終章
目を開けた時、最初に見えたのは、板張りの天井だった。
俺は、取り敢えずゆっくりと起き上が――
「……痛ッ」
――ろうとして、たちまち全身に痛みが走る。だが、立てないというほどでもない。
痛みを無視して身体を起こし、辺りを見回す。がらんとした部屋の隅に転がっているのは、兼義のガラクタが入っていた麻袋。……どうやらここは、東殿のようだ。
「……気がついたようじゃの」
その時、後ろで声が聞こえた。振り返ると、今部屋に入ってきたらしい兼義と目が合う。
「……なにが……どうなったんだ?」
「なんじゃ、なんも覚えとらんのか?」
兼義にそう言われ、気を失う前の記憶を掘り起こす。
…………そうだ。俺は月詠の儀を止めようと、飛鳥や隼人と一緒に屋敷に乗り込んで……
――落下する、まゆの身体。
「……っ! まゆ! まゆは、まゆはどうなったんだ!?」
俺は、すべてを思い出し、兼義に詰め寄った。
「まあ、落ち着け。巫女様なら大丈夫じゃ。今は、風に当たっておられる」
「そうか……。生きてる……んだよな?」
「うむ、無事じゃよ。おぬしの望んだ通り月詠の儀は中止じゃ。あの杖が巫女様を苦しめていたとわかった今、月詠の儀を執り行う理由もあるまいて」
…………良かった。これで、まゆは――
「それにしても」
兼義は言葉を続ける。
「おぬし、あの杖の正体がよくわかったの」
自分でも、それは思う。それほど際どく、運任せな推論だったのだ。
「…………俺は昔、しに――烏衣神に殺されかけたことがあってな。それ以来、他者の魂の動きを感じ取るっていう不思議な力を得たんだ」
「ほう?」
「普通なら、幽霊の魂が成仏したり、消滅したりする時なんかに反応するものなんだが……」
「儀式の舞の時、周りに成仏しとる魂がないにもかかわらず、それが反応したと」
「そういうことだ。それも、鈴の音が鳴るのと同時にな。だからピンと来たんだよ。あいつが弱ってるのは、玉梓がまゆの魂を削ってるからじゃないかって」
「ふむ……。じゃが、よくもそんな大それたことを思い付いたもんじゃな。魂を削り取るなど、それこそ烏衣神様にしかできぬ人智を超えた力であろう」
「まあそれについては、爺さんの言ってた話を思い出してな。ほら、儀式の前、あんた言ってただろ。玉梓は巫女の力を導くためのものだって。よくよく考えたらあれ、巫女の力って、結局は烏衣神の力のことなんじゃないかって思ったんだよ。鈴の音が烏衣神の力を活性化させてるんじゃないかってな」
「なるほどのう……」
「ここからはあくまで俺の勝手な推測だが。おそらく魂鎮めの舞は、妖の魂を成仏させてるわけじゃない。鈴を何回か鳴らすことで、巫女に宿っている烏衣神の力を引き出し、妖の魂を刈り取ってたんだ。それも、巫女の魂と一緒にな」
「ふむ……」
兼義は、何やら考えるように顎鬚を撫でた後「烏衣神様の力をのう……」と呟く。
「まさか、そのような所業をあの杖がしていたとは、全くもって思いつかなんだ。一介の道具たるものが、いかにしてそのような力を手に入れたのか」
「そう……だよな。一体誰が、あんな杖を作ったんだろう」
「さあのう。いつ、誰が、何のために、あのような杖を作ったのか。それはおそらく、作った本人以外誰にもわからんじゃろ。こうなることを意図していたのか、はたまたただの偶然か。ま、それも昔の話。今となっては知る由もないわの」
兼義は「ほっほっほ」と、とくに頓着することもなく笑う。
「でもそれ……なんか悔しいよな。だって、そいつがこうなることをわかってたとしても、俺たちにはどうしようもないわけだろ」
「そういうことじゃな。じゃがの、渉。勘違いをしてはならんぞ」
「勘違い?」
「うむ、そうじゃ。たとえ玉梓が、人の悪意によって作られたものであったとしても。長きにわたってその恩恵を授かり、害悪に目を瞑ってきたのは、わしら人間じゃ。本当なら、もっと早くに気付いても……いや、もっと早くに気付くべきことだったんじゃよ。ただ、その恩恵に目を奪われ、知らず知らずのうちに、玉梓の及ぼす害悪に対して見て見ぬふりをしてきただけじゃ。巫女の力を高める玉梓の杖が、巫女に対して害を及ぼすはずがないとな」
結局は、これも逃げなんだよな……。自分に都合の良い所だけ見ようとして、都合の悪い部分については考えることを止める。思考停止と責任転嫁。それは、俺も含めて誰もがしようとすることだ。その方が楽だから。現実を直視するのは怖いし疲れるから。
「おぬしはよい眼をしておる。それは、つまらぬ偏見にとらわれることなく、物事の本質を見ることのできる眼じゃ。だからこそわしは、おぬしになら巫女様を任せることができると思ったんじゃ。よいか、渉……その眼、決してなくすでないぞ」
爺さん……もしかしたら、薄々気付いていたのかもな。最初から事の顛末まで、こういうことになるってことを。だから――俺に、そう動くように仕向けたんじゃ……。
「ところで渉よ。その巫女様についてのことじゃが」
少し声を落ち着けて兼義は言う。
「まあ、もう知っておると思うが、巫女様には烏衣神様が宿っておられる」
「ああ、それは知ってる」
「じゃがの、殿守をはじめ、そのことを知る者はほとんどおらんのじゃ。特に、村の民たちは、巫女様が月詠の儀でその命をささげることによって、烏衣神様のお怒りを鎮めていると思い込んでおる。じゃが、現に巫女様はまだ生きておるわけじゃ。これが何を意味するかわかるかの?」
つまり、俺たち以外は巫女が死ぬことで、災厄を押さえられると思っているのだ。だが、その巫女は今死んではいない。つまり……
「巫女が生きてると村の人たちに知れたら、村に混乱が起きると?」
「……ま、混乱程度では済まんじゃろうの」
兼義は一つ頷き、
「このごろの世の中では、世も末だ、などと言い出す者も多かろうて。そのようなことは誰の本意でもないからの。じゃから……」
言葉を仕切り直すように、厳かさをもって言う。
「よいか渉よ。今日この時をもって、巫女様は死んだ。月詠の儀は滞りなく行われ、朔の禍刻は回避されたのじゃ。ゆえに、この社殿にはもう、巫女と呼ばれる存在はいやせん。だからの、渉よ……」
そこで兼義は一呼吸おき、
「娘を――まゆを連れて、どこへなりとも行くがよい」
「それって……」
「あの娘の願いを叶えてやれるのは、この世に何のしがらみも持たぬおぬしだけじゃよ」
そう言った兼義の目は……それこそ、何もかもを見通しているように見えた。
今この爺さん、この世にって……
「ほれ、さっさと行かんか。まゆなら、もう月詠殿からは出たが……ま、おぬしならどこに行ったかわかるじゃろ」
今、兼義「まゆ」……って。知ってたんだな、その名前。
俺は、そのことに少しだけ感激しつつ、東殿を後にした。
別れの挨拶は要らない。この場所には二度と戻ってこないだろうが、俺はそう思った。
見つめるのは、自分の目の前の道だけで充分だ。
「……やっと来たか」
門の前に一つ、見知った姿があった。
「祇鶴……」
長身の男は、いつもの仏頂面で、いつものように腕を組み、刀を携え。門の柱から、預けていた背中を離す。
「貴様には、つくづく驚かされる。最後の最後まで、よくもまあ我らを振り回してくれたものだ」
「俺も、そんなつもりはなかったさ。俺はただ、夢中で……気付いたら、そうなってた」
最初随身になった時は、こんなことになるなんて想像もできなかった。本当に――本当に、色んなことがあって。悩んで、苦しんで、走り回って、考えて、戦って。
そうしてやっと、ここまで辿り着けたんだ。
「そうだ、祇鶴。この刀、ずっと借りっぱなしだったよな」
腰から鞘ごと刀を外し、祇鶴に差し出す。一切の装飾が無い、漆黒の鞘。質実簡素な拵え。だけどこれは、俺と共にずっと、戦ってきてくれた。
ただの一度も、折れることなく。刃零れすら、することなく。
そんな刀を、祇鶴は見つめ、
「……それは、貸しておいてやる」
「え……?」
祇鶴は、表情を変えることなく、いつものように淡々と言う。
「貴様には巫女様を守る役目があるだろう。刀を振るうしか能のない貴様のこと。並みの鈍刀程度では、貴様の武器は務まらん」
相変わらずな、皮肉交じりの口調。だけど俺は、
「ああ、……ありがとう」
自然と、そんな言葉が出た。
「これも巫女様のためだ。いつか……必ず返せ」
そう言うと、祇鶴は遠い目で空を見た。
「私も――貴様のような生き方がしてみたいものだ」
「……え?」
「いや、なんでもない」
祇鶴は首を振り、門の外へと足を向ける。
「……来い」
無言で遠ざかる祇鶴の背中を追い、俺は月詠殿を後にする。
そこは、山頂に続く森の中の道。木々の隙間から木漏れ日が差し。
そして――森の先。
遠くに、坂道が見えた。
あの坂を上れば、きっと――……
「この先に、巫女様はいる」
祇鶴は足を止め、視線で道の先を指した。その先にあるのは――まゆと初めてあった、菜の花畑だ。
「……お前は、行かないのか?」
「残された者には、残された者の役割がある」
そう言って、祇鶴は、踵を返す。
「巫女様はもう、門出を済ませた。あとは――貴様だけだ」
――もう役割は済んだ、とでも言うように。
「行け。巫女様が待っておられる」
遠ざかる背中から聞こえてきたそれが、祇鶴の最後の言葉だった。
「……世話になった。皆にも、そう伝えておいてくれ」
返事はない。だが――それでいい。
俺はもう、振り返ることはしない。
ただ、前だけを見つめて坂を上る。
その先の未来に……想いを馳せて。
丘を越えたその先に広がるのは、一面に広がる菜の花畑。
その中にぽつんとある白椿の樹の傍に立ち、まゆは、無数に咲いた白い花を静かに見つめていた。
今は……あの時と真逆。
俺のいた所にはまゆがいて、まゆのいた所には俺がいる。
それにあの時は夜だったが……今は朝だ。
「……まゆ」
俺は樹の下に佇む少女へと声をかける。
瞬間、振り返って俺の姿を見るなり、まゆはパッと顔を明るくした。
「身体は……大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
まゆは頷き、そっと両手を胸の前に持ってくる。
「兼義さまから聞いたんだ。わたしの烏衣神さまと――杖のこと。渉くんが戦って、玉梓を壊してくれたって」
そうして、一言。
「――ありがとう」
それだけで、俺は。今までの全てが報われた気がした。
まゆに出会って良かったと、心の底から思うことができた。
「いこっ」
そしてまゆは、手を差し伸べてくる。宴の夜の、神奈備に立つまゆの姿が景色に重なった。
「もう……いいのか?」
「うん。みんなには挨拶済ませてきたから。殿守の人たちにお別れを言えないのは残念だけど、仕方ないよね」
殿守たちは、おそらく何も知らない。誰が月詠殿に侵入したか。そして、玉響の巫女が本当はどうなったのかも。
真実を知っているのは、兼義と、祇鶴と、おそらくは迦倶夜だけなのだろう。だが……それでいいと思う。知らない方が幸せなことだって、きっとあるだろうから。
「……じゃ、行くか」
「うん」
そうして俺たちは。坂道の向こうへと踏み出そうとして――
「……おーい!」
「……わったるー! まゆー!」
その時。後ろから、よく知った声がした。坂道を登ってくるのは、隼人と飛鳥だ。
「二人とも、無事だったか!」
「よく生きて帰ってこれたわよね~」
二人は俺の姿を見つけると、こっちの方へ駆け寄ってくる。
「それよりも渉……」
「お、おう……なんだ?」
飛鳥は腰に手を当てて、説教でもするような口調で言う。
「ったく、ひどいじゃない! どうして私たちに何の報告もないわけ!? こっちがどれだけ心配したと思ってるのよ!」
「おい、飛鳥」
「あ……その。悪かった」
俺は素直に頭を下げる。
「俺も、まゆも。この通り無事だ。お前らのおかげだ。……ありがとう」
そうしてまた、もう一度頭を下げた。
「何よ、あんた随分丸くなっちゃって」
飛鳥は、ふぅと息を吐き、それから仕切り直すように、
「さ、二人とも行くわよ!」
「え?」
「お前らも、来るんじゃねえのか?」
「そうだな……」
――四人で旅をする。一度も口に出して言ってはいなかったが、それはもう確定事項のようだ。まゆを助けると決めた時から、そう決まっていたのだろう。
二人は先へと進み出す。登ってきた道ではなく、その先の坂道を。
二人の背中を追いながら、俺は隣を歩くまゆをちらっと見て――
「おい」
「?」
「お前はもう、巫女じゃなくなったんだよな?」
「うん……」
「ということは。俺はもう、お前を守る必要はなくなったわけだ」
「え?」
「だってそうだろ。俺は、玉響の巫女の随身だったわけだからな」
「うぅ……」
悲しそうな顔をするまゆ。俺は、そんなまゆの首に――
「あ……」
「だからこれは、まだお前に貸しておく。俺はもう、玉響の巫女の随身じゃない。だからこれからは……お前の随人になる。これはその再契約の証だ」
――その時。
森が開けた。
そこは、山の頂上だった。坂道の終端であり、新たな道の始まりであり。
眼下に広がるのは、新しい村々の景色。
――新しい、世界。
「神さまは……いるんだよね」
「え……?」
「ううん、なんでもない」
そう言って笑うまゆの笑顔は、一点の曇りもなく。本当に、心の底から楽しそうだと思えるもので。
「お~い! 渉~! まゆ~!」
「早くこねぇとおいてくぞ~!」
先を行く二人は、下り道の入口から声をかけてくる。
「うん、今いく!」
二人の声に、まゆは応えて、
「行こっ」
差し伸べられる、少女の手。それを掴んで、先へと歩き出して。
少女は舞う。巫女ではなく、只人となった少女は。
新たな世界に――舞う。




