第2部 * 1 *
ショーコは立ち上がり、畑の土にまみれた軍手の両手を拳にして、5月の午後の青く晴れ渡った空に突き上げ、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んでから腕を下ろして、痛くなった腰をトントン。
視線を軽く下に向けると、1メートルほど先に、しゃがんで小さくなり黙々と作業を続ける白いシャツの背中。手を動かす度、薄手のシャツを通して筋肉が動くのが見える、まだまだみるいが、あと数年後には慎吾そっくりになると容易に想像できるまでに成長した、貫太の背中。
暫し、しみじみと眺めてから、ショーコはしゃがみ、作業を再開した。
今日の午後の最後の作業は、スイカ苗の植え付け。本葉5枚から6枚ほどに成長したスイカ苗を3号ポリ鉢から出して、土を浅く掘った穴に置き、苗が動かないよう根元に土を被せる作業だ。
貫太と清次を両腕に抱えてタークたちから必死に逃げ回ったあの夜から、10年半。
ショーコたち母子は、住む人のいなくなった慎吾の母の実家を自宅とし、自宅前の細い坂道を徒歩1分ほど下った突き当たりにある隣家・中村家の農作業を手伝い、その報酬として、収穫した作物や、その作物を物々交換して得た品物を分けてもらうことで、生活していた。
ショーコが、ふと顔を上げると、少し離れた場所で作業していた中村家の奥さん・政枝と目が合う。
政枝は、シワだらけの顔の中に埋まった小さな目で、明るく笑んだ。
ショーコは、中村夫妻には本当に感謝している。現在、中村家で働かせてもらい生活できていることについてはもちろん、10年半前、タークから逃げた末に道路に倒れていたショーコたちを、偶然、車で通りかかって発見し、助けてくれたのは、中村家の主人・明夫なのだ。出たままの状態だったショーコの背の黒い翼については何も聞かず、ショーコの傷が完全に癒えるまで親切に看護してくれ、行くあてが無いと知ると、慎吾の母の実家に住むよう提案し、住めるよう修繕してくれ、生活していく手段として自分の所で働くよう勧めてくれた。その後も、貫太や清次が病気になった時や、日空界の進攻に伴い電気・ガスが使えなくなった際など、親身になって相談に乗ってくれた。中村夫妻がいなければ、これまで生きてこられなかった、と言っても、大袈裟ではない。
「バアバ! 」
ショーコの後ろ方向から、張りのある若い女の子の声。
そちらを向いた政枝は、大変驚いた様子でピタッと動作を止め、口をポカンと開く。それから、その驚きのあまり意識が何処か遠くへ行ってしまったような表情のまま、まるで何かに操られているかのように、体全体をそちらに向けつつ、フラリと立ち上がった。
(……? )
ショーコも、つられて振り向くと、20メートルほど向こうの道路に、ショーコたちが作業をしている畑のほうを向いて立ち、政枝に大きく右手を振っている、貫太と同じ年頃の、大きな荷物を背負った少女。
少女は振っていた腕を下ろし、
「バアバ! 」
三つ編みにした長い髪を揺らしながら、笑顔で政枝のもとへ駆けて来、抱きつく。
「有実! 」
政枝は、いつも作る明るい笑顔とは、また違った、自然な輝きを持つ笑顔で、両腕を伸ばし、少女を背中の荷物ごと受け止めた。
(有実……? )
政枝の口から出た少女の名を聞き、ショーコは、すぐに思い出した。
(ああ、あの有実ちゃん! )
中村夫妻の孫娘・有実。ショーコの記憶の中の有実は、5歳。慎吾と過ごした最後の夏に会った時の姿だ。当時、慎吾の祖父母は既に亡くなり、慎吾の母の兄……もう長いこと、少なくても、ショーコたち母子が明夫に助けられた日には既に音信不通となっていた慎吾の伯父が、仕事があるために他の町に暮らしながら、実家を管理していた。水も空気も綺麗で緑の豊かな土地柄。今時の子供は連れてきてやれば物珍しさで喜ぶだろうから、貫太を連れて別荘代わりに遊びに来ればいい、との伯父からの誘いを受け、貫太の幼稚園の夏休み中に、たまたま慎吾も、まとまった休みを取れたため訪れた際、中村夫妻のもとへ同じく夏休みで両親と共に遊びに来ていた有実と、出会ったのだ。歳の近い貫太と有実は、すぐに意気投合し、川遊びをしたり、森へ虫とりに行ったりと、滞在していた5日間、いつでも一緒に、とにかく飛びくりまわっていた。
現在の有実は、その頃の有実をそのまま大きくしたような感じだ。長い三つ編みの髪もそのまま。今、政枝に向けている笑顔も、当時まだ全然目立たなかったショーコの腹に手を当て、ショーコを見上げた時に見せてくれた笑顔と、全く変わらない。
「バアバの家に、泊めてくれる? 」
有実の言葉に政枝は、孫との再会を喜ぶ単純な笑みを消し、
「それは、もちろんいいけど……」
心配げに眉を寄せた。
「何が、あったの? 」
現在ショーコたち母子が自宅としている慎吾の母の実家や中村夫妻の家がある、この辺りと、有実の自宅は、一応、同じ市内だが、車で移動したとしても1時間半はかかり、遠いと、昨年末、ショーコが政枝を手伝い、中村家の物置を整理していた際に、古い人形のホコリを愛しげに、そっと手のひらで払いながら、政枝がそう言っていた。
公共の交通機関が存在しない、ヒッチハイクをするにも一般の車も走っていない今、ちょっと遊びに来た、というような距離ではないはずで、実際、ショーコがこの地で暮らすようになって以降、ショーコの知る限り、有実は1度も中村夫妻の家を訪れていない。……何か、深刻な事情があるに決まっている。
政枝の問いに、有実は、政枝の腕から身を起こし、
「あのね……」
表情を曇らせた。
ショーコは、自分や貫太がいては話しづらいのではと考え、まず、政枝と有実のほうをハッキリと気にしつつも作業を続けていた貫太に、視線を送って意見を求める。
頷く貫太。
それを受け、ショーコは立ち上がり、政枝に、外そうかと声をかける。
しかし、有実が笑顔を作って首を横に振り、明るい口調でショーコに、
「オバサンのこと、憶えてますよ」
次に貫太を見、
「カンちゃんのことも」
貫太も立ち上がって有実を見、ちょっと、はにかんだ様子で、
「僕も憶えてるよ。有実、ちゃんのこと」
それを聞き、ショーコは、憶えてる? 怪しいなあ……、と思ったが、言わないでおいた。
有実は、淡々と事情を説明する。
ショーコが現在の地に落ち着いた半年後、日空軍が首都陥落に成功し、その後、陥落した首都を拠点に全国各地の大きな都市を次々と襲い手中に収めてきたことは、全国に広がるカラスたちの情報網・カラスネットワークの情報により、ショーコも知っていた。また、同じ市内の市街地が日空軍の被害に遭ったことも、昨日の最新情報で知り、場所が場所なだけに気にしていた。その市街地というのが、有実の自宅のある場所だったらしい。昨日の朝、自宅に家族でいたところを、突然、日空人に襲われ、両親の機転でトイレに隠された有実を残し、両親は日空人に連れ去られたそうだ。
「…そう、大変だったねえ……」
政枝が気遣うように言った、そこへ、聞き慣れた金属音。明夫の荷車の音だ。収穫したジャガイモを積んで物々交換に出掛けていた清次と明夫が、荷車を、明夫が前で引っ張り、清次が後ろから押して、帰って来たのだ。
明夫の姿を見つけた有実は、
「ジイジ! 」
体ごとそちらを向いて、先程と同じく大きく手を振る。
明夫は、いきなり荷車から手を放した。
重心の狂った荷車を咄嗟に支え、安全に固定しながら、
「危ねえよ、オジサン! 」
文句をたれる清次の声など、全く耳に入らない様子の明夫。信じられない、といった表情で歩を進め、有実の正面まで辿りつき、驚きのためか、
「有実、か……? 」
掠れた声で言う。
横から政枝が事情を説明した。
説明を聞きながら、明夫は次第に下を向き、一通り聞き終えたところで、
「だから、さっさとこっちへ来てればよかったんだ! 都会は危ないって、あれほど……! 」
吐き出すように言う。
政枝、気遣うように明夫の肩に手をのせ、
「お父さん……」
明夫は深く息を吐きつつ軽く首を横に振ってから、顔を上げ、有実に向けて笑顔を作った。
「よく、ジイジとバアバのことを思い出して、頼ってきてくれたね。嬉しいよ」
有実は笑顔で応えてから、こちらへ歩いてきた不機嫌丸出しの顔の清次に目を留め、ショーコに、
「もしかして、あの時、お腹の中にいた赤ちゃん? 」
ショーコが頷くと、清次に、
「名前は? 」
清次は、突然自分に話を振られ、少々面食らったようすで、
「き、清次、です」
有実は、
「『清次です』だってー」
実に楽しそう。自分と大して背丈の変わらない清次の頭を撫で撫でしながら、
「お腹の中にいた赤ちゃんが、もう、こんなに大きくなって、自分の名前、言えるんだ! 」
嫌がって、その手を乱暴に振り払う清次。
貫太が笑いながら、清次と有実の間に割って入った。
明夫が、
「あ 」
思い出した、といったように声を上げ、ショーコに、
「ショーコちゃん、今日はちょっと珍しい物が手に入ったんだよ」
言ってから荷車へと歩き、その隅、むしろの陰に置いてあった大きな布袋を手に戻って来、地面に置いて、縛ってあった袋の口を解き、中から、調味料や肉など、運ぶのに容器が必要な物が手に入った時のために、物々交換に出かける際には常に持ち歩いている大きめのタッパー2つを取り出し、得意げにフタを取って見せる。
中に入っていたのは、それぞれに肉の塊1つずつ。普段、目にする干し肉や塩漬け肉ではなく、生の豚バラ肉。
ショーコは驚いた。
その表情を見て取ってか、明夫は得意満面で、今日の物々交換の相手である養豚農家を訪ねた時、丁度、処理した肉の塩漬け作業中で、まだ漬け込んでいない肉もあったため、たまにはと、漬けていない物をもらってきたのだ、と説明。それから、2つの肉の塊のうち大きいほうが入ったタッパーをショーコに差し出し、
「ほら、こっちがショーコちゃんとこの分」
ショーコは初め、生の肉など滅多に手に入らないものを、こんなにたくさん貰うわけにはいかない、と、遠慮したが、食べ盛りの男の子が2人もいるんだから当然だ、自分の所が農業で生計をたてていけているのはショーコちゃんたち母子の若い労働力のおかげなのだから遠慮する必要などない、と押し切られ、
「ありがとうございます」
有り難く受け取った。
*
まだ日のあるうちに作業を切り上げて自宅へ戻り、洗濯物を取り込んで畳み、夕食の仕度をして食べ、後片付けをし、風呂を沸かして入り、それらが終わり次第、夜更かしをせずに、さっさと寝る。それが、灯りを貴重な植物性搾り油の灯油を燃料としたランプに頼っている現在の、生活パターン。
その代わり、朝は早い。夜明けとともに起き、朝食の仕度をして食べ、洗濯をして干し、家の掃除をして、中村家へ農作業を手伝いに行く。昼食時には一旦、自宅へ戻り、昼食の仕度をして食べ、布団を干した日には取り込んでから、再び中村家へ。
電気もガスも無い生活になった当初、家事がとても大変に感じ、それまでの電気・ガスのある生活が、いかに便利で恵まれたものであったか思い知らされた。しかし、もう慣れた。便利でなくなった代わりに、家族で協力することの大切さを知った。電気・ガスがなくなった当時、貫太は8歳、清次は3歳。3歳児には、さすがに無理だが、8歳の子供に出来ることは、たくさんある。と、言うより、たとえ8歳の子の力でも、借りなければ、生活が成り立っていかなかった。そして現在、貫太は16歳、清次は11歳。2人とも成長し、手先が器用に、腕力もついて、貫太はショーコ以上に立派に、清次もそこそこ、家事をこなす。電気・ガスなどなくとも、皆で分担すれば、何の不便もない。
中村家でもらった豚肉は、せっかくの無加工の肉の風味を存分に味わうため、5ミリほどの厚さにスライスし、焙って、軽く塩を振るだけでいただくことにした。
かまどでの調理は、初めは失敗ばかりだったが、要領を掴んでからは失敗は無い。
ショーコと貫太が土間になっている台所にサンダル履きで立ち、夕食の仕度をしている間に、清次は洗濯物を取り込んで畳み、風呂に水を張って、後で沸かす時間が短くて済むよう、一度、沸かしておく。
有り難いことに水道は、この辺りの地域では、もともと沢の水を管で引いてきて使用しており、現在も変わらず、台所の流し、風呂場、多目的に使う外水道、家中どこの蛇口をひねっても、水が出てくる。電気・ガスが無いことには慣れ、不便を感じてないとは言え、水まで何処かに汲みに行かなければならないとしたら、どんなに大変だったろう。
夕食の仕度を終え、3人揃って食卓を囲む頃には、日が暮れ、家の中では灯りが必要になる。
台所と台所から見て一番手前の部屋との境は障子、一番手前の部屋と真ん中の部屋との境は木製の格子のついた磨りガラスの引き戸、真ん中の部屋と一番奥の部屋との境は襖、と、それぞれごく薄い戸に隔てられているだけで一直線上に並ぶ畳の部屋3部屋のうち、手前の部屋のちゃぶ台の上のランプに火を灯し、3人で食事を運んで、ショーコはちゃぶ台の、台所側から見て右側の1辺、貫太は奥の1辺、清次は手前の1辺、と、定位置に座り、3人で声を揃え(清次の声は小さめだが)、
「いただきます」
特に揃えようとしているわけではない。3人で運び、ちゃぶ台の前に同時に腰をおろすため、自然とそうなる。
ショーコと貫太にとっては久し振り、清次にとっては、おそらく物心ついてから初めて食べる、無加工肉。その味を、ショーコは無言になってしまいながら味わった。……このジューシーさと甘みは、干し肉や塩漬け肉には無いものだ。
貫太と清次も、無言。1口噛みしめた途端、顔がほころび、ホウッと溜息がもれる。
2人して全く同じ反応を、しかも同時にした貫太と清次に、ショーコは思わず笑ってしまいながら、そう言えば、と、口を開いた。
「カンちゃん、本当に有実ちゃんのこと、憶えてたの? 」
貫太は、あっさりと、
「ううん。憶えてなかったよ。ついさっき、何となく思い出したけど」
ショーコは、やっぱり、と笑いながら、
「カンちゃんは優しいね」
すると、清次が怒ったように、
「って言うか、ただのお調子者だろっ? 」
口を挟む。
「本当に優しさのつもりでも、いらねーよ! あんな変な姉ちゃん相手に! もったいねえっ! 減るぞっ! 」
その言葉に対し、貫太は目を瞑って両手のひらを自分の胸にあて、
「大丈夫。僕の優しさは無尽蔵だからっ」
冗談。
ショーコも、からかい口調で、
「キーちゃん、さっき有実ちゃんに子供扱いされたこと、まだ怒ってるの? 」
清次は、
「当たり前だっ! 」
即答。
現在、学校などというものは存在しないが、もし存在し、通っていたなら、清次は小学生、有実は高校生。そう考えると、有実から見て清次は本当に子供なのだから仕方ないのに、と思ったショーコが、同じことを思ったに違いない貫太と顔を見合わせて笑っていると、清次は、ますます怒り、プウッとふくれて黙り込んで、夕食をかっ込み、
「ごちそうさま! 」
さっさと席を立ち、ちゃぶ台の上のランプの火で、別の小型のランプに火をつけ、それを手に、
「オレ、風呂の湯加減、見てくるっ! 」
腹立ち紛れにか足音荒く、台所方向、風呂場へと去って行った。
今のような暖かい季節、風呂は、夕食前の時間帯に一旦、熱めに沸かしてしまえば、沸かしなおす必要が無いことが多い。今日も必要なかったため、ジャンケンで順番を決め、食後、すぐに入り始めた。
今日の順番は、清次、ショーコ、貫太。全員の風呂終了後、すぐに寝れるよう、風呂の順番を待っている間に、今日は貫太が食事の後片付けをし、ショーコが、食事をする部屋の2部屋向こう、寝室として使っている一番奥の部屋に3人分、3組の布団を並べて敷いておいた。
そして、全員が風呂を済ませた後、電気があった頃では考えられないような時間に、ショーコを真ん中に右に貫太、左に清次、と、それぞれ布団に入る。




