硬い魚
翌朝、王宮魔術院の廊下をリネットは早足で歩いていた。
「先輩、早くしてください!」
「お前な……」
その少し後ろを、昨日まで資料探しに付き合わされていた先輩術師が歩いている。
「俺は今日、別の仕事があったんだぞ」
「午前中だけじゃないですか」
「午前中も仕事だ」
「管理局へ一緒に行くのも仕事みたいなものです」
「俺の仕事ではない」
「でも先輩がいないと、また資料を見せてもらえないかもしれません」
「だから俺を連れていくのか」
「はい」
「堂々と言うな」
リネットは足を止めなかった。昨日、杏々と一緒に調べた地脈図には、北の森の地下を通る支脈と、北部農地へ魔力を供給する支脈が描かれていた。そして二つは、さらに地下で同じ主脈から分かれている。
ならば、知りたいことは明確だった。主脈から入ってくる魔力、農地側へ送られている魔力、森側へ流れている魔力。それらが以前からどう変化したのかを調べれば、北の森の魔力低下が農地設備と関係しているか確認できる。
「それが分かれば、北の森の魔力低下が農地設備と関係しているか確認できます」
「確認できる記録が残っていれば、な」
「ありますよね?」
「俺に聞くな」
「管理局ですもんね」
「だから今から行くんだろうが」
◆
その頃、杏々は冒険者ギルドにいた。
「おはよ」
「おはようございます」
受付嬢は杏々を見ると、一枚の依頼書を取り出した。
「今日はちょうど杏々さん向きの依頼がありますよ」
「食べられる?」
「まだ何も言ってません」
「向いてるって言ったから」
「どういう判断基準ですか」
受付嬢は苦笑してから依頼書を見せた。
「昨日の農地設備点検、覚えていますよね?」
「ダリオ」
「名前覚えてる!」
「えらい?」
「そこは普通……いえ、杏々さんならえらいです」
「やった」
「昨日、流入量が低かった調整柱があったそうですね」
「五個目」
「そこまで覚えてるんですか?」
「ご飯の畑だったから」
「なるほど……」
受付嬢は、もう理由を追及しなかった。
「今朝、その区域で用水路の流量も落ちていると連絡がありました」
「水少ない?」
「はい。調整柱そのものとは別件かもしれないので、ダリオさんが追加確認へ向かうそうです」
「また手伝う?」
「その募集です」
「お昼ある?」
「あります」
「やる」
「でしょうね」
受付嬢が手続きを進める。
「今回は水路設備も確認します。水の中へ入る可能性があるので、昨日より汚れますよ」
「大丈夫」
「それと、用水路では稀に小型の水棲魔物が入り込むことがあります」
杏々の目が少し動いた。
「食べられる?」
「そこに反応します?」
「何いる?」
「水泥蟹、小水蛇、それから――」
受付嬢は依頼書の注意事項を見る。
「川鎧魚の幼体が入り込むこともあるそうです」
「川鎧魚」
杏々の目が明らかに輝いた。
「食べたやつ」
「以前、食堂で食べましたね」
「おいしかった」
「ただし!」
受付嬢が先に釘を刺す。
「見つけても杏々さんが勝手に捕まえてはいけません」
「なんで?」
「成体ほどではありませんが、幼体でも鱗が硬いんです。それに今回は討伐依頼ではありません」
「見つけたら?」
「ダリオさんへ報告。必要ならギルドへ駆除要請を出します」
「食べられない?」
「捕獲されたものを買うことはできます」
「分かった」
「……急に聞き分けが良くなりましたね」
「買えるなら大丈夫」
「そこなんですね」
◆
王国魔力管理局は、王宮魔術院とは別の建物にある。華やかな研究施設というより、大量の帳簿と地図を扱う役所だった。
「また君か」
「おはようございます!」
受付にいた壮年の男性が、リネットを見て露骨に疲れた顔をした。
「昨日、稼働記録を貸しただろう」
「ありがとうございました!」
「今日は何だ」
「地脈ごとの流入記録と配分記録を見たいです」
「駄目だ」
「まだ最後まで言ってません!」
「聞かなくても分かる」
「北部主脈から各支脈へ――」
「駄目だ」
「先輩」
「俺を見るな」
先輩術師は顔を逸らした。
「こういう内部資料は、見習いが個人研究で気軽に見るものじゃない」
管理局の男は言う。
「魔力供給は王都の農業、防壁、水路、公共設備すべてに関係している」
「分かっています」
「なら――」
「だから必要なんです」
リネットは持ってきた資料を机へ置いた。
「北の森で魔力濃度が低下しています」
「それは昨日も聞いた」
「小型魔物も減っています」
「ああ」
「そして北部農地の魔力利用量は、ほぼ同じ期間で増えています」
「だから?」
「因果関係があるとは言っていません」
男が少しだけ眉を上げる。
「確認したいんです」
「…………」
「北部農地への供給増加で、北の森側へ流れる魔力が減っていないか」
「それを疑っているのか」
「疑うというより、可能性の確認です。無関係なら、それで一つ原因候補を消せます」
管理局の男は黙った。
先輩術師が横から言う。
「見せてやれ」
「先輩?」
「ただし閲覧だけだ」
男を見る。
「持ち出しなし。複写するなら管理局側の許可を取る。これでどうだ?」
「……あなたまでこの子に付き合うんですか」
「俺も早く終わらせたいんだ」
「ひどいです!」
「お前が終わらせないからだ!」
◆
王都東側農地では、ダリオが昨日と同じ作業着で待っていた。
「また来たな」
「うん」
「今日は昨日より面倒だぞ」
「水?」
「ああ」
二人は問題の区域へ向かった。畑を見る限り、まだ異常はない。土玉芋も葉野菜も穀物も、どれも普通に育っている。
しかし、用水路へ近づくと、杏々にも水量の少なさが分かった。水は流れているが、昨日見た別の水路と比べて明らかに勢いが弱い。
「上流から順番に見るぞ」
「うん」
二人は水路沿いを歩き始めた。
一か所目は異常なし。二か所目も問題ない。三か所目では、杏々が水路に引っかかっていた枝を見つけた。
「枝ある」
「この程度なら原因じゃないな」
杏々が枝を拾う。
「取る?」
「頼む」
杏々が枝を放り投げると、さらに上流へ進んだ。
しばらくして、杏々が足を止めた。
「音する」
「水の音だろ」
「違う」
「何が?」
「がりがり」
ダリオも足を止めて耳を澄ます。水路の先にある石造りの取水口から、何か硬いものが擦れる音が聞こえてきた。
「……嫌な音だな」
「いる?」
「何かはな」
二人はゆっくり近づいた。取水口には、枝や大きな石が水路へ流れ込むのを防ぐため、大きな金属製の格子が設置されている。その格子に、何かが挟まっていた。
「魚」
「川鎧魚だな」
「おー」
「喜ぶな」
体長は杏々の腕より少し長い程度で、成体には遠い。それでも全身を覆う灰色の鱗は、石の板を重ねたように厚かった。
「幼体だ」
「食べられる?」
「たぶんな」
「やった」
「まだお前のじゃない」
川鎧魚は格子と水路の間に入り込み、身体を何度も捻っている。そのたびに硬い鱗が金属を擦り、がりがりと音を立てた。
「こいつが流れ塞いでる?」
「かなりの原因にはなってそうだ」
「取る?」
「待て」
ダリオが杏々を止める。
「依頼の注意事項、聞いてるな?」
「勝手に捕まえない」
「よし」
「ギルド呼ぶ?」
「ああ」
ダリオは周囲を見た。
「ただ、その前に水門を少し閉じる。水圧を落とさないと、作業員が来ても危ない」
「手伝う」
「頼む」
◆
ダリオが上流側の水門へ向かうと、杏々は言われた場所で待った。
川鎧魚を見る。魚も杏々を見る。
「大きい目」
魚が身体を捻るたび、硬い鱗が格子を擦った。
「硬そう」
以前、受付嬢から、殴れば手が痛くなり、鱗へ正面から剣を当てれば刃が負けると聞いていた。
「隙間ある」
鱗が重なっている。杏々は魚を観察した。
「ここかな」
「触るなよ!」
遠くからダリオの声が飛んでくる。
「触ってないよ」
「ならいい!」
杏々はしゃがんだまま魚を眺めていた。川鎧魚がまた身体を捻ると、金属格子の一部が嫌な音を立てた。
ぎ。
「ダリオ」
「何だ!」
「なんか曲がった」
「え?」
ぎぎ、と格子が軋む。川鎧魚の身体が強く押しつけられたのだ。
「待て!」
水門を閉じ始めたことで、水の流れが一瞬不規則になった。魚が驚き、さらに暴れる。
がん、と音が響き、格子の留め具が外れた。
「あ」
「離れろ!」
川鎧魚が格子ごと水路へ飛び出した。
◆
ばしゃん、と大きな水音が響いた。
杏々が一歩下がる。川鎧魚は浅い水路へ落ち、身体を激しく跳ねさせた。
「魚なのに元気」
「見てないで下がれ!」
「うん」
杏々は素直に下がった。しかし川鎧魚は水路の中で向きを変えた。下流の先には、畑へ水を分配する細い水路がある。
「そっち行ったら?」
「まずい!」
ダリオが走る。
「細い水路へ入ったら、また詰まる!」
「止める?」
「……!」
ダリオは迷った。ギルドへ連絡するのが正しい。しかし川鎧魚は、もう動き始めている。
「追い込むだけだ!」
「倒さない?」
「倒さなくていい! 横の排水溝へ誘導する!」
「分かった」
杏々が動く。
「剣は使うなよ!」
「なんで?」
「鱗が硬い!」
「知ってる」
「ならいい!」
◆
川鎧魚が水路を泳ぐ。魚だから速い。
「魚だから速い」
「当たり前だ!」
杏々は水路の横を走り、川鎧魚を追い越した。
「そこ!」
ダリオが指したのは、農地ではなく再び大きな水路へ戻る方向へ伸びた排水路だった。
「そっち入れればいい?」
「ああ!」
杏々が水路へ入る。
「待て! 正面は――!」
川鎧魚が突っ込んでくる。
「大丈夫」
杏々は剣を抜かなかった。足で水を蹴り、魚の横へ回って手を伸ばす。
「ここ」
直接鱗を掴まず、尾に近い比較的細い部分へ触れる。
「っ」
川鎧魚が身体を捻り、硬い鱗が杏々の手の甲を擦った。
「痛い」
「離せ!」
杏々が手を離すと、川鎧魚はそのまま抜けていった。
「ほんとに硬い」
「言っただろ!」
「うん」
杏々が手を見ると、少し赤くなっていたが血は出ていない。
「手痛い」
「だから素手で触るなって!」
杏々は腰の剣を見る。
「剣使お」
「今その結論になるのか!?」
◆
川鎧魚がもう一度戻ってくる。杏々は剣を抜いた。
「斬るなよ!」
「斬らない」
「本当だな!?」
「たぶん」
「そこでたぶんを付けるな!」
川鎧魚が接近すると、杏々は刃ではなく剣の腹を向けた。
「こっち」
鱗へ軽く当てる。
かん。
硬い。杏々の手へ振動が返る。
「おー」
「どうした!?」
「硬い」
「感心するな!」
川鎧魚の向きが少しだけ排水路側へ変わった。
「もう一回」
今度は尾に近いところへ当てる。強く叩くのではなく、剣先で水を切りながら進む方向を邪魔する。
「そっちはダメ」
魚が嫌がって逆へ向かう。
「そう」
杏々は少しずつ魚を横へ追い込み、排水路へ誘導した。
「入るぞ!」
「うん」
最後に川鎧魚が身体を大きく捻ると、杏々の剣へ鱗が強く当たった。
がきん。
嫌な音がした。それでも川鎧魚は排水路へ入り、ダリオが水門を操作すると、そのまま大きな排水路へ流されていった。
「行った!」
「終わった?」
「終わった……」
ダリオが大きく息を吐く。
「たぶんな」
「逃げた」
「今回は排除だからな」
「食べられなかった」
「そこを残念がるな」
◆
杏々は剣を見た。
「…………」
「どうした?」
「ここ」
刃の中央より少し先が、ほんの小さく欠けていた。
「欠けた」
「あー……」
ダリオが顔をしかめる。
「だから硬いんだよ、川鎧魚は」
「そんな強くやってない」
「鱗側が硬すぎるんだ」
杏々が指で触ろうとすると、ダリオが止めた。
「触るな。切れるぞ」
「あ」
杏々は手を引っ込めた。
「まだ使える?」
「この程度なら研ぎ直せば大丈夫だろ」
「よかった」
「ただし、そのまま使うなよ」
「うん」
杏々は剣を鞘へ戻した。
「やっぱり」
「何だ?」
「この剣、硬いやつには向いてない」
「初心者用なんだろ?」
「うん」
「なら当然だ」
「もっといいの欲しい」
「金貯めろ」
「いっぱい仕事する」
「結局そうなるのか」
◆
川鎧魚が取水口からいなくなると、水量は目に見えて戻った。
「原因こいつだった?」
「少なくとも水路側はな」
ダリオが測定器を見る。
「調整柱の流入が低い件とは別だ」
「別なんだ」
「ああ」
「じゃあ昨日のはまだ分かんない?」
「管理局の方で見るしかないな」
「リネットちゃんいる」
「……今日行ってるのか?」
「たぶん」
「本当に行ったのか、あの子」
◆
魔力管理局では、大量の帳簿が机を埋めていた。
「北部主脈、十二年前」
リネットが記録を読み上げる。
「流入量……」
次の帳簿を開き、「農業用支脈への配分……」と続けた。先輩術師も別の帳簿を確認している。
「五年前はこっちだ」
「はい」
二人は十二年前、十年前、八年前、五年前、三年前、そして今年の数字を並べた。
「…………」
リネットが黙る。
「どうした?」
「北部農地への配分」
「ああ」
「やっぱり増えています」
「農地面積が増えてるんだから当然だ」
「分かっています」
リネットは別の欄を見る。
「主脈の流入量は?」
「大きくは変わってない」
「ですよね」
「多少の増減はあるが、長期で見れば横ばいだ」
供給はほぼ横ばいなのに、使用量だけが増えている。
「森側は?」
「それが問題だ」
先輩術師が帳簿をめくる。
「森側支脈への流量記録がない」
「え?」
「正確には、測ってない」
「どうしてですか!?」
「自然区域だからだろ」
「でも地脈ですよ!?」
「農地へ供給する設備じゃない」
北の森は自然の森であり、人間が魔力を配る場所ではない。だから森へどれだけ魔力が流れているか、定期的には測っていなかった。
「じゃあ」
リネットがゆっくり言う。
「北部農地へ送る量が増えた分、森側が減ったかどうかは分からない」
「記録がないからな」
リネットは額を押さえた。
「一番知りたいところなのに……」
「だが」
先輩術師が一つの記録を指す。
「これは使える」
「何です?」
「分岐前の主脈流量」
「…………」
「ここは測ってる」
主脈は、北の森と農地へ分かれる前の場所で測定されていた。
「十二年前から大きく変わっていない」
「はい」
「なのに農地側への配分だけは増えている」
「はい」
「なら」
先輩術師は慎重に言った。
「どこかへ行くはずだった分が、農地側へ回っている可能性はある」
「…………」
「可能性だけだぞ」
「分かっています」
「まだ証拠じゃない」
「分かっています!」
それでも、今までより疑いは強くなった。
◆
「以前の分岐設備の記録は?」
リネットが管理局員へ尋ねる。
「ありますか?」
「何年前だ」
「できるだけ古く」
「無茶を言うな」
「農地拡張前がいいです」
「……待て」
管理局員が別の棚へ向かい、しばらくして一冊の古い工事記録を持ってきた。
「北部第二集積所の改修記録だ」
「何年前です?」
「六年前」
リネットの目が動いた。北の森で小型魔物の減少が目立ち始める少し前だ。
「何を改修したんですか?」
「北部農地の拡張に合わせ、農業用支脈への取水――いや、魔力導入能力を増強した」
「どのくらい?」
「設計上は……」
数字を確認する。
「以前の一・四倍」
「…………」
リネットは何も言わなかった。
「リネット」
「はい」
「落ち着け」
「落ち着いてます」
「顔が落ち着いてない」
「でも」
リネットは北の森の記録を出した。
「五年前頃から」
「分かってる」
「時期が近いです」
「ああ」
「農地側への配分能力を上げた。その後、農地利用量が増えた。同じ頃から北の森の魔力濃度が下がり始めた」
「そう見える」
「なら――」
「まだだ」
先輩術師が止める。
「設備改修が原因とは限らん」
「…………」
「気候変動かもしれん。地下の別の流れが変わったのかもしれん。森側で別の何かが魔力を消費してる可能性もある」
「はい」
「だから」
「森側支脈を実測する」
リネットが言った。
「今の量を」
「そうなるな」
「それから」
リネットは古い地図を見る。
「可能なら、農地側への取り込み量を一時的に変えたとき、森側に変化が出るか確認する」
管理局員の顔色が変わる。
「待て」
「?」
「農地への供給を勝手に変えるな」
「勝手にはしません!」
「絶対だぞ」
「正式に申請します」
「通ると思うか?」
「…………」
リネットが先輩を見る。
「俺を見るな」
◆
午後、杏々とダリオはギルドへ戻った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
受付嬢が依頼報告を確認する。
「用水路流量低下の原因、川鎧魚幼体一体?」
「うん」
「え?」
受付嬢が杏々を見る。
「川鎧魚いたんですか?」
「いた」
「勝手に捕まえてませんよね?」
「逃がした」
「……本当です?」
「排水路へ誘導した」
ダリオが補足する。
「それは本当だ」
「よかった……」
「剣使った」
「何で!?」
安心したのは一瞬だった。
「斬ってないよ」
「そういう問題じゃなくて!」
「魚の向き変えた」
「剣で?」
「うん」
「川鎧魚を?」
「うん」
「剣見せてください」
「なんで?」
「いいから!」
杏々が剣を抜くと、受付嬢は欠けた刃を見た。
「ほら!」
「ちょっと欠けた」
「だから言ったじゃないですか!」
「硬かった」
「知っています!」
「手も痛かった」
「素手でも触ったんですか!?」
「ちょっと」
「杏々さん!」
「怪我ないよ」
「そういう問題では――」
受付嬢は言いかけて、深く息を吐いた。
「……もういいです」
「怒った?」
「怒っています」
「ごめん」
「素直に謝られると怒りにくいんですよ!」
ダリオが隣で笑っていた。
◆
「依頼そのものは?」
「完了だ」
ダリオが答える。
「流量は回復した。設備点検も済んでる」
「では達成扱いですね」
「やった」
「ただし、剣は修理してから使ってください」
「うん」
「今日中に武器屋へ持っていってくださいね」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「戻った!」
◆
夕方、杏々は剣を買った武器屋にいた。
「……何した?」
店主が刃を見て言った。
「川鎧魚」
「買って二日だぞ!?」
「斬ってない」
「斬ってなくて何で欠ける!」
「当たった」
「川鎧魚の鱗に?」
「うん」
「俺、正面から叩くなって言ったよな?」
「正面じゃないよ」
「そういう話じゃねえ!」
店主は頭を抱えた。
「まあ、この程度なら研ぎ直せる」
「ほんと?」
「ああ」
「よかった」
「ただ」
店主は欠けた部分を見る。
「嬢ちゃんの使い方だと、この剣は長持ちしねえかもしれんな」
「やっぱり?」
「普通の初心者が角兎や牙鼠相手に使うなら十分だ」
「森猪も使った」
「昨日は森猪、今日は川鎧魚!?」
「うん」
「使い始めから酷使しすぎだ!」
杏々は店内の壁を見る。
「もっと硬くて」
「ん?」
「軽くて」
「……」
「先が速いやつ」
「その条件全部満たすなら」
店主は苦笑する。
「やっぱり注文になるな」
「高いやつ」
「ああ」
「いっぱい仕事しないと」
「そうなる」
杏々は修理に出した剣を見る。
「じゃあ頑張る」
「仕事を?」
「うん」
「剣壊さない程度にな」
「たぶん」
「不安しかねえ」
◆
夜、王宮へ戻った杏々は、リネットの部屋へ顔を出した。
「リネットちゃん」
「杏々さん」
昨日と同じように、机の上は紙だらけだった。
「分かった?」
「かなり進みました」
「ほんと?」
「はい」
杏々は椅子へ座る。
「剣は?」
リネットが気づいた。
「ない」
「なくしたんですか!?」
「修理」
「何をしたんです!?」
「川鎧魚」
「どうして!?」
「硬かった」
「説明になってません!」
「手も痛かった」
「手!?」
リネットが杏々の手を取る。
「怪我は?」
「赤くなっただけ」
「もう……」
「でもおいしいよ」
「食べてないですよね!?」
「今日は逃げた」
「今日はって何ですか!」
◆
一通り怒られたあと、杏々が机を見る。
「それで、魔力どうだった?」
リネットの表情が変わった。
「北部の主脈から入ってくる魔力量は、少なくとも記録が残っている十年以上、大きく変わっていません」
「うん」
「でも農地へ送る量は増えています」
「増えた」
「六年前に、農地側へ魔力を多く送れるよう設備が改修されています」
「六年前」
「そのあと農地が広がって、実際の使用量も増えました」
「森は?」
「五年ほど前から、魔力濃度低下が目立ち始めています」
杏々が地図を見る。
「近いね」
「はい」
「じゃあ畑が取った?」
「まだ分かりません」
リネットは慎重だった。
「森へ流れる魔力量を以前は測っていなかったんです」
「なんで?」
「自然の森だからです」
「自然だと測らない?」
「人間が管理する必要がないと思われていました」
「そっか」
「なので」
リネットは北の森を指した。
「次は、実際に森側へ流れている魔力を測ります」
「行くの?」
「私が?」
「森」
「……行くことになると思います」
「危ないよ?」
「その言葉、杏々さんから言われると複雑なんですが」
「熊いる」
「森の奥にいるはずです」
「一緒に行く?」
「杏々さんはランクが――」
リネットが止まる。
「…………」
「?」
「調査補助なら、ギルドと正式に組めば可能かもしれません」
「お仕事?」
「まだ決まってません!」
「ご飯出る?」
「そこですか!」
◆
リネットは、もう一度資料を見た。
主脈の流量、農地への配分、六年前の設備改修、五年前頃から始まった北の森の魔力低下。時期は近い。あまりにも綺麗に並んでいる。
だが、証拠が足りない。
「森で測れば分かる?」
杏々が聞いた。
「今どうなっているかは」
「以前は?」
「記録がありません」
「じゃあ比べられない?」
「完全には」
「難しいね」
「はい」
杏々は少し考えた。
「でも、森の奥と手前で比べたら?」
「…………」
「奥の方が減ってたんでしょ?」
先日、リネットが確認した。深部ほど、魔力濃度の低下が大きかった。
「今も奥と手前で違ったら?」
リネットの目が少しずつ見開かれる。
「……地脈の分岐地点との距離も合わせて測れば、森側へ流れている魔力がどこで減っているのか推測できるかもしれません」
「できそう?」
「できます」
リネットは立ち上がった。
「観測点を増やします!」
「またいっぱい?」
「いっぱいです!」
「大変だね」
「杏々さんも行くんですよ!」
「行けるの?」
「ギルドに頼みます!」
「お仕事?」
「調査です!」
「お昼は?」
「知りません!」
北の森の異変は、森爪熊の親子から始まった小さな違和感だった。それは少しずつ、森だけの問題ではなくなり始めていた。




