Scene18.『墓前に捧げるアリア』
このエピソードは、バックでG線上のアリアが流れているイメージで描きました。
鈍色の空に乾いた風が吹く。白い塊が地面を埋め尽くすように並んでいるそこは、この世を去りし者が眠る場所。そこに歩いて来る一人の青年の姿があった。喪服に身を包み、紫色の花束を抱えている。彼はある墓石の前に立ち止まると、長身を折って花束を捧げた。“あなたを忘れない”――という花言葉を持つ紫苑の花束を。
彼は墓前に手を合わせ、心の中で“亡き人”に語りかけた。
母さん、あれはあなたが望んだことではないのかもしれない。あなたは生涯あの男を愛し、愛したまま死んでいったのかもしれない。そちらに逝ったときにその罰を受けます。だからどうか今は許してください。僕に彼を守らせてください。僕の従兄弟を……
青年は持っていた鞄を開けると、中から薄汚れた皮表紙の手帳を取り出した。その頁を開く。
――十月十四日 晴れ。
午後十時、あなたはまたお店に来てくれた。とても嬉しかった。それはあなたがいつも私のピアノを褒めてくれるからじゃないわ。私にマティーニを入れてくれたからでもないの。それはあなたが
その瞳の中に私を映し
その吐息が私を誘惑し
その唇が息もできないほど激しく情熱を奏で
私を溶かしてしまったからなの。
ああ、私はどうかしてしまったのかしら。手帳にこんなことを書くなんて。
でも書き留めずにはいられなかった。
どうしても残しておきたかったの。あなたへの愛も、触れ合った時間も、こうして書き留めて、何度も読む度あなたを思い出したかったの。
記名のないメッセージカード付きの紅い薔薇の花束が届くようになった時から、すでにこの恋は始まっていた。贈り主の姿を何度も想像したわ。そして初めて手渡しで花束をくれたあなたは、想像していた通りの素敵な人だった。
私はあなたが運命の人であってほしい。
あなたと一緒に海を渡りたい。
私はどこへ行っても平気よ。自分のピアノを演奏するわ。酒場でも、コンサートホールでも、ニューヨークでも、アジアでも。どこだっていい。あなたが居てくれるなら、どこでも演奏するわ。小さな楽団でも構わない。規模なんて関係ないわ。愛のない結婚をするのなら、私は小さな楽団長のあなたを選ぶ。
私はもっと別の世界が見たい。この地位と名誉と金欲を鎖で繋いだ親の策略という束縛から、この計略結婚から解き放たれたいの。
だからお願い、私をどこか遠くへ連れ去って。あなたの乗った船だけが、私が有るべき姿になれる場所へと導いてくれる。その手で誘って、私のプリンス。
我が愛しのカドマス
文面をすべて読み終えると青年はそっと頁を閉じた。瞼を伏せて短い息を着く。手帳を鞄に戻して彼は立ち上がった。そして墓前に背を向けて歩き出す。
鈍色の空の下で、彼の風になびく金糸のような頭髪と氷上を思わせるグレーの瞳が、静かにそこに色彩を差していた。




