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Scene20.『兄』

 

「只今、戻りました」

 外出先から帰邸したフランシスは、主人の部屋を訪れると主人に向かって慇懃なお辞儀をした。

「お帰り、フランシス」

 机上でノート型パソコンを操作していたブラッドは、手を止めて振り向いた。フランシスが扉を開けた次点で主人の笑顔は満開だった。まだ少年のこの主人は、自分の執事――こちらもまだ若い――に深い愛情を持っている。彼のフランシスに対する接し方にそれが滲み出ているのを日頃からフランシスは感じていた。主人のブラッドは知能が高く、彼はそれを利用してインターネット上に小中学生を対象とした学習塾を開いているほどだが、精神(なかみ)は意外と寂しがりやの少年なのかもしれない。たった一日の休暇から戻ってきた執事をこれほど嬉しそうな顔で迎えるとは。そんな主人をフランシスは、ずっと支える存在でありたいと思い、時々堪らなく彼を両腕の中に包み込みたくなるのだった。

「着替えたらお茶を運んできてくれないか」

「何をお付けいたしますか?」

「クラッカーでいいよ。塩っ気のあるディップでも塗って」

「かしこまりました」

 退室しようとしてフランシスが一礼し、踵を返して出口に向かうと

「あ、カップは二つ用意して」と背後から主人の声が降ってきた。ドアノブに手を伸ばしていたフランシスは、足を止めて振り向いた。

「お客様でもいらしてるんですか?」

「んーん」と主人(ブラッド)は首を横に振った。

「一緒にお茶しよう」

「それは……」

 無邪気な笑顔で言われてフランシスは返す言葉に窮した。

「主人は僕なんだから、僕がいいって言ったらいいの。ねっ?」

「は、はぁ……」

「じゃあ、お願いね。“二人分”」

 ブラッドがうれしそうに語尾を跳ね上げる。仕方なくフランシスは、この厚意に甘えることにして部屋を後にした。





 数分ほどして仕事用の黒いスーツに着替えたフランシスが、ワゴンに茶器などを乗せて戻ってきた。室内に置かれた二人掛けの小さなテーブルの上にディップを塗ったクラッカーやクッキーを盛った皿を置くと、フランシスは無駄な動きのない美しい所作でティーポットに茶葉を入れて蓋をするまでの工程を済ませた。数分待って蓋を開けると甘い香りが空気中に広がった。

「いい香りだ……」とその香りに包まれて心地好さそうにブラッドが目を細める。フランシスはティーポットをキャディスプーンで一混ぜしてまた蓋をするとそれを傾け、ティーストレーナーを使って濃さが均一になるように二つのカップに紅茶を注いでいく。ブラッドはその様子を微笑を浮かべた瞳で、頬杖を突きながら眺めていた。

「お待たせいたしました。ジャーマンカモミールのピーチフレーバーブレンドでございます。ジャーマンカモミールの爽やかな甘さに合わせて、アップルチップにピーチフレーバーを染み込ませたものと、ローズヒップやオレンジピール、ステビアなどをブレンドしました」

 フランシスが主人の前に紅茶を入れたカップを置き、もう一つも卓上に並べた。

「さ、フランシスも座って」と主人に促され、フランシスはそれに従う。

「失礼します」

「ふふ……」

 ブラッドはそんな彼を両手で頬杖を突いて眺めながら、嬉しそうに口角を上げた。フランシスもグレーの瞳を細めて微笑する。主人と執事が向き合って束の間のティータイムを過ごす。こうして主人と使用人が同じ卓を囲んで寛ぐことは通常ありえないが、この類い稀な美少年と繊細な美貌を持つ青年が並ぶ光景は絵画のように美しく違和感がなかった。二人の緩やかで優雅な時が流れていく。

「では、そろそろ私は……」

 束の間の寛ぎに終止符を打ってフランシスは立ち上がった。手早く食器を片付けてワゴンに乗せると、恭しくお辞儀して出口に足を向ける。

「待って」

 その声にフランシスが足を止めて振り向くと、ブラッドが憂いの混じった瞳で彼を見詰めていた。ブラッドは傍に来てフランシスの背後から腕を回すと、頭をその自分より広い背中に預けた。

「ブラッド様……」

「もう少しだけ居て」

 弱い声でそう囁く。

「しかし」

 仕事に戻らなくては、おそらくそう言おうとしたフランシスの声にブラッドの声が重なった。

「時々お前が本当の兄のような気がしてくるんだ」

「……」

 その言葉にフランシスの端麗な眉目が僅かに上がった。ブラッドが続ける。

「時々でいいから、こうして二人でいる時だけ僕の兄さんになってくれないか?」

「私がブラッド様の兄に? 私は何をすれば……」

「“兄さん”て呼ばせてくれるだけでいいから。ごめんね、変なこと言って」

「いいえ」

 フランシスが体を後ろに向け、ブラッドと向き合う。俯くブラッドに向かって

「私でよろしければ」

 そう伝える。ブラッドは顔を上げ、驚愕の瞳でフランシスを見詰めた。

「ほんとに?」

「はい、ブラッド様がお望みであれば」

 フランシスがそう言って微笑すると、ブラッドは「ありがとう」と彼の胸に身を寄せた。

「兄さん……」

 自分のことをそう呼んだブラッドの背中に、フランシスは無言で腕を回した。腕の中のブラッドを見下ろして伏せた瞼とそれを縁取る長い睫毛が、その奥にある瞳に映る彼の感情を隠す。

「失礼します」

 無遠慮なノックの音が短く三回扉に響いた直後、扉が開いた。

「……」

 執事とその主人が抱き合っている姿を目撃してしまった男性使用人は驚愕に目を瞠り、その場で硬直した。彼は引き攣った笑いを顔に浮かべると、何も見なかったように装って無言でそっと扉を閉めた。そして彼がいなくなった直後、閉じた扉に向かってフランシスの鋭い視線が突き刺さった。





 勤務に戻ったフランシスが階下に降りると食堂に先程の男性使用人がいた。彼はフランシスを見るなり、さっそく話しかけてきた。

「見たぞ」と言ってニヤリと笑う。フランシスは無言でその男を冷ややかに見返した。男がその反応を面白がり、いやらしく歪んだ顔でフランシスに囁く。

「さっきブラッド様と抱き合ってただろ?」

「それが何か?」

 冷めた声でフランシスが返すと男はふふっと鼻から笑声を漏らした。自分より背の高いフランシスの顔を下から覗き込みながら、その周りをゆっくりと回り始める。

「お前、女にもてそうな顔してるくせに全然女の影がないからおかしいと思ったら、“ご主人様”とできてたのか?」

 男が冷やかすように顔を覗き込んでくるが、フランシスは表情を変えずに佇んでいる。いつのまにか部屋の片隅には、不穏な空気を嗅ぎ付けたメイドや他の男性使用人達が集まってきていた。何? 揉め事?。フランシスがブラッド様と抱き合ってたんだってさ。嘘〜怪しい。えー、やだぁ。私、すごいショックなんだけど。そんな声が囁かれる中、フランシスは冷ややかに男を一瞥すると

「あんたが考えているような関係ではない」

 冷然とそう言い残して去って行った。





「ねぇ、フランシス。不思議だと思わない?」

 寝室の大窓を覆う深紅のカーテンを少し開けて、夜空に浮かぶ青白い月を眺めながらブラッドは呟いた。彼が父から譲り受けた屋敷は、周囲を森林に囲まれている。そのためかロンドンという大都市の中にありながら、その喧騒から遮断されたように静寂の闇に包まれていた。室内にはほの明るい明かりが広がり、そこにもう一つの人影があった。ベッドに入る前に照明を落としてキャンドルを点けてから眠る習慣のあるブラッドは、最後にその火を吹き消す役目を執事のフランシスに与えていた。ランタンを片手に持ったフランシスが問い返す。

「とおっしゃいますと?」

「僕を銃撃しようとしてきたあの少年は、あれからなんで僕の前に現れないんだろう。おとなしすぎると思わないか?」

「確かに」

 フランシスはあくまでもブラッドの執事としてそう答えた。彼はこの主人を襲った少年の正体を知っている。その少年がブラッドに恨みを持っていることも。その少年の育ての親をフランシスは、もう一つの顔――ウイングスというスナイパーになって殺害した。血の繋がった人間からの裏切りは激しい憎悪へと繋がり、彼を復讐へと走らせた。今度はその彼にも恨みを抱いて、あの少年は命を狙ってくるだろう。そうなることはわかっていた。二人は出逢った時から敵同士だったのだ。この争いに罪のないこの少年を巻き込むわけにはいかない。彼は命を懸けてブラッドを守るために彼の執事(守護者)になったのだった。

 窓の外を眺めていたブラッドは、くるっと振り向いた。

「でもね、フランシス。僕がこうやって彼のことを頭に思い浮かべるってことは――

“もうすぐ現れる”って暗示(サイン)なんだよ」

 彼は月光を浴びて青白く光った顔に、無邪気な微笑を浮かべた。




 いよいよ次回は最終話「ラストシーン」です。来年中にお会いいたしましょ〜(祈願)

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