怒ってる理由
夜の北側農地に、男の叫び声が響いた。
「た、助けてくれぇぇぇ!」
猟師は振り返る余裕もなく走った。背後では木の枝が折れる音が連続し、重い足音と低い唸り声が近づいてくる。森爪熊、それも成獣だ。まともに戦える相手ではない。
「くそっ!」
男は農地の端に設置された見張り台へ駆け寄った。北側の警戒区域拡大に伴い、農家や冒険者が周辺を監視するために急ごしらえしたものだ。梯子へ飛びつき、一段、二段、三段と必死に登る。
「ヴォォォッ!」
「ひっ!」
背後で咆哮が響いた直後、森爪熊が柱へ体当たりした。見張り台全体が大きく揺れ、男は悲鳴を上げながら手すりへしがみつく。
「や、やめろ!」
もう一度、どん、と柱が揺れた。
「おい! 誰か! 誰かいないのか!」
男は腰から小さな筒を取り出した。緊急時用の信号筒だ。蓋を外して空へ向けると、ぱん、と乾いた音がして、赤い光が夜空へ昇った。
◆
「信号だ!」
少し離れた街道沿いの監視所で、冒険者が外へ飛び出した。
「北西! 警戒区域の境目だ!」
「三人出るぞ! 残りはギルドへ連絡!」
「了解!」
夜間警戒を担当していた冒険者たちは武器を手に取り、現場へ向かって走り出した。
その頃、見張り台の下では森爪熊がもう一度吠えていた。
「頼むから……!」
男は震えながら下を見た。巨大な親熊が、見張り台の上にいる自分を見上げている。
「俺が悪かった! 悪かったから!」
もちろん、言葉が通じるはずはない。しかし森爪熊は、ふと男から視線を外して森の方を見た。
「……?」
遠くから、小さな鳴き声が聞こえる。
「ギャウ……!」
罠にかかった幼獣の声だった。
親熊が低く鳴く。
「ヴゥ……」
男はようやく理解した。森爪熊は自分を食いに来たのではない。子供を罠にかけた自分を、敵だと認識したのだ。
「……あいつか」
◆
夜が明ける少し前には、冒険者ギルドへ現場からの報告が届いていた。
「負傷者は?」
「猟師本人に大きな怪我はありません」
受付嬢が届いた報告書を読み上げる。
「夜間警戒班が見張り台まで到着し、森爪熊の親個体を牽制しながら猟師を救出しました」
「熊は?」
ガルドが尋ねる。
「追撃はありませんでした。ただし、現場を離れていません」
「幼獣か」
「はい。別の職員によれば、幼獣一頭が捕獲縄にかかったままです」
「傷は?」
「遠目では不明ですが、まだ動いているとのことです」
「親は?」
「幼獣の周囲から離れません」
ガルドは腕を組んだ。
「厄介だな」
すでに人間を追った。それだけを聞けば、討伐を判断する理由にはなる。だが、受付嬢は報告書へ目を落としながら口を開いた。
「どう見ても、原因は罠ですよね」
「ああ」
「猟師の話では、幼獣が角兎の罠へ近づいたため、驚いた猟師が別の捕獲縄を作動させてしまったそうです」
「故意に森爪熊を狙ったわけじゃねえんだな?」
「本人はそう証言しています。罠自体も、北の森が閉鎖される前に仕掛けた小型魔物用のものです」
「回収が遅れたのは問題だが……」
少なくとも、森爪熊を狩ろうとして返り討ちに遭ったわけではない。
「ガルドさん、どうします?」
受付嬢に問われ、ガルドはしばらく黙っていた。
「まず幼獣をどうにかしねえと、親は動かんだろうな」
◆
「子供、まだ罠にかかってるの?」
「はい」
朝、ギルドへやってきた杏々は、受付で事情を聞いていた。
「取れない?」
「近づけないんです」
「なんで?」
「親熊が守っていますから」
「あー」
杏々は納得した。
「怒ってるんだ」
「そうですね」
「子供捕まえたから」
「結果的には、そうなります」
杏々は少し考えてから尋ねた。
「じゃあ、取ったら怒らなくなる?」
「そう簡単ならいいんですけど……」
受付嬢は困った顔をした。森爪熊はすでに人間を敵として認識している可能性がある。幼獣を解放しようとして近づけば、何をされるか理解できず、さらに攻撃してくるかもしれない。
「魔法で切れないの?」
「それも検討されています」
「遠くから?」
「ただ、捕獲縄は幼獣の脚に巻きついています。少しでも狙いがずれれば脚を傷つけ、最悪の場合は切断する可能性もあります」
「じゃあ、近くで取るしかない?」
「そうなるかもしれません」
「私、行く」
「ダメです」
「また?」
「またです」
受付嬢は即答した。
「今度は実際に人間を追った森爪熊ですよ」
「子供捕まったからでしょ?」
「それでも危険なのは変わりません」
「でも」
「ダメです」
「…………」
「そんな顔をしてもダメです」
「どんな顔?」
「行きたそうな顔です」
「行きたい」
「知っています」
◆
王宮魔術院では、リネットも朝から森爪熊の件を聞いていた。
「幼獣が罠に?」
「そうらしい」
先輩術師が答える。
「現場では冒険者ギルドと農地管理局が対応している」
「討伐になるんですか?」
「さあな」
「さあな、って……」
「人を追った以上、十分あり得る」
「でも、原因は明確じゃないですか」
「だからといって安全になるわけではない」
リネットは黙った。森爪熊の事情は分かってきた。森の餌が減り、子供を食べさせるために人里近くまで来たこと。人や家畜を積極的に襲っていたわけではないこと。そして昨夜、子供が人間の罠にかかり、親熊が初めて人を追ったこと。
「……討伐したら」
「何だ?」
「この森爪熊の問題は終わります」
「ああ」
「でも、北の森の問題は終わりません」
先輩術師はリネットを見る。
「小型魔物が減っている原因は残ります」
「その通りだ」
「別の大型魔物が移動してくるかもしれない」
「そうだな」
「それなのに――」
「リネット」
先輩術師が遮った。
「原因が別にあることと、目の前の危険に対処することは両立する」
「…………」
「熊に事情があるから人間が死んでも仕方ない、とはならん」
「分かっています」
「ならいい」
リネットは唇を結んだ。分かっている。だからこそ、胸の中に重いものが残る。
「……難しいですね」
「ああ」
◆
昼前、ギルドでは対応方針が決まりつつあった。
「まず親熊を幼獣から引き離す」
ガルドが集まった冒険者たちへ説明する。
「討伐するんですか?」
セリアが尋ねた。十一話で杏々と一緒に牧草地へ行った冒険者だ。
「可能なら殺さねえ」
「可能なら?」
「幼獣を解放できれば、三頭まとめて森へ誘導する」
「戻りますかね」
「分からん」
ガルドは正直に答えた。
「だが、少なくとも今ここで親を殺して幼獣二頭だけ残すよりはマシだ」
「もう一頭の幼獣は?」
「親と一緒にいる」
「なるほど」
「親熊を刺激しすぎるな。攻撃は牽制だけにしろ」
「もし襲ってきたら?」
「その時は命を優先しろ」
ガルドの表情が厳しくなる。
「ためらうな」
「了解」
「幼獣の縄は?」
「親を引き離している間に、別班が切る」
「近づけるんですか?」
「やるしかねえ」
そのとき、声がした。
「私も行く」
全員が振り返る。そこには杏々が立っていた。
「何でまだいる」
ガルドが言う。
「聞いてた」
「聞くな」
「行ける?」
「行けねえ」
「でも」
「ランク外だ」
「…………」
「今回は討伐どころか、大型魔物の制圧が前提になる可能性もある」
「私、熊に会ったよ」
「知ってる」
「近づいても襲われなかった」
「昨日までは、だ」
「今日も子供取ったら戻るかも」
「かもしれねえな」
「じゃあ――」
「それでもダメだ」
ガルドは譲らなかった。
「お前が強いかどうかだけの話じゃねえ」
「…………」
「規則だ」
「そっか」
杏々は少し残念そうにしたが、すぐに頷いた。
「分かった」
その様子を見て、セリアが小声で呟く。
「……聞き分けよすぎて逆に怖いな」
「俺もそう思う」
◆
調査兼救出班が出発してからしばらく後、杏々はギルド酒場に座っていた。目の前にはパンとスープ、それから肉が並んでいる。
「杏々さん」
「ん?」
リネットがやってきた。
「行かなかったんですね」
「ダメって言われた」
「……ちゃんと守ったんですね」
「うん」
「えらいです」
「最近それ、よく言われる」
「それだけ最初が心配だったんですよ」
「ひどい」
「自覚なかったんですか?」
リネットは杏々の向かいへ座った。
「森爪熊の件、聞きました」
「うん」
「子供、助かるかな」
「助けるために行ったんですから」
「お母さんも?」
「…………」
リネットは少し考えた。
「できれば」
「そっか」
杏々はパンをちぎりながら呟いた。
「お腹すいてただけなのにね」
「はい」
「でも、おじさん追いかけた」
「はい」
「子供捕まえたから」
「おそらく」
「…………」
杏々はパンをスープへ浸した。
「やっぱ難しいね」
「何がです?」
「どっちが悪いか」
リネットが黙る。
「熊は子供助けたい」
「はい」
「人は襲われたくない」
「はい」
「どっちも普通じゃん」
「……そうですね」
杏々はスープを飲んだ。
◆
その頃、現場では森爪熊が動き始めていた。
「来たぞ!」
「右へ引け!」
「了解!」
三人の冒険者が距離を取りながら移動し、親熊を幼獣から引き離そうとする。親熊は彼らを追い、低く唸りながら近づいてきた。
「ヴォォォッ!」
「近い!」
「攻撃するな! まだだ!」
セリアが盾を構え、別の冒険者が長い槍を使って進路だけを塞ぐ。
「幼獣班、今だ!」
離れた場所では、幼獣が木の根元で倒れていた。前脚には縄が巻きつき、暴れたせいで皮膚には血が滲んでいる。
「急げ!」
二人の冒険者が近づいた。
「ギャウッ!」
「大丈夫だ! 暴れるな!」
当然、言葉が通じるはずはない。
「押さえられるか?」
「無理だ! 噛まれる!」
「じゃあ縄だけ――」
刃を入れるが、捕獲縄は魔物に噛み切られないよう細い金属線が編み込まれており、簡単には切れなかった。
「くそ、硬い!」
「専用の鋏は!?」
「持ってる!」
道具を取り出している間に、親熊が咆哮した。
「ヴォォォォォッ!」
「まずい!」
親熊が方向を変え、幼獣の方へ戻ろうとする。
「止めろ!」
冒険者が前へ出た。親熊の前脚が振り下ろされ、盾ごと男が吹き飛ばされる。
「ぐっ!」
「セリア!」
「分かってる!」
セリアは横から剣を振った。ただし斬るのではなく、地面を叩いて音を響かせる。
「こっちだ!」
親熊がセリアを見る。
「来い!」
低い姿勢で構えたセリアへ、親熊が突進した。
「ヴォォッ!」
「っ!」
セリアは横へ飛んでかわした。しかし親熊は止まらず、そのまま幼獣班へ向かっていく。
「幼獣班!」
「まだだ!」
◆
その頃、王都のギルドでは、扉が勢いよく開いた。
「緊急!」
伝令役の冒険者が駆け込んでくる。
「救出班から増援要請!」
広間の空気が変わった。
「何があった!?」
ガルドが立ち上がる。
「親熊が想定以上に興奮しています! 一名負傷! 幼獣の罠がまだ外せません!」
「重傷か?」
「腕をやられましたが、命に別状はありません!」
「幼獣は?」
「縄が脚へ食い込んでいます! 暴れていて作業が進みません!」
「くそっ!」
ガルドが舌打ちする。
「増援を出す! 治癒術師も一人!」
「はい!」
杏々が立ち上がった。
「…………」
ガルドが見る。
「ダメだ」
「まだ何も言ってない」
「言う顔だ」
「私なら熊、止められるかも」
「…………」
今度は、ガルドがすぐには答えなかった。訓練場の砂袋、大角牛、杏々の身体能力。そして森爪熊と二度遭遇しながら、無傷で戻ってきたことが頭をよぎる。
「ガルドさん」
受付嬢が小さく言う。
「ダメだ」
ガルドは首を振った。
「規則を曲げて新人を大型魔物の前に出すわけには――」
「ガルドさん!」
また扉が開いた。別の伝令が駆け込んでくる。
「親熊が幼獣班へ接近! 撤退できません!」
「…………!」
「一人、足を負傷して動けないとのことです!」
状況が変わった。
「セリアたちだけでは抑えきれません!」
ガルドが歯を食いしばる。
「現場まで何分だ」
「急いでも――」
「私の方が速いよ」
杏々が言った。
「…………」
「場所が分かれば行ける」
「杏々さん!」
リネットが立ち上がる。
「危険です!」
「うん」
「森爪熊ですよ!」
「知ってる」
「今までと違って怒ってるんですよ!」
「知ってる」
「だったら!」
「子供、助けるんでしょ?」
リネットが言葉を失う。
「だったら、早くしないと」
「…………」
杏々はガルドを見る。
「行っていい?」
ガルドは黙っていた。規則も、安全も、責任も、どれも間違ってはいない。だが、現場では人が動けなくなっている。
「……戦うな」
「うん」
「目的は救助だ」
「うん」
「親熊を殺そうとするな」
「うん」
「無理だと思ったら、すぐに逃げろ」
「分かった」
「セリアの指示に従え」
「うん」
ガルドは地図を掴んだ。
「ここだ」
杏々が地図を見る。
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「今だけはやめろ!」
「大丈夫」
杏々は走り出した。
「杏々さん!」
リネットが叫ぶと、杏々が振り返った。
「なに?」
「絶対に帰ってきてください!」
「うん」
そして、小さな身体はギルドの外へ消えた。
◆
「くっ……!」
現場では、セリアが盾を構えながら後退していた。
「まだか!」
「あと少し!」
「早くしろ!」
親熊は完全に興奮していた。幼獣の鳴き声、人間の姿、武器、そして流れた血。そのすべてが親熊を刺激している。
「ヴォォォッ!」
「来る!」
親熊の前脚が振り上げられ、セリアは盾を構えた。受ければ、今度は持たない。
「っ――!」
その瞬間、横から小さな何かが飛び込んだ。
「え?」
親熊の前脚の軌道へ、杏々が入った。
「杏々!?」
杏々は正面から受けず、前脚の内側へ手を添えながら身体を回した。力の向きを横へ流す。
「こっち」
どん、と大きな音が響いた。森爪熊の前脚は杏々の横を通り抜け、その勢いのまま親熊の巨体がわずかに崩れる。
「…………」
セリアが目を見開いた。
「今の……」
「大丈夫?」
杏々が尋ねる。
「な、なんでお前がいる!?」
「増援」
「誰が許可した!?」
「ガルドさん」
「正気か、あの人!?」
親熊が振り向いた。
「ヴォォォォッ!」
「杏々!」
「大丈夫」
杏々は森爪熊を見た。以前、二度会ったあの親熊だ。
「また会ったね」
「今、話しかけてる場合か!?」
親熊は杏々を見つめ、鼻を動かした。一瞬、動きが止まる。
「気づいた?」
杏々が首を傾げる。覚えているのかどうかは分からない。
「ギャウッ!」
幼獣が鳴いた。
親熊の目がそちらへ向き、再び動こうとする。
「まだダメ」
杏々が前へ出た。
「子供、取ってるから」
「杏々、通じない!」
「分かってるよ」
「じゃあ何してる!?」
「止める」
親熊が突進した。巨体からは想像できないほど速い。
「杏々!」
正面から迫る親熊を前にしても、杏々は逃げなかった。ぎりぎりまで引きつけ、一歩だけ横へ移動し、熊の頭部へ手を添える。
「よいしょ」
ほんの少し押して方向を変えると、親熊は杏々の横を通り過ぎ、地面を削りながら数歩先で止まった。
「…………」
セリアの口が開いたままになる。
「お前……何なんだよ」
「杏々」
「そういう意味じゃない!」
◆
「外れた!」
幼獣のところから声が上がった。
「縄、外れたぞ!」
「脚は!?」
「出血してる! でも立てる!」
「離れろ!」
作業していた冒険者たちが一斉に下がる。
「杏々!」
「うん」
「もういい!」
セリアが叫ぶ。
「道を開けろ!」
杏々が横へ避けると、他の冒険者たちも幼獣と親熊の間から離れた。
「ギャウ……!」
幼獣が立ち上がる。片脚を引きずっている。
「…………」
親熊が動いた。
「構えろ!」
「待って」
杏々が言う。
親熊は人間へ向かわず、幼獣のもとへまっすぐ向かった。鼻先を寄せて匂いを嗅ぐと、幼獣が小さく鳴く。
「ヴゥ……」
親熊は幼獣の頭を舐めた。
「…………」
誰も動かなかった。
もう一頭の幼獣も茂みの奥から姿を現し、三頭の親子が揃う。
「行け……」
セリアが小さく呟いた。
「頼むから、そのまま行ってくれ」
親熊は人間たちを見たあと、杏々へ視線を向けた。
「子供、いるよ」
親熊は低く鳴いた。
「ヴゥ……」
そして幼獣の背中を鼻先で押す。一頭、もう一頭と促され、三頭はゆっくり森の方へ歩き始めた。
「追うな!」
セリアが言う。
「全員、そのまま!」
誰も動かなかった。森爪熊の親子は木々の間へ入り、やがて姿が見えなくなった。
しばらく、誰も喋らなかった。
◆
「終わった?」
杏々が尋ねる。
「……終わった」
セリアが盾を下ろした。
「たぶん」
「たぶん?」
「お前に言われたくない」
セリアはその場へ座り込み、深く息を吐いた。
「はぁぁぁ……」
「疲れた?」
「誰のせいだと思ってる!」
「熊?」
「……熊だな」
「うん」
「くそ、否定できねえ」
負傷した冒険者のもとへ治癒術師が駆け寄り、幼獣の縄を外した者たちもようやく息を吐いた。
「杏々」
「なに?」
セリアが杏々を見る。
「さっきの、何だ」
「どれ?」
「熊の突進を逸らしたやつ!」
「避けただけ」
「避けただけで熊の向きは変わらない!」
「ちょっと押した」
「ちょっとでああならねえ!」
「なるよ?」
「ならねえ!」
周囲の冒険者たちも杏々を見ていた。訓練場での話や大角牛を止めた話は噂で聞いていたが、実際に見るのとはまったく違う。
「……お前」
セリアが呟く。
「本当に新人か?」
「うん」
「ランクは?」
「一番下」
「絶対おかしいだろ……」
◆
王都へ戻った頃には、夕方になっていた。
「杏々さん!」
ギルドへ入るなり、リネットが飛んできた。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
「怪我は!?」
「ないよ」
「本当に!?」
「うん」
リネットは杏々の腕や顔、脚を順番に確認した。
「本当に……ない……」
「言ったでしょ」
「森爪熊ですよ!?」
「大きかった」
「知っています!」
「前も見たし」
「今日は襲ってきたでしょう!」
「うん」
「なんでそんな普通なんですか!」
「避けたから」
「もう!」
リネットは頭を抱えた。
そんな二人の横で、ガルドは現場報告を読んでいた。セリアの記載には、親個体の攻撃を複数回回避したこと、突進方向を徒手で逸らしたこと、魔力反応も身体強化もなかったこと、そして負傷者の救助と幼獣の解放までの時間を確保したことが書かれている。
ガルドは紙を置いた。
「杏々」
「なに?」
「明日、朝一で来い」
「お仕事?」
「違う」
「じゃあなに?」
「お前の冒険者としての扱いについて話がある」
杏々は少し考えた。
「ランク上がる?」
「話を最後まで聞け!」
「上がる?」
「まだ決まってねえ!」
「赤角牛は?」
「気が早い!」
ギルド内に笑いが起こった。ただし今回は、以前までのように変な新人を見るような笑いではなかった。
森爪熊は、中堅冒険者でも一人では避ける大型魔物だ。その攻撃を、武器も魔法も使わず、小さな新人冒険者が止めた。今日の出来事は、すでに噂だけでは済まなくなっていた。
◆
その夜、北の森では、親熊が脚を傷めた幼獣に合わせてゆっくりと歩いていた。もう一頭も、その隣を歩いている。森の奥へ戻ろうとしていたのだ。
だが、しばらく進んだところで親熊は足を止めた。鼻を動かし、角兎や牙鼠、森猪の匂いを探す。しかし、餌の匂いはほとんどなかった。
「ヴゥ……」
幼獣が鳴く。
親熊は森の奥を見た。そして、もう一度人里の方へ視線を向ける。
今日は子供を取り戻した。それでも、腹が満たされたわけではない。
森爪熊の親子が抱える問題は、まだ何一つ解決していなかった。




