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杏々の異世界さんぽ~召喚されたのに勇者ではありませんでした。なので冒険者になって、ご飯を食べます~  作者: わかめ
召喚勇者と駆け出し冒険者

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ご飯を守るお仕事


 翌朝、冒険者ギルドへやってきた杏々は、入口を入ってすぐに足を止めた。昨日までとは少し雰囲気が違い、掲示板の前には何人もの冒険者が集まっている。受付では職員たちが慌ただしく書類を運び、普段なら酒場で朝から飲んでいる冒険者まで、今日は真面目な顔で話をしていた。


「なんかいっぱい」


「おはようございます、杏々さん」


 いつもの受付嬢が声をかけてきた。


「おはよ」


「今日は少し混んでいますので、こちらへどうぞ」


「森?」


「ご存じでしたか?」


「昨日リネットちゃんに聞いた」


「ああ」


 受付嬢は頷いた。


「昨晩の調査で、森の西側にある牧草地まで大型魔物が出ていたことが確認されました」


「牛食べられた?」


「家畜の被害は、今のところ確認されていません」


「よかった」


 杏々がほっとすると、受付嬢の表情はかえって曇った。


「ただ、何か別の魔物を捕食した痕跡がありました」


「別の魔物?」


「血と毛が残っていました。現在、種類を調べています」


「食べてたんだ」


「おそらく」


「お腹すいてたのかな」


「……どうでしょう」


 受付嬢は少し考えてから続けた。


「大型魔物が餌を求めて森の外へ出てきた可能性はあります」


「ご飯ないの?」


「森に?」


「うん」


「それも調査中です」


 杏々は北の森の方角を思い浮かべた。薬草、赤露実、角兎、牙鼠。少なくとも杏々が歩いた範囲には、食べ物になりそうなものが色々とあった。


「いっぱいあったけどね」


「浅い区域には、ですね」


「奥は違う?」


「森の生態までは、私も詳しくありません」


「ふーん」


「それより杏々さん、今日も依頼を受けるおつもりですか?」


「うん」


「ですよね」


 受付嬢には、もう分かっていた。


「ただし、昨日から北部街道周辺では新人冒険者の単独行動が制限されています」


「一人で行っちゃダメ?」


「はい」


「街の中は?」


「問題ありません」


「じゃあ街のお仕事する」


 杏々はあっさり受け入れた。


「……意外ですね」


「なにが?」


「もっと『行きたい』と言うかと」


「ダメなんでしょ?」


「そうですけど」


「じゃあしょうがない」


 杏々が掲示板へ目を向ける。


「何ある?」


「そうですね」


 受付嬢が新人向けの依頼を確認しようとした、そのときだった。奥から別の職員が走ってきた。


「北西牧草地、追加で人手を要請しています!」


「内容は?」


「家畜と飼料の移送です! 今日中に牧草地を空けたいとのことです!」


「護衛は?」


「すでに二組手配済みです。運搬補助を追加で募集します」


 受付嬢が書類を受け取る。


「緊急依頼扱いですね」


「はい」


 杏々が見上げた。


「何するの?」


「牧草地にいる家畜を、王都寄りの安全な場所へ移します」


「牛?」


「牛だけではありませんけど」


「ご飯守る?」


「……まあ」


 受付嬢は苦笑した。


「そういう言い方をするなら、そうですね」


「やる」


「待ってください」


「ダメ?」


「北側ですよ」


「でも一人じゃないんでしょ?」


「…………」


 確かに、護衛の冒険者が付き、杏々が担当するのは運搬補助だけだ。


「護衛の冒険者が付きますし、杏々さんが担当するのは運搬補助です」


「できる?」


 受付嬢は少し考えた。市場での荷運びや食堂での運搬、そして杏々の身体能力は、すでに依頼記録に残っている。


「……できますね」


「じゃあやる」


「ただし!」


 受付嬢が強い声を出した。


「護衛担当の指示には必ず従ってください」


「うん」


「勝手に牧草地から離れない」


「うん」


「魔物を見つけても追わない」


「うん」


「食べられそうでもです」


「…………」


「杏々さん?」


「追わない」


「なぜ一回考えたんですか」


     ◆


 今回の依頼には、杏々以外にも数人の冒険者が参加することになった。北門の前には荷車が三台並び、農作業用の道具を持った人たちが集まっている。


「お前が杏々か?」


「うん」


 杏々の前に立ったのは、二十代半ばほどの女性冒険者だった。革鎧を身につけ、腰には片手剣、背中には小さな丸盾を背負っている。赤茶色の髪は後ろで束ねられていた。


「私はセリア。今日の移送班の護衛を任されてる」


「セリア」


「覚えられるか?」


「たぶん」


「……噂通りだな」


「噂?」


「ギルドで最近ちょっと話題なんだよ。小さい新人が牙鼠を蹴り殺したとか、荷物を片手で運ぶとか」


「普通だよ」


「それも聞いた」


 セリアが笑う。


「まあ、今日は戦闘依頼じゃない。私たち護衛が周辺警戒をするから、杏々は牧場の人たちを手伝ってくれ」


「分かった」


「それと、何か変なものを見つけたら、勝手に触らず報告」


「足跡とか?」


「そうそう」


「この前見つけた」


「その足跡のせいで今日こうなってるんだけどな」


「私のせい?」


「違う違う」


 セリアは慌てて手を振った。


「見つけてくれたおかげだよ。知らずに放っておいた方が危なかった」


「ならよかった」


「……妙に素直だな」


 セリアが少し笑った。


「よし、行くぞ」


     ◆


 王都を出て北西へ向かう道中、杏々は荷車の横を歩いていた。道の左右には畑が広がっているが、昨日までとは少し様子が違う。農作業をしている人は少なく、街道には武器を持った冒険者の姿が多い。いくつかの畑では、収穫前らしい作物を急いで運び出している人たちまでいた。


「みんな片付けてる」


「ああ」


 セリアが答える。


「念のためだ」


「魔物来るかもしれないから?」


「そういうこと」


「畑食べる?」


「種類によるな。肉食なら家畜を狙う可能性が高いけど、暴れるだけでも畑は駄目になる」


「それ困る」


「食べ物だから?」


「うん」


「即答だな」


 杏々は畑を見た。


「せっかく作ったのに」


 セリアが少しだけ杏々を見る。


「そうだな」


 畑も、家畜も、倉庫も、杏々にとってはいつか食べるかもしれないご飯だった。


     ◆


 牧草地へ到着すると、すでに現場は大騒ぎになっていた。


「急げー!」


「そっちの柵開けろ!」


「飼料袋は荷車へ!」


 広い牧草地には、大きな牛のような家畜が十数頭おり、ほかにも羊に似たものや角のない大型の鳥など、様々な動物がいる。


「いっぱい」


 杏々が目を輝かせると、セリアが尋ねた。


「食べ物として見てないよな?」


「牛いる」


「聞いてないな」


 牧場主らしい男が駆け寄ってきた。


「ギルドの増援か!」


「護衛のセリアです。移送補助も連れてきました」


「助かる!」


 男が杏々を見る。


「…………」


「この子も?」


「力仕事なら問題ありません」


「大丈夫か?」


「私、持てるよ」


「いや、牛は持たなくていいぞ?」


「持たないの?」


「持たねえよ!」


 セリアが吹き出した。


「まず飼料を運んでくれ」


「分かった」


     ◆


 杏々が最初に任されたのは、家畜用の飼料袋だった。一袋をひょいと持ち上げ、続けて二袋を両手に一つずつ抱えると、そのまま荷車へ運んでいく。


「次」


 牧場主が固まっている。


「おじさん?」


「あ、ああ」


「次ある?」


「あるけど……」


 牧場主が大きな袋を指した。


「本当なら二人で――」


 言い終わる前に、杏々はその袋も持ち上げた。


「これ?」


「……そう」


「どこ?」


「荷車……」


「分かった」


 杏々が歩いていくと、牧場主はセリアを見た。


「魔法使ってるのか?」


「使えないらしい」


「身体強化?」


「それも無理らしい」


「じゃあ何だ?」


「私が知りたい」


     ◆


 飼料の積み込みが終わると、次は小さな家畜を囲いから出す仕事になった。


「こっち」


 杏々が柵を開くと、羊に似た動物が何頭も出ていく。


「もこもこ」


「山綿羊です」


 牧場の若い女性が教えてくれた。


「毛を取る家畜なんです」


「食べれる?」


「お肉にもしますよ」


「おいしい?」


「癖はありますけど、煮込みにするとおいしいです」


「へえ」


 杏々が山綿羊を見る。もこもこしていて、いかにも柔らかそうだった。


「かわいい」


「そうでしょう?」


「おいしいんだ」


「……そこまで一緒なんですね」


 女性が苦笑する。


 杏々は一頭ずつ誘導していったが、途中で一頭だけ動かなくなった。


「メェェ!」


「どうしたの?」


「この子、臆病なんです」


 女性が困った顔をする。


「いつもと違うことがあると、すぐ固まってしまって」


「ふーん」


 杏々が近づくと、山綿羊は怯えたように後ずさった。


「メェ!」


「怖い?」


 杏々はしゃがみ込み、無理に触ろうとはしなかった。少し考えたあと、近くの飼料箱から葉を一枚取る。


「これ食べる?」


「メェ……」


 山綿羊が少しだけ近づいた。


「ほら」


 差し出された葉を山綿羊が食べる。


「食べた」


「そのまま、ゆっくりお願いします」


「うん」


 杏々が後ろへ歩きながら葉を見せると、山綿羊もついてくる。そのまま囲いの外へ出た。


「おー、出た」


「ありがとうございます!」


「食べ物強いね」


「杏々さんが言うと別の意味に聞こえます」


     ◆


 午前中の作業は順調に進み、小型家畜の大半が移動を終え、飼料も半分以上積み終わっていた。残るのは大型の家畜だけだった。


「大角牛を出すぞ!」


「おー」


 杏々の反応が良かった。


 柵の向こうにいるのは、杏々が第4話で見た赤角牛とは違う大きな牛だった。角は大きいが毛は茶色で、魔物ではなく家畜として飼育されているらしい。


「これ食べる?」


「食べるぞ」


 牧場主が答える。


「乳も取るし、畑を耕すのにも使う。歳を取れば肉にもする」


「便利」


「だろ?」


「おいしい?」


「うまいぞ」


 杏々が大角牛を見る。


「今食うなよ」


「食べないよ」


「一応言っとかないとな……」


     ◆


 大角牛の移送が始まった。一頭、二頭と順調に街道側へ誘導されていったが、牧草地の端から突然声が上がった。


「おい!」


 セリアの表情が変わる。


「全員止まれ!」


 護衛の冒険者たちが武器を抜いた。


「家畜を柵の内側へ戻せ!」


「何?」


 杏々が見ると、森に近い牧草地の端で、一人の冒険者がしゃがみ込んでいた。その足元には血が落ちている。


「新しいぞ」


 セリアが走り出し、杏々も少し離れてついていく。


「杏々、そこで止まれ」


「うん」


 今度は即座に止まった。


 地面には、昨日見つかったものと似た血痕が残っている。ただし、量は前より多かった。


「何の血だ?」


「分からない」


「毛がある」


 冒険者が拾い上げた毛は茶色だった。


「角兎じゃないな」


「森猪か?」


「いや、もっと長い」


 セリアが周囲を見回す。


「足跡は?」


「こっちです!」


 別の男が声を上げた。


 地面には、また大きな足跡が残っている。


「昨日のと同じだ」


「本当に?」


 杏々が少し離れたところから見る。


「うん」


 杏々は足跡を覚えていた。


「これ」


「大きさは?」


「前のより小さいかも」


 セリアが杏々を見る。


「分かる?」


「たぶん」


「偵察隊の報告と合うな……」


 少なくとも三体。しかも大きさが違う。


「最近のものだ」


「どのくらい?」


「今朝か……下手すりゃ夜明け以降」


 空気が一気に重くなった。


「全頭、移動を急ぐ!」


「分かった!」


 牧場主たちが走り出す。


     ◆


「杏々」


「なに?」


「ここからは絶対に私の見える場所から離れるな」


 セリアが言った。


「分かった」


「何か聞こえても追うな」


「うん」


「見つけても近づくな」


「うん」


「……素直だな」


「危ないんでしょ?」


「ああ」


「じゃあ近づかない」


 セリアは一瞬だけ驚いたあと、頷いた。


「それでいい」


 移送作業が再開される。ただし、先ほどまでとは違い、護衛の半分は森側を警戒し、残りは家畜の近くに付きながら、急いで家畜を運び出していく。


「あと何頭?」


「五頭!」


「急げ!」


 四頭、三頭、二頭と移動を終え、残るは最後の一頭になった。


「最後!」


 最後の大角牛は、かなり大きな個体だった。


「ほら! 行け!」


「モォォッ!」


 牛が嫌がる。


「どうした?」


「分からん!」


 牧場主が縄を引くが、牛は動かない。それどころか、森の方を見ながら後ずさり始めた。


「…………」


 杏々も森を見る。


「何かいる?」


 セリアの手が剣へ伸びる。


「静かに」


 風が吹き、草が揺れた。


 ざわ、と森の木々が揺れる。


 何も見えない。それでも大角牛は怯えたように後ずさった。


「モォォ……!」


「怯えてる」


 杏々が言う。


「分かるのか?」


「さっきの羊と一緒」


 食べ物では釣れなさそうだった。


「杏々は下がってろ」


「うん」


 杏々が数歩下がると、護衛たちが前へ出た。


「森側警戒!」


「了解!」


 全員が息を潜める。


 そのとき、草むらががさりと揺れた。


 大角牛が暴れ始める。


「モォォォォ!」


「押さえろ!」


「縄離すな!」


「まずい!」


 大型の牛が首を振り、大人の男が二人がかりでも止められない。そのまま柵へ突っ込もうとした。


「危ない!」


 杏々が走った。


「杏々!」


 大角牛の前へ回り込み、杏々は縄を掴んだ。


「止まって」


「モォォォ!」


 牛が引き、杏々も引く。


「…………」


 動かない。


「え?」


 牧場主が目を見開いた。


 大角牛は全力で後ろへ下がろうとしている。その縄を、杏々が一人で持っていた。


「大丈夫」


 杏々は縄を少しずつ引く。


「こっち」


 牛の力に逆らって引きずるのではなく、身体の向きを変え、暴れる方向をずらしながら、少しずつ街道側へ向けていく。


「今だ!」


 牧場主たちが加わった。


「行け!」


「モォォォ!」


 最後の一頭が柵の外へ出る。


「そのまま移動!」


 セリアが叫んだ。


「急げ!」


     ◆


 家畜たちが牧草地を離れていく。荷車、飼料、人。その最後尾を護衛たちが守り、杏々もその中にいた。


「全部出た?」


「全部だ」


 牧場主が頷く。


「よかった」


「杏々、助かったぞ」


「牛重かった」


「……重かったで済むのか」


「ちょっと大変だった」


「ちょっと?」


 セリアが苦笑する。


 そして、一度だけ森を振り返った。


「…………」


 何もいない。


「気のせいだった?」


 杏々が聞く。


「分からない」


「魔物いたかな」


「いた可能性はある」


「出てこなかったね」


「ああ」


 セリアは安心したような、それでいてまだ警戒しているような、複雑な表情を浮かべていた。


「むしろ、それが気になる」


「なんで?」


「大型魔物が近くにいたなら、家畜は格好の獲物だ」


「うん」


「それなのに襲ってこなかった」


「お腹いっぱいだった?」


「……それならいいんだけどな」


     ◆


 王都へ戻ったのは、昼をかなり過ぎてからだった。


「お疲れさまでした」


 受付嬢が依頼票を確認する。


「家畜、全頭移送完了。飼料及び備品の運搬も完了……問題なしですね」


「ご飯守れた?」


「守れましたよ」


「やった」


「それと」


 受付嬢が別の紙を見る。


「現場のセリアさんから、杏々さんについて補足報告があります」


「なに?」


「『指示に従い、勝手な行動なし。運搬能力は非常に高い。家畜移送にも貢献』」


「うん」


「それから……」


 受付嬢が少し言葉を止める。


「『大角牛一頭をほぼ一人で制止』」


「止めたよ」


「普通は止まりませんからね?」


「でも止まった」


「……そうですね」


 受付嬢はもう深く追及しなかった。


「これも実績として記録しておきます」


「ランク上がる?」


「まだです」


「えー」


「ですが、かなり順調ですよ」


「ほんと?」


「はい」


 薬草採取、赤露実、荷運び、市場、そして今回の緊急支援。仕事を放棄せず、指示にも従い、危険を見つけたら報告する。


「新人としては十分すぎるくらいです」


「じゃあ赤角牛近い?」


「それはまだ遠いです」


「川鎧魚は?」


「そっちもです」


「いっぱい仕事しよ」


「結局それですね」


 受付嬢が報酬を渡す。


「今日は緊急依頼なので、普段の運搬依頼より少し報酬が高いですよ」


「ほんと?」


 杏々が革袋を受け取る。少し重い。


「おー」


「何か食べに行くんですか?」


「うん」


「でしょうね」


「今日いっぱい働いたから」


「何を食べるか決めてるんです?」


 杏々は少し考えた。


「牛」


「…………」


 受付嬢が杏々を見る。


「さっきまで守っていたのに?」


「別の牛」


「そういう問題でしょうか」


     ◆


 夕方、杏々とリネットは王都の食堂にいた。


「今日は大変だったんですよ!」


 リネットが向かいから言う。


「聞いた」


「聞いたじゃありません!」


「ご飯食べよ」


「杏々さん!」


 リネットは今日の仕事を知るなり、仕事終わりに杏々を探しに来た。


「大型魔物が出ている地域へ行ったって……!」


「みんな一緒だったよ」


「それは聞きました」


「セリアもいた」


「護衛の方ですよね」


「うん」


「勝手なことは?」


「してない」


「本当に?」


「牛止めた」


「それは聞きました!」


「じゃあ大丈夫」


「大丈夫の意味が違います!」


 杏々の前には大きな皿が置かれていた。薄く切った牛肉が香ばしく焼かれ、玉ねぎに似た野菜を煮詰めたソースがかかっている。


「これおいしい」


「話を聞いてください!」


「リネットちゃんも食べる?」


「…………」


 一切れ差し出され、リネットは少し迷ったあと、それを受け取った。


「……食べますけど」


「おいしいよ」


「知っています」


 一口食べる。


「…………」


「おいしい?」


「おいしいです」


「よかった」


 杏々が笑うと、リネットはため息をついた。


     ◆


 しばらく食べてから、杏々が言った。


「今日の魔物、変だって」


「変?」


「セリアが言ってた」


「何をです?」


「牛いたのに襲ってこなかった」


 リネットの手が止まる。


「近くにいたんですか?」


「たぶん」


「痕跡は?」


「血と足跡」


「また?」


「うん」


 リネットが考え込む。


「餌を探して森を出ているなら……」


「牛食べるよね」


「普通なら、その可能性は高いですね」


「でも食べなかった」


 何かを食べた血痕はある。それでも、牧草地の家畜には手を出していない。


「狙っている餌が違う?」


「好き嫌い?」


「そういう可能性も……なくはないですが」


 リネットは首を傾げた。


「そもそも、どうして突然森の外へ出てきたんでしょう」


「お腹すいたからじゃない?」


「最初はそう思っていましたけど……」


 食料不足、縄張り争い、繁殖、怪我、魔力環境の変化。魔物が生息域を変える理由はいくつもある。


「…………」


「リネットちゃん?」


「明日、魔術院で少し調べてみます」


「何を?」


「北の森についてです」


「魔物?」


「それもです」


 リネットは考えながら言った。


「最近、森の魔力濃度に変化がなかったか」


「まりょく?」


「魔物は環境の魔力に強く影響されますから」


「あー」


 杏々は以前聞いた話を思い出した。


「魔力いっぱいだと強くなる?」


「大まかには」


「少なくなったら?」


 リネットが言葉を止める。


「種類によりますけど、生息場所を変える可能性はありますね」


「ご飯なくなるみたいな?」


「……似ています」


「じゃあお腹すいたのかも」


 杏々は肉を食べる。


 リネットはしばらく何も言わなかった。


     ◆


 その夜、北の森では静かな木々の間を大きな影が歩いていた。その後ろには、小さな影が二つ続いている。


 大きな影が立ち止まり、地面へ鼻先を近づける。そこには牙鼠の死骸があり、すでに半分ほど食べられていた。


 大きな影が残りを咥えると、小さな二つの影が近づいてくる。低い声が響いたが、争う様子はない。大きな個体は獲物を小さな二体へ分け与えた。


 やがて、三つの影は再び歩き始める。森の中で餌を探すように、少しずつ王都に近い方へ向かって。


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