森から来たもの
翌朝、王宮魔術院の資料室で、リネットは大量の記録板に囲まれていた。机の上には北の森に関する資料が積み上がっている。魔物の分布、植物の種類、冒険者ギルドから提出された討伐記録、林業者による採取報告。そして、その中に北の森の魔力観測記録があった。
「これ……」
リネットの手が止まる。
王都周辺では、農地や水源、主要街道などの魔力濃度を定期的に調査している。もちろん北の森も対象に含まれていた。
「去年……二年前、三年前……」
記録を順に並べ、リネットは眼鏡を押し上げた。
「下がってる?」
劇的な変化ではない。一度だけ測ったのなら、誤差だと思ったかもしれない。だが、三年前、二年前、一年前、そして今年の記録を並べてみると、森の深部に近い観測地点ほど、少しずつ魔力濃度が下がっていた。
対して、森の外や農地周辺では大きな変化がない。むしろ、魔力濃度は安定している。
「安定してる……」
当然だった。王都周辺の農地には魔力調整柱が設置されている。地脈から魔力を引き上げ、作物に適した濃度を維持しているからだ。
「でも……」
リネットは地図を広げた。北の森、その外側に広がる農地、さらにその先にある王都を見比べる。
「森だけ下がってる?」
自然の森なら、普通は多少の上下を繰り返す。季節や雨量、魔物の増減など、様々な要因で変化するからだ。ところが、この数年の記録は小さいながらも、ほぼ一方向に変化していた。
「リネット」
「っ!」
突然声をかけられ、リネットは飛び上がった。
「びっくりした……!」
「何をそんなに集中している」
声の主は、昨日まで何度も話していた先輩術師だった。
「北の森です」
「例の大型魔物か」
「はい」
リネットは記録を見せた。
「魔力濃度が少しずつ低下しています」
「ふむ」
先輩術師は数枚の記録を見比べた。
「確かにな」
「気づいていたんですか?」
「いや」
「では、もっと驚いてください」
「この程度なら、通常変動の範囲とも言える」
「一年ならそうです」
リネットは別の記録を取り出した。
「でも三年以上続いています。しかも、深部ほど低下幅が大きいです」
先輩術師の表情が少し変わった。
「外縁部は?」
「農地に近い場所は安定しています」
「魔力設備があるからだろう」
「はい」
リネットは地図へ目を落とした。
「もし森の奥で暮らしている魔物が、魔力の低下を嫌って移動しているなら……」
「人里側へ来ても不思議ではない、か」
「はい」
「だが、魔物が移動するほどの低下か?」
「分かりません」
リネットは首を振った。
「魔物によって必要な魔力濃度は違います。それに、魔力そのものではなく……」
「餌か」
「はい」
魔力濃度が下がる。小型魔物が減る。植物が変わる。それを食べる別の魔物も減る。少しの変化でも、食物連鎖の上にいる大型魔物にとっては、大きな影響になる可能性がある。
「昨日、杏々さんが言ったんです」
「何を?」
「『お腹すいたのかも』って」
先輩術師は黙った。
「なんです?」
「いや」
先輩術師は少しだけ笑った。
「随分と単純なところから答えに近づくものだと思ってな」
「まだ答えではありません!」
「分かっている」
リネットは頬を膨らませながら、再び資料へ目を落とした。
◆
その頃、杏々は冒険者ギルドにいた。
「今日は北へ行きません」
受付嬢が先に言った。
「まだ何も言ってない」
「念のためです」
「分かってるよ」
「では、今日はどうします?」
「お仕事」
「それは分かっています」
「食べれるやつ」
「それも分かっていました」
受付嬢は慣れた様子で依頼書を確認した。
「北部以外なら、外での依頼も少しずつ再開しています。ただ、新人の単独行動は、なるべく街の近くに限定されていますね」
「何ある?」
「南東農地の用水路点検です」
「前もあったやつ?」
「覚えていたんですか?」
「食べれるものあるって聞いた」
「そんな説明はしていません!」
「聞いたよ?」
「杏々さんが聞いただけです!」
受付嬢はため息をついた。
「用水路に詰まった枝や泥を取り除く仕事です。農地の方から、最近水量が落ちている区画があると連絡が来ています」
「畑のお仕事?」
「そうですね」
「ご飯守る?」
「昨日から、その言い方を気に入っていませんか?」
「分かりやすい」
「……間違ってはいません」
「じゃあやる」
「はい」
受付嬢は依頼票を用意した。
「ただし今日は、農地の管理人さんと一緒に回ってください」
「一人じゃない?」
「はい。北の件もありますから」
「分かった」
「それから、昨日みたいに大型魔物を見つけたら――」
「近づかない」
「追わない」
「報告する」
受付嬢が杏々を見る。
「完璧じゃないですか」
「いっぱい言われたから覚えた」
「その調子で文字も覚えてください」
「ご飯の文字は覚えてるよ」
「それ以外もです」
◆
王都南東の農地では、北側とは違って、いつも通り人々が畑仕事をしていた。杏々は農地管理人の男と一緒に、水路沿いを歩いていた。
「ここだな」
男が立ち止まる。
「流れ悪い?」
「ああ」
細い用水路には上流から水が流れていたが、途中から急に勢いが弱くなっている。
「何か詰まってんだろ」
「見る」
杏々が水路へ入る。
「冷たい」
「濡れてもいい靴だから大丈夫だ」
「うん」
水路を進むと、少し先に枝や枯れ草、泥が固まって水の流れを塞いでいる場所があった。
「あった」
「結構あるな」
「取る?」
「頼む」
杏々は枝を掴み、力を込めて引いた。
「よいしょ」
塊ごとずるりと抜け、せき止められていた水が一気に流れ出す。
「おお」
「流れた」
「助かるよ」
管理人が笑った。
「この先にも何か所かあるらしい」
「全部取る?」
「ああ」
「分かった」
杏々は水路を歩いていった。
◆
二か所目、三か所目と作業を進めていくうちに、杏々は水路の中にいる小さな生き物を見つけた。
「これ何?」
「水泥蟹だな」
「かに」
「魔物じゃない、普通の蟹だ」
「食べれる?」
「食えるけど小さいぞ」
「いっぱい集めたら?」
「仕事中だぞ」
「そっか」
杏々は少し残念そうに水泥蟹を見た。
「帰りなら採ってもいい?」
「この水路のものは農家の管理物じゃないから、まあ少しくらいならいいんじゃないか」
「やった」
「本当に食い物ばっかりだな」
「大事だよ」
「そうだな」
男は笑った。
さらに歩いていると、畑の端に見覚えのあるものがあった。
「土玉芋」
「知ってるのか?」
「前のおじいちゃんが作ってた」
「ああ、北側の?」
「うん」
「この辺でも作ってるぞ」
「食べれる?」
「知ってるんじゃないのか」
「まだ食べてない」
「収穫には早いな」
「まただ」
「時期ってもんがある」
「待たないとダメ?」
「そういうこと」
「難しいね」
◆
昼前、二人は最後の水路へ向かっていた。
「ここが一番詰まりやすい」
管理人が説明する。
「向こうに小さな林があるだろ?」
「うん」
「雨が降ると、そこから枝や葉が流れてくるんだ」
「森じゃない?」
「森というほど大きくはないな。北の森とは繋がっていない」
「じゃあ安全?」
「少なくとも、大型魔物の話はない」
「なるほど」
杏々は水路へ入り、少し進んだところで足を止めた。
「詰まってる」
大きな枝が何本も絡まっている。
「こりゃひどいな」
「取るね」
「ああ」
杏々が枝へ手を伸ばした、そのときだった。
林の方で、かさりと音がした。
「?」
「何かいる」
管理人も振り返る。
「鳥か?」
かさかさと音が続き、低い茂みが揺れる。杏々は動かなかった。
「杏々?」
「近づかない」
「え?」
「言われたから」
「……そうか」
管理人も少し警戒する。
茂みが揺れ、やがて、その隙間から顔が出た。
杏々と管理人は同時に固まった。
普通の犬よりも明らかに大きい。黒に近い茶色の毛に、丸い耳、太い前脚。その先には長い爪が伸びている。
「熊……?」
管理人が呟いた。
ただし、まだ大人ではない。若い個体のようだったが、それでも杏々よりずっと大きかった。
「子供?」
杏々が聞く。
「たぶんな」
若い熊型魔物は、こちらをじっと見ている。
「動くな」
「うん」
魔物も動かない。しばらく互いに見つめ合っていると、やがて魔物の鼻が動いた。
杏々ではない。
魔物は水路の近くへ顔を向けた。そこには、農家が害獣対策として置いた小型魔物用の罠があり、中にはすでに死んだ角兎が入っていた。
「……あ」
若い熊型魔物が一歩近づく。
「餌……」
管理人が小さく呟いた。
魔物は杏々たちではなく、罠の中の角兎を見ていた。さらに一歩近づき、鼻先で罠を確認すると、前脚を伸ばす。
がしゃりと罠が動き、魔物は驚いて一度後ろへ下がった。しかし、すぐにまた近づく。
「食べたいんだ」
「そうみたいだな」
若い魔物は何度か罠へ前脚を伸ばしたが、扉は開かなかった。
杏々は罠と魔物を見比べた。
「取れないね」
「触るなよ」
「うん」
近づかない約束だ。杏々はその場から動かなかった。
◆
そのとき、林の奥から低い音が響いた。
「ヴゥゥ……」
若い魔物が振り返る。
杏々も木々の間へ目を向けた。
何かが動いた。
今まで見た影とは違う。圧倒的に大きな身体だった。四足で歩いているのに、人間の大人より肩が高い。黒褐色の毛に覆われた太い脚、その前脚には長く湾曲した四本の爪がある。
管理人の顔から血の気が引いた。
「森爪熊……」
杏々が聞く。
「これが?」
「大型魔物だ」
管理人の声が震えている。
「しかも……でかい」
森爪熊は杏々たちを見たあと、若い個体へ目を向けた。
「親?」
「たぶん」
大きな個体が低く唸る。
「ヴゥゥゥ……」
明らかな警戒だった。
杏々が動かずにいると、若い個体が親の方へ走った。その後ろから、さらにもう一頭、小さな個体が姿を見せる。
「三匹」
杏々が呟いた。
大きいのが一頭、子供が二頭。これまで見つかっていた痕跡と一致する。
「杏々」
「うん」
「ゆっくり下がるぞ」
「分かった」
二人は少しずつ後退した。森爪熊は追ってこない。ただ子供たちの前に立ち、こちらを見ている。
「襲ってこない」
「刺激するな」
「うん」
一歩、また一歩と距離を取る。杏々は途中で罠の中の角兎を見て、それから森爪熊へ目を向けた。
「杏々?」
「お腹すいてるんだね」
「今はいいから下がれ」
「うん」
杏々は素直に従った。
◆
十分ほど距離を取ったあと、二人は一気に農道まで戻った。
「はぁ……!」
管理人が息を吐く。
「いた……」
「いたね」
「『いたね』じゃない!」
「?」
「あれは森爪熊だぞ!」
「ガルドさんが言ってたやつ?」
「知っていたのか!?」
「名前だけ」
「名前だけで済ませるな!」
管理人は頭を抱えた。
「成獣なら、中堅冒険者でも単独では避ける魔物だ!」
「強い?」
「強い!」
「食べれる?」
「今それを聞く!?」
「気になった」
「知らん!」
管理人は声を荒げたあと、一度深呼吸した。
「……ギルドへ報告する」
「うん」
「仕事は中止だ」
「枝まだ取ってない」
「今はそれどころじゃない!」
「畑大丈夫?」
「別の場所から水を回す!」
「そっか」
「命の方が大事だ!」
「分かった」
二人は王都へ向かって歩き始めた。杏々は一度だけ後ろを振り返ったが、林の向こうに森爪熊の姿はもう見えなかった。
それでも、襲ってこなかったことは覚えている。昨日の大角牛にも、今日の自分たちにも手を出さず、ただ角兎を食べようとしていた。
「やっぱりお腹すいてるのかな」
◆
その少し後、林では大きな森爪熊が罠へ近づいていた。匂いを嗅ぎ、角兎の存在を確かめる。近くでは子供たちが鳴いていた。
親熊が前脚を振り下ろすと、金属製の罠が大きく歪んだ。もう一度振り下ろすと、扉が外れる。親熊は中の角兎を咥え、子供たちの前へ置いた。
二頭が食べ始める。
親熊は食べなかった。周囲を警戒しながら、ただ子供たちを見ていた。
◆
「森爪熊!?」
冒険者ギルドへ戻ると、ガルドの声が響いた。
「うん」
杏々が答える。
「でっかかった」
「大きさは!?」
杏々は両手を広げた。
「もっと」
「もっと?」
「ガルドさんより大きい」
「比較対象が俺なのか」
「分かりやすい」
「まあいい!」
ガルドは管理人からも話を聞いた。
「成獣一頭、幼獣二頭で間違いありません」
「距離は?」
「二十歩ほどまで近づかれました」
「襲撃は?」
「ありません」
「威嚇は?」
「親個体が唸りました。ただ、こちらが後退すると追ってきませんでした」
ガルドは腕を組んだ。
「親子か」
偵察隊の予想が当たっていた。
「何してた?」
杏々が答える。
「角兎食べようとしてた」
「角兎?」
「罠に入ってたやつ」
受付嬢が記録する。
「人間や家畜ではなく、小型魔物を狙っている……」
「昨日の血痕も魔物かもしれんな」
ガルドが呟いた。
「でも何で、わざわざ人里近くまで?」
「お腹すいてる」
杏々が言う。
ガルドが杏々を見る。
「またそれか」
「だって、ずっと食べ物探してるじゃん」
「まあな」
「牛いたのに食べなかった」
ガルドは黙った。
「今日も私たちじゃなくて角兎見てた」
「子供に食べさせていたのかもな」
「見たのか?」
「食べる前に帰った」
「じゃあ想像だろ」
「うん」
それでも、あり得ない話ではなかった。
「討伐、するんですか?」
受付嬢が尋ねる。
ガルドは少し考えた。
「現時点では判断できねえ」
「でも森爪熊ですよね?」
「ああ」
大型で危険な魔物だ。しかも成獣一頭と幼獣二頭。人里近くへ出ている以上、放置もできない。
「まず追加調査だ」
「討伐依頼は?」
「まだ出すな」
ガルドはそう言って、森の方角へ目を向けた。
「巣の位置と、なぜ移動しているのかを確認する」
「分かりました」
杏々が手を上げる。
「私も――」
「ダメだ」
「まだ言ってない」
「お前の顔を見りゃ分かる」
「えー」
◆
その日の夕方、王宮魔術院から仕事を終えてやってきたリネットは、ギルドへ入った瞬間に声を上げた。
「杏々さんが森爪熊に遭遇した!?」
「うん」
「うんじゃありません!」
「襲われてないよ」
「結果論です!」
「近づかなかった」
「…………」
「追わなかった」
「…………」
「ちゃんと帰って報告した」
リネットが言葉を失う。
「約束守ったよ」
「……はい」
「えらい?」
「えらいですけど!」
褒めるべきなのか怒るべきなのか分からなくなり、リネットは頭を抱えた。
「それより」
リネットは資料を取り出した。
「私も今日、北の森について調べていたんです」
「分かった?」
「少しだけ」
二人はギルド酒場の机へ座り、リネットは地図を広げた。
「北の森では、ここ数年、深部の魔力濃度が少しずつ低下しています」
「まりょく少ない?」
「はい」
「だから熊来た?」
「まだ断定はできません」
「でもありそう?」
「あります」
リネットは森の深部を指した。
「魔物は周囲の魔力を取り込んで生きています」
「うん」
「魔力が減れば、小型魔物の数や分布が変わる可能性があります」
「ご飯減る」
「そうです」
「やっぱり」
「ただ」
リネットは少し眉を寄せた。
「分からないことがあります」
「なに?」
「森の魔力が、なぜ下がっているのかです」
「自然に減った?」
「その可能性もあります」
「じゃあ戻る?」
「……それも分かりません」
リネットは地図を見ながら続けた。
「魔力は使っても、いずれ自然へ戻るものだとされています」
「いずれ?」
「はい」
杏々が首を傾げた。
「どのくらい?」
「え?」
「戻るまで」
リネットは言葉に詰まった。
「どのくらいなんだろ」
考えたことがなかった。魔力は巡り、使われた魔力は自然へ還る。それは魔術を学ぶ者なら誰でも知っている。
では、どれほどの時間をかけて戻るのか。どこへ戻り、どのくらいの濃度になるのか。
「……調べてみます」
「また?」
「はい」
「大変だね」
「誰のせいで、こんなに調べることが増えていると思っているんですか」
「熊?」
「半分くらいは杏々さんです!」
「私?」
「杏々さんが変なところに疑問を持つからです!」
「変?」
「……いえ」
リネットは言い直した。
「たぶん、大事なところです」
「ふーん」
杏々にはよく分からなかった。
「それより」
「はい?」
「森爪熊って食べれる?」
リネットは深く息を吸った。
「そこに戻るんですか!?」
◆
その夜、王都北側では森爪熊の目撃情報を受け、さらに警戒区域が広げられた。しかし、冒険者ギルドはすぐには討伐依頼を出さなかった。
人を襲っていない。家畜も襲っていない。餌を求め、子を連れて森から出てきた一頭の親熊。それが危険な魔物なのか、それとも追い詰められた獣なのか、まだ誰にも分からなかった。




