森のご飯が減っている
翌朝、王宮魔術院の資料室では、リネットが昨日に引き続き北の森の記録を調べていた。
「魔力は戻る……」
机の上には、魔力循環について書かれた基礎魔術書が何冊も積まれている。リネットは一冊を開き、「使われた魔力は形を変え、環境中へ拡散し……」と読み進め、次の本では「地脈および魔力溜まりへ再集積され……」という記述を見つけ、さらに別の本で「やがて再び利用可能な状態へ……」という一文を確認した。
しかし、ページをめくっても、具体的な時間について書かれた箇所は見つからない。
「書いてない」
「何がだ?」
向かいで資料を読んでいた先輩術師が顔を上げる。
「時間です。魔力が戻るまでの時間が、どの本にもほとんど書かれていません」
「場所によって違うんじゃないか?」
「それは分かっています。でも、一日で戻るのと十年かかるのでは、意味が全然違うじゃないですか!」
「十年?」
「例えです」
「さすがにそんなには――」
先輩術師はそこまで言いかけて、口を閉じた。
「ほら。今、分からなかったでしょう?」
「場所による」
「便利な言葉で逃げないでください」
「見習いのくせに生意気だな」
「今は関係ありません!」
リネットは再び資料を探し始めた。
「そもそも、『魔力は自然に戻る』という前提だけで、どれくらいの速さで戻るかを気にしていない研究が多すぎるんです」
「普通は魔法を使ったからといって、翌日、同じ場所で魔法が使えなくなったりはしないからな」
「だから問題にならなかった?」
「かもしれん」
先輩術師は少し考えてから、机の上の地図へ目を落とした。
「だが、森全体となると話が違うか」
「はい。個人が一回魔法を使った程度の量ではなく、広い範囲で、長い時間をかけて、少しずつ変化したのなら……」
リネットは手を止め、顔を上げた。
「もっと古い記録が欲しいです」
「何の?」
「北の森です」
「魔術院の観測は三十年ほど前からだぞ」
「魔力そのものじゃなくていいんです」
リネットは資料の山から顔を出した。
「魔物です」
◆
その頃、冒険者ギルドでは、杏々が掲示板の前で依頼書を眺めていた。
「…………」
受付嬢が少し離れたところから様子を見ていると、杏々が一枚の依頼書を指さした。
「これ」
「杏々さん?」
「肉」
受付嬢が依頼書を確認する。
「確かに『肉』という単語は入っています」
「読めた」
「すごいじゃないですか」
「焼くもある」
「そこは……」
受付嬢は依頼書を読み直した。
「『焼却処分』ですね」
「焼く?」
「焼きますけど、食べ物ではありません」
「じゃあ違う」
「何だと思ったんです?」
「お肉焼く仕事」
「そんな依頼が都合よく――」
受付嬢は別の依頼書をめくり、ふと手を止めた。
「……厨房補助ならありますね」
「あるじゃん」
「ありました」
しかし、杏々は少し考えてから首を振った。
「今日は別のにする」
「珍しいですね」
「何ある?」
「北側へ行かないものですよね」
「うん」
受付嬢は依頼書を確認した。
「西門近くにある食料備蓄庫の点検補助があります」
「食べ物?」
「はい」
「何するの?」
「昨日、一昨日と北側の農地や牧草地から物資を移動したでしょう? その一部が王都近くの備蓄庫へ運ばれています。急いで入れたので、数量確認と状態確認の人手が足りないそうです」
「状態確認?」
「傷んでいないか、袋が破れていないか、などですね」
杏々は第10話の市場を思い出した。
「濡れてないかとか?」
「そうです」
「できる」
「杏々さん、そういうところは意外と細かいですよね」
「食べ物だから」
「知っていました」
「やる」
「分かりました」
受付嬢が依頼票を用意する。
「今日は街のすぐ外にある倉庫です。警戒区域からも離れています」
「一人でいい?」
「倉庫までは大丈夫です。現地には管理人もいますから」
「分かった」
杏々は受け取った依頼票を眺めたあと、少し考えて尋ねた。
「これ何て書いてる?」
「『食料備蓄庫』です」
「食料」
「はい」
「覚える」
「少しずつ食べ物以外も覚えましょうね?」
「これは食べ物だよ」
「……そうですね」
◆
王都西門近くの備蓄庫には、大量の食料が積まれていた。
「おー」
穀物袋、乾燥豆、干し肉、芋、干した牧草、瓶詰め、木箱。大きな倉庫の中を、さまざまな物資が埋め尽くしている。
「これ全部昨日来たの?」
「全部じゃないよ」
備蓄庫の管理人が答えた。
「もともとあった備蓄に、北側から運んできた分を追加したんだ」
「いっぱい」
「ああ」
「しばらくご飯困らない?」
「王都全体なら、そう単純でもないさ」
「そうなの?」
「何人住んでると思ってんだい」
「知らない」
「……そうだったな」
管理人は苦笑しながら、積み上げられた穀物袋を見上げた。
「食料なんてのは、山ほどあっても食えば減る。畑で次が採れなきゃ、いずれ底をつく」
「なるほど」
「今回は念のため早めに運び出しただけだが、北側の畑が長く使えなくなれば困る」
「熊のせい?」
「森爪熊だけなら、追い払うか討伐して終わりだろうけどな」
管理人は穀物袋を軽く叩いた。
「畑を放ったらかしにするわけにはいかん」
「ご飯作れなくなるもんね」
「そういうこと」
杏々の中で、少しずつ物事が繋がっていく。森爪熊には子供がいて、お腹を空かせているらしい。しかし、森爪熊が人里へ出れば、人間も畑を使えなくなる。
「どっちもご飯困るね」
「ん?」
「なんでもない」
◆
杏々の仕事は、運ばれてきた荷物を一つずつ確認することだった。
「これ濡れてる」
「どれ?」
「下」
穀物袋の底が少し湿っている。
「本当だ。このまま置いたら駄目だな。別にして乾かそう」
「こっちは穴ある」
「鼠か?」
「まだ新しい」
「運ぶ途中かもな」
「中こぼれてる」
「補修だ」
杏々は倉庫の中を歩き回りながら、次々に荷物を確認していく。
「これは?」
「問題なし」
「これは?」
「ちょっと匂い変」
乾燥豆の袋を開けると、管理人も中を覗き込んだ。
「……本当だな」
「なんかじめじめ」
「こっちも分けよう」
管理人は杏々を見て感心したように言った。
「嬢ちゃん、鼻いいな」
「食べ物だから」
「便利な理由だな」
そんなやり取りをしながら、倉庫の確認は順調に進んでいった。
◆
昼頃になると、管理人が声をかけた。
「休憩にするぞ」
「ご飯?」
「もちろん」
「やった」
杏々の反応が途端に良くなる。
備蓄庫の外で木箱を椅子代わりにし、杏々は管理人たちと一緒に昼食を取った。パンに塩漬け肉、豆と根菜のスープという簡素な食事だったが、杏々は満足そうに「いただきます」と言って食べ始めた。
「そういや嬢ちゃん」
「?」
「森爪熊を見たんだって?」
「うん」
「怖くなかったか?」
「大きかった」
「答えになってないな」
「襲ってこなかったし」
「運がよかっただけかもしれんぞ」
「そうなの?」
「森爪熊は危険な魔物だ」
隣で食べていた別の男が口を挟んだ。
「俺の親父の頃にも一度、森爪熊が農地まで出たことがあるらしい」
「昔?」
「二十年以上前だって話だ」
「その時どうしたの?」
「討伐した」
「食べた?」
「…………」
男は少し考えてから答えた。
「親父は食ったって言ってたな」
杏々の目が輝く。
「おいしかった?」
「そこかよ」
「どうだった?」
「硬かったらしい」
「硬いんだ」
「煮込みなら食えるとか言ってた気がするが……」
「食べてみたい」
「今の親熊で考えるなよ?」
「まだ倒すって決まってないもんね」
「……分かってるじゃないか」
「うん」
杏々はパンをスープへ浸しながら、ふと思い出したように言った。
「子供いたし」
「幼獣二頭って話だな」
「お母さんかな」
「たぶんそうだろう」
「子供お腹すいてた」
男の表情が少し変わった。
「そうかもしれんが、だからって人里に出てきていいわけじゃない」
「うん」
「人間を襲ってなくても、畑仕事ができなくなる。それだけで困る人間はいる」
「分かる」
杏々は倉庫を見た。
「ご飯作れなくなる」
「ああ」
「難しいね」
「そうだな」
誰かが悪いわけではない。腹を空かせた熊が悪いとも言い切れず、畑を守ろうとする人間が悪いわけでもない。杏々には、ただそれだけのことに見えていた。
◆
同じ頃、冒険者ギルドから派遣された調査隊は、北の森の中を進んでいた。
「ここから先が旧生息域だ」
先頭の冒険者が地図を確認する。
「森爪熊の?」
「ああ」
「最後に巣が確認されたのは?」
「五年前」
弓を持った女性が周囲を見回した。
「今も使ってるとは限らないだろ」
「だから調べるんだ」
三人の冒険者に加え、今日はギルドから依頼された、魔物の生態に詳しい猟師が同行していた。
「静かすぎるな」
猟師が言った。
「そうなのか?」
「ああ。この辺りなら、角兎や牙鼠の痕跡がもっとある」
「最近、森爪熊に獲られたんじゃないか?」
「誰に?」
「森爪熊」
「三頭で全部消えるほどじゃない」
さらに進むと、猟師がしゃがみ込んだ。
「ここ」
「何だ?」
「角兎の糞だ」
「古いな」
「少なくとも何週間か前だ」
「新しいのは?」
「見当たらん」
少し先にあった牙鼠の巣穴を覗き込む。
「空だ」
「また?」
「三つ目だな」
さらに進むと、森猪が地面を掘り返した跡が見つかったが、それも古いものだった。
「本当に減ってるのか?」
「少なくとも、この辺りはな」
「原因は?」
「分からん」
猟師は森を見回した。
「でも、森爪熊が奥から下りてきた理由としては、十分あり得る」
◆
さらに森の深部へ進むと、小さな崖の下に大きな穴が見つかった。
「巣か?」
「昔使われていた森爪熊の巣だ」
猟師が入口へ近づき、匂いを確かめながら足元を調べる。
「今は?」
「……使われてない」
「どのくらい?」
「少なくとも、しばらくは」
入口近くには古い毛が残っていたが、新しい足跡はない。
「移動したのか」
「そうだな」
「餌を追って?」
「たぶん」
猟師が巣の近くをさらに調べると、木の根元に小型魔物の骨が落ちていた。かなり古いものだった。
「以前はここで餌を取れていたんだろう」
「今はいない」
「そういうことになる」
「……厄介だな」
「ああ」
森爪熊を討伐したとしても、小型魔物が減っている原因は残る。
「熊だけの問題じゃねえぞ」
◆
午後の王宮魔術院では、資料庫の奥からリネットの声が響いた。
「ありました!」
「うるさい!」
「すみません!」
そう謝りながらも、リネットの勢いは止まらない。彼女が見つけたのは、魔術院のものではない古い帳簿だった。王国の林業管理記録である。
「何を見つけた?」
先輩術師が近づく。
「北の森で採取された魔物素材の記録です」
「それが?」
「見てください」
十年前の記録には、角兎の角、牙鼠の牙、森猪の皮など、小型魔物の素材が大量に記されていた。しかし、五年前の記録では、その納入量が明らかに減っている。
「減っています」
「狩猟量が変わっただけじゃないか?」
「その可能性もあります」
リネットはさらに、冒険者ギルドから取り寄せた依頼記録を広げた。
「でも、討伐依頼そのものも減っています」
「依頼が少ないから狩られなくなった?」
「逆です。依頼を出しても、対象を見つけられないことが増えています」
記録には、「未達成」「対象発見できず」「痕跡のみ」といった記載が、少しずつ増えていた。
「……何年前からだ?」
「はっきりし始めるのは四、五年前です」
「魔力低下と重なるか」
「はい」
完全に一致するわけではない。だが、無関係とも思えなかった。
「ギルドへ持っていきます」
「待て」
「なんです?」
「原本を持ち出すな」
「あ」
「写せ」
「……はい」
リネットは急いで複写を始めた。
◆
夕方、杏々が備蓄庫の仕事を終えてギルドへ戻ると、広間の空気がまた少し変わっていた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
受付嬢が依頼票を受け取る。
「どうでした?」
「いっぱいあった」
「食料が?」
「うん」
「問題は?」
「濡れてるのとか、穴あるのとかあった」
「報告には全部書かれていますね」
「直してた」
「よかったです」
受付嬢は報酬を渡した。
「今日も問題なく達成ですね」
「ランク――」
「まだです」
「まだ言ってない」
「言うと思ったので」
「赤角牛」
「やっぱり」
そんなやり取りをしていると、ギルドの扉が開いた。
「調査隊、戻ったぞ!」
杏々が振り返る。昨日まで森を調べていた冒険者たちの中に、見知らぬ猟師もいる。
「どうだった?」
ガルドが出てくると、先頭の男が答えた。
「森爪熊の旧巣を確認しました」
「今も使ってるか?」
「放棄されてます」
「新しい巣は?」
「見つけられませんでした」
「他には?」
男は少し間を置いてから答えた。
「……小型魔物が少なすぎます」
「どの程度だ?」
「猟師の見立てでは、旧生息域周辺で以前の半分以下になっていてもおかしくないと」
広間がざわつく。
「角兎」
「牙鼠」
「森猪」
「新しい痕跡がほとんどありません」
杏々は話を聞きながら呟いた。
「ご飯ないんだ」
調査隊の男が杏々を見る。
「ああ。森爪熊からすりゃ、そういうことになるな」
「やっぱり」
杏々は小さく頷いた。
◆
そこへ、リネットが走り込んできた。
「ガルドさん!」
「お前もか」
「『お前も』って何ですか!」
「今日は報告が多い」
「なら、もう一つ増やします!」
リネットは大量の写しを受付台へ置いた。
「北の森の小型魔物が減っています」
「今聞いた」
「え?」
「現地調査隊からだ」
リネットは調査隊へ向き直った。
「本当ですか!?」
「本当だ」
「どのくらい?」
「落ち着け」
ガルドが止める。
「お前の方は何が分かった?」
リネットは気を取り直し、資料を広げた。
「過去の討伐記録と素材納入記録を調べました。四、五年前頃から、北の森深部で小型魔物の確認数が減っています」
「現地と一致するな」
「はい」
「魔力は?」
「魔力濃度の低下も、ほぼ同じ時期から明確になっています」
ガルドが腕を組む。
「つまり」
受付嬢が整理する。
「森の魔力が下がった」
「それと同じ頃に小型魔物が減り始めた」
「それで森爪熊が餌を求めて外へ?」
「可能性はかなり上がったと思います」
リネットが答える。
「でも」
杏々が言った。
全員が杏々を見る。
「なんで魔力減ったの?」
リネットの表情が曇る。
「そこが分からないんです」
原因。それが最も大事なところなのに、まだ見えていなかった。
◆
「で」
ガルドが言った。
「森爪熊をどうするかだ」
空気が少し重くなる。
「放置はできません」
受付嬢が答えた。
「今日も街の近くまで来ていたんですよね」
「幼獣だけだったがな」
「これ以上餌がなくなれば、人や家畜を襲う可能性もあります」
「ああ」
「討伐?」
杏々が聞く。
「選択肢には入る」
ガルドは正直に答えた。
「でもまだ?」
「まだだ」
「なんで?」
「今のところ、人を襲ってねえ」
「牛も」
「ああ」
「じゃあ追い返す?」
「森に餌がねえなら、追い返したところでまた出てくる」
「そっか」
「だから困ってんだ」
ガルドは頭を掻いた。
討伐するのか、追い返すのか、捕獲するのか。どれも簡単ではない。森爪熊は大型魔物で、しかも子連れだ。追い詰めれば、それまで人を避けていた親熊が攻撃に転じる可能性もある。
「……明日、もう一度調査だ」
「今度は何を?」
「今の巣を探す」
ガルドは地図を見ながら続けた。
「居場所が分からねえままじゃ、何も決められん」
◆
その日の夜、王都北側の畑と森の境に近い場所で、一人の男が罠を確認していた。
農家ではない。北の森が閉鎖される前から、小型魔物を獲るために罠を仕掛けていた猟師だった。
「こっちは空か」
罠の中には何もいない。
「最近ほんとに獲れねえな……」
次の罠も空だった。さらに先へ進むと、地面に大きな足跡が残っている。
「森爪熊……」
男は顔をしかめた。
「こいつのせいで獲物が逃げたのか?」
まだ、森の異変が広く知られているわけではない。男は周囲を見回し、別の罠へ近づいた。
その中には、角兎が一匹、生きたまま捕らえられていた。
「やっと一匹か」
男が罠へ手を伸ばした、そのときだった。
背後の茂みが揺れた。
「誰だ?」
返事はない。がさがさと音が続き、男が腰の短剣へ手を伸ばした瞬間、茂みから小さな森爪熊が飛び出した。
「なっ――!」
幼獣は男へ向かってきたのではない。罠の中の角兎へ走っていた。
「このっ!」
驚いた男が反射的に罠の横に仕掛けていた縄を引くと、ばしんという音とともに、別の捕獲縄が幼獣の前脚へ食い込んだ。
「…………」
男は固まった。
「やべ……」
幼獣が暴れ、縄が締まる。木が揺れ、幼獣が「ギャウ! ギャウッ!」と鳴いた。
「待て! 暴れんな!」
男が近づこうとした、そのとき。
森の奥から、低い唸り声が聞こえた。
「ヴォォォォ……」
男の顔から血の気が引く。
木々の間に、大きな影が立っていた。
親熊は男を見たあと、罠にかかった幼獣へ目を向け、もう一度、男を見た。
「ヴォォォォォォォッ!」
今までとは違う、明確な敵意だった。
男は走った。
「た、助けてくれぇぇぇ!」
その背後で、森爪熊が初めて人間を追った。




