18話
午後、ドビーのパン屋から飼料を運び終えた魔王達は、食事休憩を挟んで豚舎の清掃に当たっていた。
男手の魔王は、水汲みなどの肉体労働全般を担当。
動物との接触や衛生管理に慣れているリュンが、干し草の交換と壁のブラシ掛けを務め、足場要らずの田衛文が、天井まわりの清掃や換気口の点検を任される。
そうして作業も半ばを過ぎた頃、リュンは額の汗を拭って、魔王の働きぶりに
感心する。
「マオウさんって、本当に頼りになりますね。朝だって、あんなに重たい物を運んだのに」
リュンの優しい言葉を聞いて、入り口手前で、水の入った大瓶を旋回移動させていた魔王が、作業の手を止める。
「えっ? ああ……。そりゃあ、長いあいだの森暮らしに比べたら遙かに安全だし、お姉さんに重労働を任せる訳にも行かないからね」
期せずして好感度の上がりそうな台詞を口にすると、天井付近で2人のやり取りを聞いていた田衛文が、雑巾片手に腰へ手を当て、面白くなさそうに目を尖らせた。
「ム~。リュンばっかズルイ! ボクにはそんな事、一言も言ってくれないのに……」
すると魔王は、ポカンとした顔で天井を見上げると、相手の真意を計り損ねて、言葉のままに返事を返す。
「だって、田衛文には端から、力仕事なんて頼めないじゃないか」
「ムキ~!! ソレって、ボクが員数外だって言いたいの」
田衛文がぞんざいな返事に臍を曲げて、手足を大きく揺らした。
――些細な誤解が、さらなる誤解を生んでしまっている……。
2人の仲を知るリュンが、表情だけは気後れに疲れさせて、余裕タップリに田衛文を宥めた。
「まぁまぁ……。マオウさんは常日頃から、田衛文さんを気遣ってるって事ですよ」
こう言っておけば、『自分よりも田衛文の方が上』だという図式が暗に成り立つ。
リュンの狙いは見事に当たり、田衛文は、
「ん~。ソレはそうなんだけどさぁ……」
と、肩をフリフリ、悪くない反応である。
豚舎に静けさが戻ると、不意に、一巻きの冷たい風が建物内へと迷い込む。
息の長い風は、三人の身体から疲労の熱をほんの少し奪うと、反対側の出口へと駆け抜けていった。
「う~ん。こいつは涼しいや」
「ええ。こういう時の風って、本当に気持ちが良いですよね」
短い感想へ爽やかに答えると、リュンは休憩がてらに雑談を口遊む。
「畜舎の多くって、今のような風を計算に入れて、出入口を作ってあるんです」
田衛文が豚舎の中を見回して、感心と共に呟く。
「そっか……。通気口が上だけだと夏は暑いし、病気になっちゃうもんね」
コンクリート技術の乏しいンストゥルでは、家畜小屋の柱は全てが木製で、壁だけが石灰を塗り固めた腐蝕に強い防水加工である。
しかしそれだと、入口と天井部だけの吸排気では心許ないので、外回りの壁には、横長の隙間を上下二列に空けておいて、冬にはそこへ長板を嵌め込む仕掛けとなっている。
季節はまだ、冬を抜けたばかりである。
畜舎の長板は、2枚とも壁に収められたままだった。
視線を遠く北へと向けると、澄み切った空の下、荒れ地が目立つ平たい尾根の
山脈と、常緑樹の濃い緑の台地が麓に続いているのが見えた。
あの場所は今、どうなってるのだろう。
魔王は二十年前の記憶を思い出して、ンストゥル国外の地理に興味を示す。
「そう言えば、ここから東にはずっと森が続いてて、南は同盟国のルサン、西にはグローネシアって国があるのは聞いたけど、北には何があるんだい?」
学校教育を受けるのは、貴族子弟か富裕層のやる事だ。
実践知識を外れた問いのため、リュンは語気を狂わせて曖昧に返す。
「いえ、北には何もないんです。あるのと言えば、森や川。あと、荒れ地の多い
未開の地で、その先が海へと続いているんです」
世間知らずで言わせれば、精霊の田衛文も良い勝負だ。
田衛文は、頭の中の地図にアレコレと国名を当てはめていって、すぐに不思議そうな表情となる。
「北は空白地ってこと? なんか変な地形になってるネ」
またもリュンは、眉間にうっすらと皺を寄せた気難しい表情である。
「最近では、山沿いの領有権を巡って、小規模の衝突が後を絶たないらしいんです。そのせいか、ンストゥルもグローネシアも、いまだに開拓には至っていないとか……」
魔王は複雑な心境を笑顔に隠すと、再びその視線を、北に広がる不毛の山岳へと向けた。
「ずっと森の中で暮らしてたけど、あそこだけは変わらなかったんだなぁ……」
情感のこもった呟きが、豚舎に厳かな静寂を生む。
会話が途切れたことで、リュンが我に返った。
――雑談が少し長かったかも知れない。
音を立てずに鼻からゆっくりと深呼吸すると、リュンは入り口前の木桶へと手を伸ばす。
「それじゃ、世間話はコレくらいにして、そろそろ壁を流しますよ」
桶の中身は、4分目くらいと言った所か。
リュンが、水を浅く張った木桶を下から掬い上げるように構えると、小さな影が、魔王の足下を横切って飛び出した。
『ブヒッ。ブ~ヒブッヒ♪』
構って欲しい、イタズラ盛りのクレイジー子豚である。
子豚は、正面に後ろ向きの人影を捉えると、テニスプレイヤー並みに屈んだリュンの膝裏へ、楽しそうにヒット&アウェイをかました。
完全に不意を突かれたリュンは体勢が崩れて、調子の狂った悲鳴を上げる。
「ふえええぇぇ!?」
バッシャーンと豪快な水音が辺りに響き、リュンの首から下がズブ濡れとなる。
うしろ向きに倒れた身体に、水に濡れた着衣がピタリと張りつき、なだらかで
健康的な鎖骨のラインと、豊満で形の良い乳房の輪郭が露わとなる。
「うわわわっ! お姉さんが、結構マニアックな事になってるぞ」
リュンは両腕で身体を隠すが、逆に胸の谷間が強調されて、10代半ばの女性が放つ、仄かな淫猥さが加わってしまった。
「何をジッと見てるんですか。アッチ向いてて下さい!」
「は、ハイ!」
『プギー!!』
子豚は、魔王の驚きとリュンのするどい剣幕に怯えて、その場から一目散に逃走した。
嫉妬に狂った田衛文が、場の空気を読まずに大声で叫ぶ。
「コラ~。そうやって魔王の気を惹くな~!!」
「そんな事してません。これはどう見たって事故です!」
泣き顔で言い返すあいだも、水に濡れた身体のラインは妖艶なままだ。
眼福だけど、平常心では居られない。
なによりこのままだと、下半身の生理現象から、猫背の姿勢で作業を続けることになる。
「とりあえず、濡れた服を着替えてきなよ。そのままじゃ風邪を引いちまうだろうし、服も乾かさなきゃいけないから……」
『そのあいだ、代わりに仕事をしているよ』、と付け加えて、魔王がチラッチラッと、リュンの艶姿を横目で眺める。
魔王の気遣いと視線を同時に感じたリュンは、顔を赤らめてサッと立ち上がった。
「分かりました。あとは宜しくお願いします」
リュンが足早に、更衣室のある食堂へと立ち去る。
その間も田衛文は、やれ『発情緋ヘアー』だとか、『淫乱構って系』だとか、果ては『アレは魔王の視線誘導を目的とした、龐統の罠だ』とか、リュンへの呪詛と被害妄想をブツブツと吐いている。
ややあって、作業を続ける二人のもとに、着替えを済ませたリュンが戻ってきた。
「お待たせしましたっ!」
威勢の良いリュンの格好を、田衛文が下から上へと舐め回すように観察する。
「フ~ン、ツナギね……。リュンにしては、真面なチョイスじゃない? ボクはてっきり、裸エプロンとかで一気に攻めてくるとばっかり思ってたのに……」
一瞬、リュンはそうした自分の姿を想像して、表情をドンヨリと曇らせる。
「裸エプロンって……。さっきの状況よりも悪化してるし、そこまで来ると、服装とか言うレベルじゃないですよね」
「あざといのって僕も苦手だから、それだったら、さっきの濡れTシャツみたいな姿の方が良かったなぁ」
どうでも好い感想を述べてから、魔王も田衛文に倣って、視線を腹部から上へ……。
やがて胸元まで見上げると、2人の観察眼がピタリと停止する。
急拵えでサイズが合わず、服がピッチリしてるのは仕方ない。
だが、胸の上部が半開きで、ボタンが一部留まってない所が、変なお店を彷彿とさせる。
魔王が緊張に唾をグビグビ飲み込んで、しどろもどろの口調で尋ねた。
「お、お姉さん。その格好、どうしたの?」
するとリュンは、胸の前へと平然と手を当てて返す。
「あっ、コレですか? 私が着ると『上』がキツイんで、こうして着崩すしかないんです。だから普段は、モートンさんの所で仕立ててもらった、私服にエプロンの格好で仕事に出てるんです」
胸の豊かさと悩殺着こなし、更には、さり気ない自慢の言葉に、田衛文の自制心が完全に崩壊した。
突然、直角三角形みたいな目付きで、田衛文が雄叫びを上げる。
「ムガ~、もう許さ~ん! 抹さ~つ!!」
「うわわっ、田衛文が完全にキレてるぞ!?」
「えっ、なんで!? どうして私に魔法の狙いを付けるんですか。キャアアァァ!!」
バリバリーン、と田衛文の『お仕置き魔法』がリュンへと疾走。
それを危うい所で魔王が庇って、フォルトの丸焼きが完成した。
その後も田衛文は、リュンを狙ってジリジリと間合いを詰めるが、魔王による必死の説得とリュンの平謝りによって、なんとか彼女の怒りをやり過ごす。
それでも完全に気分が収まらなかったのか、終業後、田衛文は夕方までの短い時間を利用して、いつぞやのように柵を飛び越えて、動物たちの元へと遊びに行ってしまった。
いっぽうリュンは、ツナギの重みと通気性の悪さから少し汗ばんだので、乾いた服へと着替えるついでに水浴びへと向かう。
そうしてひとり残された魔王は、夕食前に汗を落とすのが日課なので、団扇を片手に、食堂でしばし夕涼みを決め込んだ。
やがて、空の彼方が紅蓮に色づき始めた頃、普段着に戻ったリュンが食堂へとやってきた。
彼女は魔王の席の前に陣取ると、ぐで~っとテーブルの上に身を預ける。
「ふにゃああぁ……。なんか今日は楽しかったけど、すっごく疲れました」
まるで、夏場のバニラアイスみたいにだらしない。
(ふにゃあって……。お姉さん、早くもメッキが剥がれてきたなぁ)
パタパタと反対側から団扇で扇いでやると、リュンは相変わらずのぐでぐでと
突っ伏した格好で思考停止を決め込む。
「あっ、涼しい……」
一度でも甘えると、際限なくだらけてしまう性格のようだ。
この分だと、家の中でも四六時中、気を張っているかも知れない。
(最近、森にはまったく足を運んでないなぁ……)
今度の休みに山菜採りに出掛けたあと、お裾分けに旬の食材でも渡してみたら、興味深い一面がまた見れそうだ。
魔王が休日の予定を組み立てていると、リュンが突然、ガバッと起きて、慌てて威儀を正す。
「いけない。つい、だらけ過ぎちゃった」
折角のふやけた空気が勿体ない。
魔王は名残惜しげに眉を寄せた。
「むう……。そのままでも好かったのに」
「いいえ、ダメです。女の子たる者、男を前に、常に油断すること勿れです」
取って付けたようなふざけた口調に、魔王は軽く吹き出す。
「なんだい、その格言。もしかして、誰かの受け売りとか?」
思い通りの反応に、リュンがニッコリと教授する。
「マーサさんのです♪」
魔王の心理画面イッパイに、マーサのパワフルスマイルが炸裂する。
突然、視界が霞む怪奇現象に襲われて、魔王が険しい表情で目頭を押さえた。
「あ~。全っ然、似合わないや……」
魔王の失礼な発言に、リュンもクスリと同意した。
「ですよね。私も初めて聞いた時、思わず笑っちゃいました」
ややあって、魔王が外の景色を眺めて感慨ぶかく呟く。
「こんな日が、ずっと続くと良いなぁ……」
リュンはすぐにはそれに答えず、暮れ泥む窓外に目を向けると、顔の前へと掛かった髪を、愁いを帯びた表情で掻き上げる。
やがて、失われてゆく時間を自身に喩えて、穏やかに呟いた。
「ええ、そうですね……。私も、毎日がこういう日だったら良いと思います」
その後2人は、何をするでもなく緩やかな時間を過ごし、田衛文が食堂に戻ってきたのを合図に、三人は家路に就くのであった。




