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 思い返せば、本殿に足を踏み入れるのは初めてだった。

 正面にある閉ざされた重厚な扉を押し開き、中へと入る。扉から入る光で僅かに照らされたその空間に、扉の軋む音だけが、虚しく反響した。

 ガタンと、扉は音を立てて閉じられ、本殿の中は、ほとんど完全な暗闇に包まれる。僅かに開けられた蔀戸の隙間から仄かに漏れる外の光だけが、ぼんやりと辺りを照らしている。

 本殿の中は、ほとんど何もなかった。

 そこにまゆが暮らしていたという形跡はもはや見て取れず、空虚ささえ感じさせるその場所の中央に、唯一。

 少女が、ぽつんと立っていた。

 ……巫女服の白衣。踝まで裾のある純白のそれを一枚だけ身に纏い。

 本殿の奥――神奈備へと続く扉の方を見つめ、少女は静かに立っている。

 覚悟は決めた。

 そのはずだったのに。まゆの姿を見ると……どうしても、決意が鈍りそうで。

「ずいぶんと、殺風景だな」

 だから俺は、胸の痛みを誤魔化すために、無理やり口を開いた。

「……もう、残すものは何もないから」

 返ってきたまゆの声は、いつも通り。

 まったくいつも通りの声で、そう言った。

「空がもう少し白み始めたら……わたしは神奈備で、最期の舞をする。でもその前に、この身体をお清めしなきゃいけないの」

 そうして語るまゆの表情は、見えないけれど。

 それでも。暗闇でもわかるほどに凛とした後姿からは、まゆの覚悟が、痛いほどに伝わってきた。

「渉くん」

 そう言ってまゆは、身体ごと顔を、こちらへ向ける。

 その表情は、本当に普段通りで。……あまりにも普段通りの――無垢な笑顔で。

「禊ぎ――お願いしてもいいですか?」

 まゆは、静かに頭を下げた。

「…………ああ」

 全部わかっていたはずなのに、それでも、答えを返すのに少しばかりの時間を要した。だが俺は、頷かなければならない。それは、まゆの意志を守り、せめてもの願いを叶えてやるため、俺ができる唯一のことだから。

 まゆは、顔を上げて背中を向けると、す――と静かに腰を下した。

 微塵も音を立てず板張りの床に座り、少し躊躇ってから、衿元にそっと手をやって――

 ――するり、するりと。

 自らの腕を、片方ずつ服の袖から引き抜く。

 ――すとん。

 少女を包む白い布は、呆気なく。腰のあたりまで、落ちた。

 上を隠すものがなくなり、少女の肢体が露わになる。

 それは、遠い満月のように清らかな白を湛え。

 触れれば壊れてしまいそうなほど、脆く、儚く。

 だけど――その静謐さを塗りつぶすように。

 背中にはっきりと刻まれているのは――漆黒の刻印。

 それは、流麗でありながら禍々しい紋様だった。肩の下全体にかけて左右に広がりを見せるその中央は、模様の入った果実のようにも見え。左右には、翼とも鎌ともつかない、鋭い曲線を描いている。

 自分とは比べものにならない大きさのそれを見ただけで……まゆに、どれほど強力な死神が宿っているのかを、理解することができた。

「その……あんまり、見ないでね?」

「そうは言うが、見なきゃ禊ぎ出来ないぞ?」

「うぅ……」

 暗い場所でもはっきりとわかるほどに頬を染めて恥ずかしそうに言うまゆに、俺は努めていつも通りの調子で返す。それは、月詠殿で何度も行ったやりとりと同じもので。だから俺は、そんなまゆの様子に……少しだけ安堵を覚えた。

 本殿の中にあった唯一の調度から布を手に取る。水に濡れた、禊布。それを手に――そっと。少女の背中に触れた。

「なぁ、まゆ」

 俺は、静かに声をかける。僅かに体が震えたのは、布の冷たさのせいなのか。

「その……。ありがとな」

 その肌にそっと触れた掌から、ほのかな温かさが伝わって。

 そのぬくもりで。俺は、まゆがここにいて、生きているというのを感じることができた。

「俺さ。やっとわかったんだ。まゆが……言ってたこと、俺に言おうとしてくれてたこと」

 濡れた布を肌に滑らせ、俺は、少女の背中を丁寧に拭ってゆく。

 禊ぎなんて、残酷な行為だと思う。水に濡れた布は、ただただ少女の体温を奪うばかりで、何も与えてくれはしない。

「ほら俺、言い訳ばっかりで、すぐ逃げるとこあるから。お前の言葉、すぐには理解できなかった。理解しようともしてなかった。まゆの言ってることが正しいってわかってて……でも、向き合うのが怖くて、目を背けてた」

 何もかもを誰かの、何かのせいにするのはとても簡単なことで。だけど、そんなことをしても何にもならないのだ。

「でも……もう大丈夫だ」

 兼義に諭され、飛鳥や隼人と喧嘩して、もう一度しっかりと話をして。そうしてようやく……

「人は、一人じゃ生きられないってこと。俺、やっと気付けたから。俺はもう……一人じゃないから。ちゃんと、俺の居場所、できたからさ。だから――」

 俺は、徐々に体温を奪われていくまゆに、せめてもの温かみを届けてやろうと。溢れそうになる何かを必死で堪えながら、精一杯の笑顔で言った。

「安心して――行って来い」

 どれだけ残酷な現実でも。

 もう目を背けたりしない。逃げたりしない。

 俺は、そう誓ったから。

 最期の最期まで目を逸らさず、きちんと言葉を伝えなければならない。

 …………しばらくの間、まゆは、何も言わなかった。

 濡れた禊布がまゆの肌を滑る音だけが、この場を満たす。

 やがてまゆは――


「…………いやだよ……」


「え……?」

 今にも消えてしまいそうな声で、そう呟いた。

「……わたしも一緒に、いきたいよ…………」

 その姿は、俺の知る、妙ちくりんで夢見がちな、いつものまゆとは違うもので。それは……俺がずっと目を背けていた、まゆのもう一つの姿なんだと。

 今更に、本当に今更に……理解した。

「あはは……。おかしいなぁ。こわくなんて、なかったはずなのに。もうすぐ死ぬんだってわかったときだって、こわいって思ったりはしなかったのに……なんでだろう」

 それは、問いであって問いではなくて。それはあまりにも静かな、言葉の慟哭。

 だというのに、俺は。そんなまゆに対して、何も言葉が出なかった。

「渉くんに出逢って、色んなお話して、初めて……外の世界を知って。そしたら、いつの間にか……こわくなってた。死ぬのが……ううん、みんなと――渉くんとお別れするのが、こわい。こんな日々が終わってしまうのが……こわい」

 ……一体、何と言えばいいのだろう。

 ただ死にゆく人間に、それをただ黙って見ているしかできない人間が……一体何を言えばいいのだろう。

 辛いはずなのに、まゆは。それでもいつも、ただただ、笑顔浮かべるだけで。それは、まゆの覚悟と努力の表れで。

「なんでだろう。なんで、わたしなのかな。どうして、死ななきゃいけないのかな。なんで……渉くんと一緒にいたら、だめなのかな……」

 ……だけどもう、その声は。今にも崩れそうなほど脆く、

「こんなことだったら……」

 まゆは、一つ。重ねた言葉に終止符を打つように、


「……わたし、生まれてこないほうがよかったのかな」


 頭が真っ白になった。

 何を言っているのか、わからなかった。

「なんでわたし、こんななんだろう。なんで、みんなを傷つけるような、こんな、わたしなんて――」


「まゆ――!」


 ――抱きしめた。

 夢中だった。自分が何をしているのかも、よくわからなかった。ただこれ以上、まゆの声を聞くことはできなくて。どうしようもなく辛そうなまゆに、何かしてやりたくて。

「まゆがここにいたから! 生きててくれたから! 俺は今ここにいられるんだ! 前に進むことができたんだ!」

 まゆの身体は、冷たかった。悲しいほどに……冷たかった。

 触れ合った肌と肌から、少しずつ熱が奪われていく。それでもいい。俺の熱が、温かさが、ほんの少しでもいいからまゆに届くなら。そう思って、腕に力を込める。

 抱き締めたまゆのかすかな息遣いが、身体の震えが、間近にあって感じられる。それは、まゆが生きているとかろうじて感じられる、それでも確かな証だ。

 腕の中のまゆの身体は、細くて、華奢で。こんな触れれば壊れそうな小さな身体に――途方もなく重くて、残酷な運命を背負っている。

「だから……。そんなこと言うな。生まれて来なきゃよかったなんて……そんな悲しいこと、言うなよ……」

 そんなまゆに。俺は、どうしようもなく無力で、何もできないけど。ここにいる。せめてその感触を伝えようと、腕により力を込める。

 俺が、まゆの存在を確かめるために。まゆが、俺の存在を確かめられるように。

 ……長い間、俺たちはそうしていた。

 いや、実際は……ほんの僅かな時間だったのかもしれない。でも。それでも俺は、とても、とても長く感じた。永遠と思える一瞬だった。

「わたし……もっと渉くんと、一緒にいたかった……」

 すぐ傍で、まゆの声がした。震える声は上ずって、紡ぐ言葉は頼りなく。

 それでも、崩れてしまう一歩手前で踏み留まる。

 腕の中で、抱きしめたまゆの表情は見えないけれど。切羽詰まったように、堪えきれない何かに押しつぶされるように、まゆの身体は震え――

「もっと……いろんなところ、行きたかった。もっといっぱい、いろんなことしてみたかった! わたしが、巫女なんかじゃなかったら! 普通の女の子だったら! いっぱい、いっぱい――……!」

 それはもはや、声にならない叫びで。そんなまゆに対して俺は、ただ頷くことしかできず。身体を震わせるまゆを、より一層強く抱きしめる。

 一体、まゆが何をしたというのだろう。どんな罪を犯して、何の因果で、これだけの苦しみを背負わされれているのだろう。

 ……わかってる。理不尽な運命に理由などない。俺たちの都合など何も関係なくて、ただ現実だけが、厳然とそこにあって。

 それでも、まゆは運命を呪いはしないのだ。どうして、と、ただ叫ぶだけで。決して、自分の苦しみを他人に押し付けはしない、全部。痛みも、苦しみも、悲しみも、その小さな背中に抱え込んで、一人で背負って。

 それでも――まゆは強いから。悲しいほどに強いから、それができてしまう。

「だからね、渉くん……」

 まゆは、穏やかな声でそう言って。俺の腕に預けるように、その身体から力が抜けて。

 前に回した俺の手の指先を、掌がそっと包み込んだ。

 そうして、絡めた指と掌から、お互いの体温を伝え合って。


「今まで……ありがとう」


 それは――まゆの口からはじめて聞いた言葉。

 ごめんなさいではなく……ありがとう、と。

 少女一人すら守れないこの俺に。結局何一つできなかったこの俺に。

 それでも――ありがとう、と。

 だから俺は。

「俺……もう逃げないから」

 どうしようもなく無力な俺は。それでも今できる決意を、精一杯の誠意を言葉にする。

「もう何があっても、目を背けたりしない。逃げたりしない。ずっと、お前のそばにいるから。ちゃんと、お前のことを見て、ちゃんとお前の話を聞くから」

 俺は、無力だから。

 無力だからこそ、逃げてはいけない。現実を直視しなければ、立ち向かわなければならないのだ。

「俺、言ったからな」

 誓いを胸に、痛みを押し殺し。精一杯の明るい声で、何度も言ったその言葉を。


「――俺が、お前を守ってやる、って」


 それは、決意。あの時と同じ言葉で、あの時とは真逆の、俺の決意。

 そして、まゆは一言。

 万感の想いを込めた声で、ただ一言だけ呟いた。

 ――よろしくおねがいします……と。


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