Scene9.『復讐』−3
「……っ」
カドマスは銃把を握る手掌が生ぬるい汗に濡れていくのを感じていた。心臓が破裂しそうなほど激しく躍動している。動脈、静脈、毛細血管、全身のあらゆる血管を流れる血液の勢いは止どまることを知らなかった。それは窮状がもたらした異常なまでの緊張感であり、彼は狂いそうな精神状態にあった。しかし依然としてなくならない理性が存在し、それがいたぶりのようだった。
ウイングスは、上半身を無防備にさらした姿でありながら隙がないように見える。カドマスはこの時ジャケットの下に防弾ベストを着用していたが、安堵は訪れなかった。敵がそんな単純なことを念頭に置かないわけがない。さらに至近距離から撃たれれば、このベストでは防御しきれない。そして今ウイングスが手に持っている銃は38口径のリボルバーだが、何の弾が込められているのかわからない。もしマグナム弾などが込められていたら危険度はさらに増す。周辺には遮蔽物になるようなものは何一つなく、隠れて機会を窺うこともできなかった。
カドマスは呼吸を徐々に遅らせて、心臓の躍動を鎮めようとした。それが人が歩く程度の速度まで落ちた時、彼はその速度で死地への階梯を登る人となっていた。
最初の一撃。
銀色の銃口から火花が散った。不意の一閃がカドマスの顔の左側面を霞めた。ウイングスが撃った弾だった。カドマスは反撃に転じることすらできず、銃を構えた姿勢で呆然と直立していた。ウイングスの足下に空薬莢が転がる。彼は引き金を引いた。撃鉄が起き、連動して弾倉が回転する。発射の準備態勢が整えられた。
彼は冷然とした眼差しでカドマスを見据えた。
「何を思っている?」
「……」
ウイングスの問いにカドマスの唇は言葉を紡げなかった。ウイングスを、その背後に広がる光景を見る双眸が、焦点を失った硝子玉と化している。
「一発も撃たずに死にたいのか?」
「ぁうあ……!」
言葉にならぬ喘ぐような声を漏らして、カドマスは後退した。
ウイングスは距離を詰めずに言った。
「弾がなくなる。――次が最後だ」
「?……」
カドマスの眼にうっすらと生色が蘇った。
「あと二発で弾がなくなる。その前に――
終わらせる」
それ以上は口にせず、ウイングスは銃を構えた。その視線がまっすぐ自分へ向けられていることを感じながら、カドマスは両目を血走らせ、狂ったような歪んだ笑みを浮かべた。鼻腔から笑声が漏れる。
「二発……」
そう呟いた。
ウイングス(奴)は総てをその二発に賭けてくる。一発では終わらせないはずだ。長年の怨みを募らせてきた奴は、一発目で動きを封じ、二発目で止どめを刺すに違いない。危険なのは二発目だ。
その推理がカドマスに不可解な自信を与えた。8メートルほど離れた位置に立つ敵の動きに全神経を集中させて観察しながら、カドマスは覚悟を決めた。
“二発目”
それを呪文のように胸中で唱えた。それで総てが決まる――
カドマスの表情が一変した。怯懦に狂いかけた敗北者のそれではなくなっていた。一発目で身を挺して相撃ちを狙い――
カドマスの心はそう定まった。
息子よ……
「わああぁああ――っっ!」
死ね!
自らを鼓舞し、奮い立たせるかのような喚声を上げ、カドマスは勝負に出た。斜め方向に走って急停止し、素早く身を翻して銃口を敵に向けた。そこから銃声とともに火花が散る。
一撃。
錯乱したかのようにも思えたが、彼はがむしゃらに乱射はしなかった。その一撃が彼の意志を具現化したように、空間を突き破る一弾が標的に向かって直進していく。
彼の腕に狂いはなかった。銃弾はウイングスの右胸を突き破る。その光景が目に浮かび、カドマスは眼前の闇が一気に開けた感覚を味わった。
「ひっひっ……」
カドマスは喜々として引きつった笑いをその顔に浮かべた。
「――?」
しかし、それがふと目覚めた瞬間のように、突如五感が鮮明になった。
「あっっ……」
視界が別世界
ではなく、それが真の世界を反映した。
死の恐怖から逃がれようとして自らが作り上げた“仮想現実”の幻覚などではなく、“真の世界”を。
それを目撃した瞬間。カドマスの眼、表情は血の気を失った。
「……」
真の危機が迫る瞬間を捕らえた時、その映像はスローになって目に映った。同時に自身の動きまでもがそれに合わせて鈍重になっていた。逃れることもできずに恐怖がスローで忍び寄る。死が意識の中枢に刻印され、呪縛の鎖が手足の自由を封じ、魂が身体から剥離したような感覚を覚える。信じられないことに、相手の銃口から飛び出した弾頭が、軌跡を描いて自分に迫ってくるのを眼が捕えていた。遅れて自分が撃った銃の弾道が見える。相手の肩に命中した。
否、肩は横にスライドし、弾頭は無人の空間を貫いた。その延長線上の壁にめり込む。
「……っっ」
カドマスの視界に映る天井と床が逆転した。頭部、肩、背中を強烈な打撃が襲う。
「あぅっ!」
思考が拡散した。何重にも重なる苦痛が怒濤の猛威となって押し寄せる。腹部が焼けるように熱かった。呼吸の振動が傷口を圧迫する。大量に流れる血液が、体温を奪っていく。震える手を腹部に持っていくと、みるみる血液の紅に染められた。
弾は……弾はどうなった。腹に残っているのか? その懸念が脳裏を奔走する。腹に爆破装置を埋め込まれた恐怖の拷問だった。
「……!」
次の恐慌が彼の周囲を満たした。接近してくる! その脅威に全身が震え、痛覚を無視した底力を発揮して、床に手を押し当てて起き上がろうとする。
「くっ……」
しかし半身を起こしたところで力尽きた。そのまま床に頽れる。呼吸を荒げながらどうにか身を返すと、視界に人の足が入った。黒い靴の爪先から舐めるようにそれを仰ぐ。
「……っっ」
声を出さずに口だけを開閉させてそれを見た。
ウイングスだった。冷薄な眼差しで敵を見下ろしている。右手には銀色の銃が握られていた。その先端がカドマスのほうを向いて威圧する。
もはや避けられぬ死という必然が、彼の目の前に訪れていた。
ウイングスは無慈悲な容貌で実の父、カドマスを見下ろしていた。それはこの世にはびこる悪を裁く審判の容貌だった。その背中にカドマスは、白い翼を見た気がした。束の間……
銃声が鳴った。
長身を屈める天使。ウイングスは膝を折り、床に手を伸ばした。カドマスの屍体がそこにあった。脳天には生々しい銃痕が燻っていた。脇腹からの出血が、血溜まりの池を作っている。ウイングスはその屍体の開かれた眼に手を当て、撫でるように瞼を閉じた。




