技師だ」
男性が言う。
「今日の測定を担当する」
「名前は?」
「ローディンだ」
「ろー……」
「無理に覚えなくていい」
「助かる」
「杏々さん!」
「いい。先に聞いてた」
ローディンは特に気にしていないようだった。
そのさらに外側には、武装した冒険者たちがいる。セリアと、男女二人の冒険者。全部で三人だ。
「おはよう、杏々」
「おはよ」
セリアが杏々の腰を見る。
「剣は?」
「修理中」
「何した?」
「川鎧魚」
「…………」
「なんでみんな同じ顔するの?」
「買って何日だよ」
「二日」
「そりゃその顔にもなる」
セリアはため息をついた。
「まあ今日は、お前が戦う予定じゃないからいい」
「何か出たら?」
「私らがやる」
「分かった」
「本当に任せろよ?」
「うん」
「……素直なのが逆に不安になるの、なんなんだろうな」
◆
今回使う観測機材は多かった。魔力濃度を測る観測柱、地下の流れを見る探査板、記録用の術式具、交換用の魔石、固定具、工具、そして食料と水まである。
「これ全部?」
杏々が荷車を見る。
「本来なら荷車で森の入口まで運び、そこから数人で分担する予定です」
リネットが答える。
「奥は荷車が入れませんから」
「ふーん」
「かなり重いですよ」
「持てるよ」
「でしょうね」
もう誰も止めなかった。
◆
調査隊は北の街道を進んだ。以前よりも人通りは少なく、農地では作業が再開されつつあるものの、森に近い畑では武器を持った見張りが立っている。
「熊、最近来てない?」
杏々がセリアに尋ねる。
「ああ」
「ご飯食べてる?」
「監視班の報告だと、森の奥へ置いた餌には二回来た」
「子供も?」
「一緒だったそうだ」
「よかった」
「ただな」
セリアは森を見る。
「昨日は置いてない」
「なんで?」
「ずっとやるわけにいかないからだよ」
「そっか」
「人間が餌を用意することを覚えすぎても困る」
「自分で取らなくなる?」
「それもあるし、人間の匂いを餌と結びつけても困る」
「なるほど」
「だから、あくまで時間稼ぎだ」
森のご飯が戻らない限り、本当の意味で森爪熊の問題は終わらない。
◆
北の森の入口は、杏々が最初に薬草を採った場所の近くだった。
「あ」
「どうしました?」
「ここ来た」
「初めての依頼の場所ですか?」
「うん」
木々や草、道の形に見覚えがある。
「あっち薬草あった」
「今日は採りませんよ」
「分かってる」
「赤露実も?」
「採らないよ」
「成長しましたね……」
「なんでしみじみしてるの?」
荷車はここまでで、この先は徒歩になる。
「さて」
ローディンが地図を広げた。
「今日の観測点は五か所だ」
「五個」
「第一観測点は森の外縁部。第二は旧初心者区域中央。第三は以前の赤境界付近」
ローディンは地図の上で指を動かした。
「第四から先は中層区域。第五は北部地脈の分岐に最も近い地点だ」
「深い?」
「今日の予定では、そこが一番奥だ」
リネットが補足する。
「森爪熊の旧生息域よりは手前です」
「熊には会わない?」
「できれば」
「会ったら?」
「距離を取ります!」
「分かった」
◆
「じゃあ荷物を分けるぞ」
セリアが言った。
「観測柱は二人で――」
「私持つ」
「杏々」
「うん」
「これ一本で結構あるぞ」
「大丈夫」
杏々が観測柱を持ち上げる。
「…………」
「他は?」
「まだ持つの?」
「いけるよ」
「じゃあ探査板を……いや待て、それも重い」
「持つ」
「工具箱は?」
「持てる」
「食料は?」
「それは絶対持つ」
「そこだけ意志が強い!」
結局、杏々は観測柱一本に探査板、工具箱、さらに食料の入った鞄まで持つことになった。見た目だけなら、荷物が歩いているようだった。
「見える?」
リネットが心配する。
「見えるよ」
「前?」
「ちょっと」
「ちょっと!?」
◆
第一観測点は、森の入口からさほど離れていない場所だった。
「ここで測る」
ローディンが観測柱を地面へ立てる。
「杏々さん、そこお願いします」
「ここ?」
「はい」
杏々が柱を地面へ下ろす。
「軽く差し込んで」
「軽く?」
「軽くです!」
「うん」
ぐ、と音がして、柱が予定より深く地面へ入った。
「…………」
「入った」
「杏々さん」
「なに?」
「次から私が止めます」
「なんで?」
「目印が埋まりました」
ローディンが無言で柱を少し引き抜いた。
◆
観測が始まると、柱に刻まれた術式が淡く光り、透明な板の上へ数字が浮かんだ。
「どう?」
杏々が尋ねる。
「外縁部としては低めですが、過去の観測値から大きく外れてはいません」
リネットが記録する。
「少ない?」
「少しです」
「じゃあ次?」
「はい」
一行は森の奥へ進んだ。
◆
第二観測点は、かつて初心者向け採取区域として使われていた場所だった。
「…………」
杏々が周囲を見る。
「前より静か?」
セリアが振り返る。
「分かるのか?」
「前、もっと音した気がする」
「何の?」
「草とか」
「草は音を出さないだろ」
「中のやつ」
「虫や小動物か」
「たぶん」
杏々には正確な数など分からない。それでも、最初に来たときより森が少し静かに感じられた。
「確かに」
同行していた別の冒険者が周囲を見る。
「牙鼠の痕跡が少ないな」
「角兎も」
セリアが地面を見る。
「古い足跡はあるが、新しいのがほとんどない」
「測ります」
リネットが言い、観測柱と探査板を設置する。やがて数値が浮かび上がった。
「第一地点より低い」
ローディンが呟く。
「どのくらいです?」
「一割弱」
「そんなに?」
「地点差として説明できる範囲ではある」
ローディンは慎重だった。
「一か所だけでは何とも言えん」
「次へ行きましょう」
◆
第三観測点は、赤い境界杭の近くだった。杏々が大きな足跡を見つけた場所でもある。
「あ」
杏々が杭を指す。
「これ覚えてる」
「ここで止まったんだよな」
セリアが言う。
「うん」
「よく入らなかったな」
「ダメって言われてたから」
「本当にそこは偉いよ」
「また言われた」
以前は、この杭より先が新人冒険者の立入禁止区域だった。今はさらに手前から警戒指定されている。
「観測します」
リネットたちが準備を始める間、杏々は周辺を見回した。木々や草、苔の中に、薄い青緑色の苔がある。
「これ」
「何です?」
杏々が木の根元を指す。
「色薄い」
リネットが近づく。
「魔灯苔ですね」
「前もっと光ってなかった?」
「前に見たんですか?」
「たぶん」
赤露実を採った頃、木の根元に淡く光る苔があった気がする。
「魔灯苔は、周囲の魔力を吸収して弱く発光します」
「じゃあ魔力少ない?」
「可能性はあります」
「測定出たぞ」
ローディンが言った。
全員が集まる。
「……低いな」
「第二地点より?」
「さらに下だ」
「過去の記録と比べると?」
リネットが尋ねる。
「この周辺は三年前にも簡易測定されている」
ローディンが記録を確認する。
「当時より約二割低い」
「二割……」
リネットが数値を書き込む。先輩術師の顔も、少しずつ真剣なものになっていた。
◆
第四観測点へ進む前に、セリアが休憩を提案した。
「ここで休憩にする」
「やった」
杏々がすぐに反応する。
「今だけ元気になるな」
「ずっと元気だよ」
一行は少し開けた場所へ座った。配られた昼食は、硬めのパン、岩鳥の燻製、豆、チーズ、そして土玉芋だった。
「土玉芋」
杏々が嬉しそうに言う。
「また芋か」
ダリオが笑う。
「好きになった?」
「うん」
今日は焼いてあり、皮が少し焦げている。中はほくほくしていた。
「おいしい」
「昨日も食ってたろ」
「昨日は蒸したやつ」
「違い分かるのか?」
「こっち香ばしい」
「そりゃ焼いてるからな」
杏々は塩を少し付けてから、ふと尋ねた。
「これ、魔力いっぱい使って作ってる?」
ダリオの手が止まる。
「……農地の話か」
「うん」
「この辺りの土玉芋なら、調整柱の恩恵は受けてるだろうな」
「じゃあ森の魔力使ってるかも?」
「まだ決まってない」
リネットがすぐに言う。
「杏々さん、そこはまだ断定しないでくださいね」
「分かってるよ」
「本当に?」
「まだ分かんない」
「はい」
杏々は芋を見る。
「でも」
「?」
「もしそうだったら」
もう一口食べてから、杏々は言った。
「森のご飯使って、人のご飯増やしてるんだね」
「…………」
誰もすぐには答えなかった。簡単に言えば、そうなる可能性がある。
「だから調べるんです」
リネットが言った。
「本当にそうなのかを」
「うん」
◆
休憩を終えると、第四観測点へ向かった。ここから先は、杏々にとって初めての場所だった。
「知らないところ」
「勝手に離れるなよ」
セリアが言う。
「うん」
「杏々」
「なに?」
「今日は本当に聞き分けいいな」
「いつもだよ」
「…………」
「何?」
「何でもない」
森は少しずつ深くなり、木々が太くなって地面の起伏も大きくなっていく。それでも、杏々は変わらず周囲を見回していた。
「やっぱ静か」
鳥の声や虫の羽音、小型魔物の気配がないわけではない。だが、以前より明らかに少ない。
「昔のこの辺りを知ってる人います?」
リネットが尋ねると、護衛の一人が手を上げた。
「三年前に何度か来た」
「どうでした?」
「角兎はもっと見たな」
「牙鼠は?」
「嫌ってほどいた」
「今日は?」
「まだ一体も見てない」
杏々が呟く。
「ご飯ない」
「森爪熊から見ればな」
セリアが答えた。
◆
第四観測点で観測柱を立て、探査板を地面へ置く。
「……低い」
ローディンの声は、今度は早かった。
「どの程度です?」
「第三地点からさらに落ちている」
「連続して?」
「ああ」
リネットが地図へ数字を書き込む。外縁、旧初心者区域、赤境界、中層と進むにつれて、数値は下がっていた。
「予想通り?」
杏々が聞く。
「ある程度は」
リネットが答える。
「以前の記録でも、深部の低下が大きい傾向はありました」
「じゃあ普通?」
「普通ではありません」
ローディンが言う。
「本来なら、この辺りは森の外縁より魔力濃度が高い」
「逆?」
「ああ」
自然の森は人の活動が少なく、魔力を多く含む魔物や植物が暮らしている。普通なら、奥へ進むほど魔力は多少濃くなるはずだった。
「なのに今は?」
「逆転してる」
杏々が言う。
「そういうことだ」
◆
第五観測点は、今日の最奥だった。
「ここから先は行かない」
セリアが全員へ確認する。
「調査が終わったら、同じ経路で戻る」
「はい」
「了解」
リネットが地図を見る。
「この地点は、地下の地脈で言えば、北部農地へ向かう支脈との分岐に最も近い場所です」
「下で分かれてる?」
杏々が地面を見る。
「そうです」
「見えないね」
「見えません」
「掘る?」
「掘りません!」
観測機材を設置し、ローディンが調整を始める。
「少し時間がかかる」
「なんで?」
「ここでは表層の魔力濃度だけじゃなく、地下の流れも見る」
「地脈?」
「ああ」
探査板と観測柱、複数の魔石を使って術式を起動すると、淡い光が地面へゆっくり沈むように消えていった。
全員が待つ中、杏々も静かに待っていたが、しばらくすると小さく呟いた。
「お腹すいた」
「さっき食べたでしょう!」
「待ってるとすく」
「知りません!」
◆
「出た」
ローディンが言った。
リネットがすぐ横へ行く。
「どうです?」
「表層は第四地点より低い」
「地下は?」
「…………」
ローディンが眉を寄せる。
「もう一度測る」
「異常ですか?」
「確認する」
測定をやり直しても、結果は変わらなかった。
「どう?」
杏々が聞く。
「森側支脈の流量が低い」
リネットの顔が変わる。
「どのくらいです?」
「現在の北部農地側の配分記録と比較すると……」
ローディンが計算する。
「かなり差がある」
「数字で」
「同じ主脈から分かれた後、農地側へ流れている量に対して、森側は半分にも届いていない」
「…………」
その場が静まり返る。
「昔は?」
杏々が聞く。
「分からない」
リネットが答える。
「昔の森側の数字がないから」
「じゃあ前からこれかも?」
「そうです」
先輩術師が頷く。
「ここが重要だ。今低いからといって、昔より減った証拠にはならない」
「でも」
リネットが地図を見る。
「主脈の流入量は長期的に横ばい」
「ああ」
「農地への配分は増加」
「ああ」
「そして現在、森側は明らかに低い」
「それでもまだ状況証拠だ」
「……はい」
リネットは唇を結び、記録用紙へ大きく数字を書き込んだ。証明には、まだ届かない。
◆
「もう一個気になる」
杏々が言った。
「何です?」
「こっち」
杏々が第五観測点より少し東を指す。
「何が?」
「分かんない」
「え?」
「でも、さっきからこっちの木」
杏々が近くの木へ歩くと、セリアもついていった。
「離れるなよ」
「うん」
木の根元には苔と草が生えている。
「こっちの方が元気ない」
リネットが見る。
「……確かに」
同じ種類の魔灯苔だが、西側より東側の方がさらに光が弱い。
「東は?」
先輩術師が地図を見る。ローディンも地下地脈図を確認した。
「北部農地へ向かう支脈側だ」
全員の表情が変わった。
「測れます?」
リネットがすぐに尋ねる。
「予定外だぞ」
「お願いします!」
「時間が――」
「あと一か所だけ!」
「……」
「お願いします!」
「分かった。分かったから顔を近づけるな」
◆
予定外の第六観測点は、第五地点からそれほど離れてはいなかった。ただ、地下の地脈図を見ると、北部農地へ向かう支脈に少し近い位置にある。
「測定開始」
ローディンが観測柱を立て、リネットが探査板を地面へ置く。術式が動き始めると、探査板に刻まれた細い線が順番に淡く光った。
杏々はその様子を眺めていたが、やがて小さく首を傾げた。
「これ、さっきと違う」
「何がです?」
リネットが振り返る。
「光」
「光?」
「さっきは、こっちからこっちだった」
杏々は指で探査板をなぞった。先ほどの観測では、地面の下を流れる光が、森の奥へ向かってゆっくり一定方向に進んでいた。しかし今回は、その一部が途中で止まり、ほんの一瞬だけ横へ流れた。
「今の、もう一度出せます?」
リネットが尋ねると、ローディンは眉を寄せて測定器を調整した。
「待て。流量を先に見る」
浮かび上がった数値を確認したローディンは、短く呟いた。
「低い」
「第五より?」
「ああ」
「どのくらいです?」
「表層も地下も、さらに一段落ちている」
「農地側に近いのに?」
杏々が聞くと、リネットは地図を見ながら呟いた。
「だから、かもしれません」
「リネット」
先輩術師がすぐに声をかける。
「はい」
「まだ何も分かっていない」
「……はい」
「もう一度測れ」
ローディンが観測術式を再起動すると、淡い光が地面へ沈み、しばらくして探査板に地下の魔力流が描き出された。今度は先ほどのような横方向への流れは現れず、光は森の奥へ向かって素直に進んでいる。
「横に行かない」
杏々が言うと、ローディンも探査板を確認しながら頷いた。
「ああ。さっきの反応は出ていない」
「測定誤差ですか?」
リネットが尋ねる。
「可能性はある」
「でも」
リネットは最初の記録板を手に取った。
「記録には残っていますよね?」
「残ってる」
そこには、ごく短時間だけ、森の奥へ向かっていた魔力の一部が別の方向へ引かれたような波形が刻まれていた。
「方向は?」
先輩術師が尋ねると、ローディンは記録板と地図を照らし合わせた。
「……南東寄りだ」
「南東?」
リネットも地図を覗き込む。その方向には北部農地があり、さらに複数の魔力集積設備が設置されている。
全員が黙り込んだが、先輩術師はすぐに首を振った。
「偶然だ。今の一回だけでは、何の証拠にもならん」
「はい」
「地下の流れは一定ではない。周囲の魔物や植物、術式の使用によって揺れることもある」
「分かっています」
「なら、記録だけ残しておけ」
「はい」
リネットは第六観測点の欄へ、慎重に書き足した。
『一時的な横方向流動を確認。再現せず。原因不明』
「これ、何?」
杏々が記録を覗き込む。
「今の変なやつです」
「変なの?」
「今のところは、そうです」
杏々は地面へ視線を落とし、少し考えてから言った。
「魔力も道を間違えるんだね」
「道を間違えたのかどうかも、まだ分かりません」
「そっか」
その場では、誰もそれ以上気にしなかった。今回の調査で重要なのは、第六観測点でも魔力濃度が低かったことだと整理された。
ただ、リネットだけは、その小さな一行を記録から消さなかった。
◆
そのとき、杏々が顔を上げた。
「…………」
「どうしました?」
「音」
セリアの表情が変わる。
「どっち?」
「向こう」
森の奥で枝が揺れた。護衛三人が武器へ手をかける。
「調査員は中央へ」
セリアが短く言う。
リネット、ローディン、ダリオ、先輩術師がまとまり、杏々も言われた通り中央へ入った。
「杏々」
「うん」
「出るなよ」
「うん」
がさり、と茂みが揺れ、その向こうから一つの影が現れた。
「角兎?」
杏々が呟く。
姿を現したのは一本角の兎だった。しかし、以前見た角兎より明らかに身体が小さく、毛にも艶がない。
「成体……ですよね?」
リネットが尋ねる。
「角の長さを見る限りは」
セリアが答える。
「痩せてるな」
角兎は人間たちを見ると、すぐに逃げていった。
「追わない」
杏々が自分から言った。
「言われる前に言うな」
「えらい?」
「えらいよ」
セリアが苦笑する。しかし、すぐに表情を引き締めた。
「……餌が少ないだけじゃなさそうだな」
「魔力も?」
杏々が聞く。
「魔物は魔力の影響を受けます」
リネットが答える。
「低い環境が長く続けば、成長にも影響が出る可能性はあります」
「弱くなる?」
「種類によっては」
「じゃあ」
杏々が角兎の消えた方向を見る。
「森爪熊のご飯」
「はい」
「減っただけじゃなくて、小さくなってるかも?」
「…………」
リネットは答えなかった。その可能性まで、今まで考えていなかったのだ。
◆
「戻るぞ」
セリアが言った。
「これ以上は今日の仕事じゃない」
「はい」
「測定も十分だろ」
ローディンが頷く。
「むしろ増えた」
「杏々さんのせいで観測点増えましたからね」
「私?」
「魔灯苔を見つけたでしょう」
「よかった?」
「すごく」
リネットは笑った。
「ありがとうございます」
「じゃあ報酬増える?」
「そこに繋げるんですか!?」
◆
一行は来た道を戻った。途中、第三観測点の近くで杏々が足を止める。
「待って」
「今度は何だ?」
セリアが周囲を見る。
「赤露実」
「…………」
「そこ?」
「ある」
以前採った赤い実が、木の下にいくつか実っている。
「採らないよ」
「まだ何も言ってない」
「でも」
杏々が実を見る。
「前より小さい」
「…………」
リネットが近づく。
「確かに」
「時期の問題じゃないですか?」
ダリオが尋ねる。
「それもあり得ます」
リネットは実に触れず、じっくり観察した。
「今日だけでは分かりません」
「持って帰る?」
「依頼対象ではありません」
「じゃあ取らない」
「……本当に成長しましたね」
「また言われた」
◆
夕方、調査隊は無事に王都へ戻った。ギルドの会議室には、ガルド、受付嬢、調査隊、そして管理局から来た二人が集まっていた。
「で」
ガルドが言う。
「何が分かった?」
リネットが地図を広げる。
「今日、六地点で魔力濃度を測定しました」
「予定は五つじゃなかったか?」
「増えました」
「誰のせいだ」
全員が杏々を見る。
「私?」
「何した」
「苔見つけた」
「……ならいい」
ガルドは地図を見る。
「続けろ」
「外縁部から森の中層へ進むほど、魔力濃度が下がっています」
「普通と逆なんだな?」
「はい」
ローディンが答える。
「自然区域なら、通常は外縁より内部の方が高い傾向があります」
「地下は?」
「森側支脈の流量も低い」
「農地と比べると?」
「現在値では、かなり差があります」
管理局員の表情が硬くなる。
「だが、それだけで農業用設備が原因とは言えん」
「分かっています」
リネットが答える。
「過去の森側支脈の流量記録がありませんから」
「なら結論は?」
「まだ出せません」
「…………」
「ただ」
リネットは第六観測点を指した。
「農業用支脈へ近づいた地点で、さらに魔力濃度が低下していました」
「偶然の可能性は?」
「あります」
「地下地形は?」
「調査が必要です」
「季節要因」
「否定できません」
「なら」
管理局員が言う。
「追加測定だな」
「はい」
リネットは頷いた。
「もっと広い範囲で」
◆
「もう一つ」
リネットが続ける。
「森内部で、痩せた角兎を確認しました」
「痩せた?」
「成体と思われますが、体格が小さい個体でした」
ガルドが腕を組む。
「餌不足か」
「それだけかもしれません」
「魔力の影響も?」
「可能性はあります」
「…………」
「赤露実も」
杏々が言った。
「何?」
「小さかった」
ガルドがリネットを見る。
「本当か?」
「以前の状態を私は直接見ていません。ただ、杏々さんは同じ区域で以前採取しています」
「記録ある?」
受付嬢が依頼記録を探す。
「あります。納品時の大きさと品質も」
「比べられる?」
「ある程度は」
「じゃあ見る」
杏々が言う。
「お前が?」
「食べたから覚えてる」
「……妙に信用できるのが腹立つな」
◆
会議が終わった頃には、外はもう暗くなっていた。
「お腹すいた」
「今日それ何回目ですか」
リネットが疲れた顔で言う。
「いっぱい歩いたから」
「いっぱい荷物も持ちましたからね」
「今日のご飯何かな」
「調査結果よりそっちですか?」
「結果はリネットちゃんが考えるでしょ?」
「杏々さんも考えてください!」
「私、数字分かんない」
「数字は少し覚えたでしょう!」
「四と七と九と五」
「全然足りない!」
二人は王宮への道を歩く。
「でも」
杏々が言う。
「森、ご飯少なかったね」
「……はい」
「音も少ない」
「はい」
「角兎、小さかった」
「はい」
「赤露実も」
「はい」
杏々は少し考えた。
「熊だけじゃないね」
リネットが足を止める。
「そうですね」
最初は、森爪熊が人里へ出てきた。ただ、それだけの問題だった。危険な魔物が森から出てきたから、討伐するか、追い返すか。それだけだったはずなのに、森の魔力が減り、小型魔物が減り、残った魔物の体格にも変化が出ているかもしれない。植物も、以前とは違っているかもしれない。
そして、その異変が人間の農地へ魔力を送る仕組みと繋がっている可能性がある。
「杏々さん」
「なに?」
「これ」
リネットは抱えている観測記録を見る。
「思っていたより、大きな話かもしれません」
「森より?」
「森だけでは済まないかもしれない、という意味です」
「王都も?」
「…………」
リネットは答えるまで少し時間をかけた。
「まだ分かりません」
「そっか」
「でも」
今度は、はっきりと言った。
「調べる必要があります」
「じゃあ調べよ」
「簡単に言いますね」
「だって」
杏々は歩き出す。
「ご飯減ったら困るし」
リネットも、その後を追った。
北の森で始まった異変は、とうとう人間たちが使っている魔力そのものへ繋がり始めていた。




