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 翌朝。

 陽はまだ、昇っていない。ほんの少しだけ白んだ空が、山を覆う朝霧を淡く照らす。

「……静かだな」

「そうね」

 俺たちは月詠殿に向け、三人で森の中を進んでいた。殿守たちが見張りをしているであろう屋敷への道を避け、木々の間をそれに沿って歩く。日の出までは少し時間があるため辺りはまだ暗く、昨日の雨のせいか霧も立ち込めていた。うっかりしていると進む方角を見失いそうだ。

 ぼんやりとしか見えない視界で目を凝らし、屋敷の――まゆのいる方角を見つめる。

 やることはもう、決まっていた。

 ――まずは、まゆに謝る。

 もちろん、助けたいとか、まゆを連れて逃げたいとか、そういう思いもある。でも今は何より、自分の不甲斐なさをまゆに謝りたかった。そうしなければ、何も始まらないから。何も、解決しないから。その後どうするかは、それこそ謝ってから決めればいい。

「おい、渉。あれ見ろ」

 隼人が、右手前方を指差した。木々に隠れて僅かにしか見えないが、そこにあるのは、白い視界にうっすらと見える、赤く滲んだ光の揺らぎ。おそらくは、見張りの殿守たちの松明だろう。

「だいぶ月詠殿に近付いたみたいだな」

「ここからは気を引き締めていかないとね」

 飛鳥はそう言い、肩に掛けてあった弓矢を担ぎ直す。俺たちは殿守たちに見つからないよう、霧に紛れながら周囲を警戒して進み――


 ――カランカランカランカラン。


 足に、何かが引っかかる感触。

「何奴だっ!?」

「妖怪かっ?」

「いや……曲者じゃっ!」

 音に気付き、殿守たちがこちらの方を見る。――しまった、これは……鳴子か!

「おい、どうする!? 屋敷まで、まだ距離あんぞっ」

「どうするって、強行突破しかないでしょ!」

「とにかく走ろう。囲まれたら終わりだ!」

 ――迂闊だった。

 霧による視界の悪さに加え、殿守たちに気を取られていたのがまずかった。

 考えてみれば、屋敷が妖怪に襲われるのはそんなに珍しいことではない。鳴子のような仕掛けが施されていても何の不思議もないのだ。

 ……まずいぞ、これは。

 殿守全員と戦うなんて想定もしていなかった。それに、罠が鳴子だけとも限らない。

「いたぞっ!」

「こっちだっ!」

 声とともに、殿守たちがぞろぞろと集まって来るのがわかる。――さすがに、逃げるのは無理だ。

 その時、前方の木陰から人の気配した。数は……二人か。

「そこか――!」

 出てきた二人の殿守が武器を構える直前、隼人が接近し一方に拳を入れる。俺もそれに乗じもう一人の首筋に峰打ち。二人は声を出す前に気を失い、地面にばったりと倒れる。

 この二人は一瞬で片付けたものの、既に見つかってしまっている。流石にこの数相手に真っ正面から戦うわけにもいかない。

「くそっ、これじゃあ追い付かれんのも時間の問題だぞ」

「そうね……何か手を――」

 そう言って飛鳥は、矢筒から取り出した矢を数本ずつ、両手の指に挟み――

「そこか!」

「逃がすな!」

 今度は一気に、前後から十数人の殿守たち。……まずい、このままじゃ挟み撃ちだ。

「みんなこっちに!」

 飛鳥は、それを避けるように横方向に逃げる。俺たちもその後に続いた。後ろを殿守たちが追ってくる。日頃から訓練の成果か、その足は山の中と言えども、かなり速い。

「くっ、振りきれないか……」

「大丈夫、任せて!」

 そう言うと飛鳥は突然足を止め、くるっと方向転換。そのまま弓を構え――

「――はッ!」

 だが……放たれた矢は殿守たちの間を抜け、地面へと突き刺さった。

「おいっ、こんな時に何外してんだよ!?」

 しかし、飛鳥はその言葉には耳も傾けず、矢を放った姿のまま静かに目を瞑る。そして――

「――調縛!」

 刹那、殿守たちの動きが止まった。いつの間にか地面に突き立っていた矢が、一斉に紅い光を放つ。

「な……ッ? こ、これは……?」

「し、矢梢円陣かっ!?」

「長くはもたないわ! 今のうちに!」

 飛鳥の指示で、俺たちは動けなくなった殿守を尻目に、一気に山を駆け抜ける。さらに上から増援がくるが、散発的なものだけだ。俺と隼人は、前から来る殿守を次々に仕留め、飛鳥は後ろから追って来る殿守の動きを調縛で封じていく。

 月詠殿は、もうすぐそこだった。



 屋敷の門前。

 俺は、見張りの殿守たちを何とか振り切り、一人そこに立っていた。

 飛鳥と隼人の姿はもうない。あの二人には、俺とまゆができるだけ安全に脱出できるよう、逃げ道を確保してもらっている。

「……行くか」

 門の錠前を刀で叩き壊し、俺は屋敷の――月詠殿の中へと入った。

 儀式の最中、殿守たちが屋敷へ入ることは許されていない。つまりこの中にいるのは、まゆ、兼義、そして――

「祇鶴……」

 門をくぐった先の建物を迂回し、本殿前の庭に出たところで――その姿は見えた。

 肩の下まである長髪を無造作に束ね、その腰には細身の太刀を携え。本殿を守るように、庭の中央で、腕を組んで立っている。

「貴様……ここに何をしに来た」

 こんな時でも、いつも通りの硬い表情を崩さない祇鶴に驚きの色はなく。だからこそ、その言葉は問いであって問いではない。

「全部、わかってるんだろ。お前がそこにいるってことは」

「ふん……まさか、これほど大それた真似をするとは思ってもみなかったが」

「俺は、刀を振るしか能がないもんでね」

 その言葉に、祇鶴が微かに笑うのを感じ取る。だが次の瞬間にはもう、その笑みは消えていた。

「……今一度問う。貴様、この行為が何を意味するか、理解しているのであろうな」

 その言葉は、俺の覚悟を問うように。重く、静かに響く。


「俺は、まゆに会いに来ただけだ」


「……儀式を妨げてでも、か」

「生憎、儀式とやらに興味はないもんでね」

 祇鶴は目を閉じ、静かに息を吐く。そして、何かを諦めるように、あるいは決意するように、

「ならば……どうなっても文句は言うまいな」

 すらりと、腰の鞘から刀を抜いた。

「覚悟の上だ」

 祇鶴に応えるよう、俺も刀を構え、対峙する。

 そういえば……あの夜も、こうやって刀を向けられたな。あの時は特に戦う理由もなかったが……今は違う。おそらく、最初で最後の――祇鶴との真剣勝負。

 互いの構えは、同じく正眼。五メートル以上の長い間合いを空けたまま、鏡映しのように刀を構え、互いに互いの隙を探る。

 そして――ひらりと。

 目の前を木の葉が横切った、その瞬間。

「何……?」

 祇鶴は、ふいに左手を刀から外した。片手で刀を振り上げ、もう片方を懐に潜り込ませる。

 ――攻めるべきか。

 そう思ったのは一瞬だった。こいつが無意味な隙なんて作る筈が無い。あれは罠か……とにかく、何らかの手を隠し持っている。そう確信し、懐の手の動きを注視する。

 だが、そこから引き抜かれたのは、小さな布袋。それを祇鶴は、宙に放り投げ……

 ――一閃。

「――ッ?!」

 反応できたのは奇跡だった。ほとんど直感に任せて身体を捻り、それを避ける。

 裂ける布袋に、弾ける砂。そして、その中から飛び出したのは――霊気の刃。

「ぐ……ッ!」

 左肩に鋭い痛みが走り、血渋きが僅かに飛ぶ。――躱し損ねた。

 ちらりとそこに視線をやると、服がざっくりと裂けている。まるで、見えない刃物に切り裂かれたかのように。

 掠っただけで――この威力。

「……その技。土蜘蛛の時にも見たな」

「鎌鼬、という。私が編み出した技だ」

 地に落ちた砂袋の残骸を蹴とばし、祇鶴は言う。

「もっとも、これなしではあれほどの威力や速度は出せんがな」

「……なるほど。霊気を込めた砂を仕込んであったわけか」

 二回見て、あの技の原理は大体理解できた。大雑把に言えば、霊気の塊を素早く斬ることで霊気の刃を形成、射出しているのだ。間接的に霊気を飛ばしている分、霊気の使い方は非効率な技だが、霊気弾と比較すると、威力、貫通力共に馬鹿にならないほど上がっている。おそらくは、剣圧によって霊気の密度を強制的に上げているのだろう。

 それに……ああやって先に霊気の塊があれば、霊術なしで技を放つことができる。霊気を固めるという作業を必要としなければ、刀に霊気を纏わせて振るうだけなのだ。

「不意打ちで決着が付くなら、とは思っていたが……まあいい。太刀合いも想定の内だ」

 そう言うと、祇鶴は両手で刀を構え直す。今度は正眼ではなく――下段構え。

(そう来たか……)

 あれは、防御に特化した構え。このままでは……戦況が硬直する。

「純粋な太刀合いで、俺に勝てると思ってるのか?」

 俺は、慣れない軽口を叩き、相手の挑発を試みる。

「いいや」

 だが、祇鶴は冷静だった。

「剣の技なら、良く見積もっても、私の腕はおそらく貴様と互角程度。勝てる道理はない。だが……」

 

「このまま時が過ぎれば――貴様の負けだ」


 ……まずいな。祇鶴に負けない自信はあるが、今すぐ倒せるかと言われれば話は別。奴の力量だって、時間稼ぎとしてなら充分すぎる。だからといって、悠長にしている暇もない。こっちには時間がないのだ。このままではまゆの儀式が始まってしまう。

(一か八か、攻めてみるか……?)

 だが……動けない。自分の攻めの稚拙さが、自分で分かってしまうのだ。

 仮に自分が受ける立場なら、必ず返り討ちにできる。それが分かってしまうから――反撃されることが容易に予想できるから、動くことができない。


 ――『己の心と向き合う。ただ、それだけのことじゃよ』


 ……己の心、か。だったら――

 俺は正眼の構えを崩し、右手と右足を後ろに引く。そして、刀の切っ先も――後ろに。

「……何のつもりだ」

 祇鶴の目が、不審げに細められる。

 ――脇構え。本来ならば、間合いを誤魔化すための構えだが、今は違う。

 重心を前に倒し――

「は――ッ!」

 ――石火抄。足裏に起こした霊気爆発で一気に間合いを詰め、横薙ぎに斬りかかる。

「く――ッ?!」

 予想外の動きに戸惑いの色を浮かべながらも、何とか刀を受け止める祇鶴。不安定な体勢のまま、刀が交叉しガキィ――ンッ! と鋭い擦過音を立てる。

 ぐらぐらと揺れる、交叉した刀身。本来なら引いて二撃目を加えるべきこの状況で、俺は一歩も退かずに、強引に刀を押し込んだまま祇鶴に間合いを離させない。

「貴様、何を……ッ!?」

 剣術にあるまじき無茶苦茶な戦法。無理やりにかち合わされたままの刀は危なっかしく右へ左へと揺れ――やがて互いの正面で固定される。

 そして、真っ向からの鍔迫り合い。自身の体重を刀に乗せ、ギリギリと刀を押し込む。

「……貴様、気でも狂ったかッ!」

「昔から弟によく言われてたんだよ、兄さんはアグレッシブだってな!」

「あ……、あぐら、しぶ……?」

 鍔迫り合いをしながら、俺は全身に意識を集中させる。

 ――チャンスは一度。

 押し合いの中に生まれる僅かな力の緩みを狙い――

「――はッ!!」

 全身の関節を同時に高速で動かし、押し合った刀に対して、瞬間的にゼロ距離で莫大な加速力をかける。そして、祇鶴と拮抗していた刀を――一気に前へと押し出した。

「な……ッ!?」

 祇鶴の刀が、鉄槌で叩かれたかのように、後ろへ弾かれる。

 ――寸迫。

 中国拳法には寸頸という技がある。全身を使って瞬間的に掌を加速させ、ゼロ距離で打撃を与える技だ。寸迫は、それを鍔迫り合いに応用したもの。刀と刀が拮抗する中、同様の原理で瞬間的に自分の刀を加速させ、相手の刀に衝撃を与えるのだ。

「く……ッ」

 不意の攻撃を受けて姿勢を崩しかけた祇鶴は、刀を弾かれた勢いで後ろへと跳びすさり、その勢いを利用して続けざまに刀を繰り出してくる。

(あの衝撃を受けて身体を崩さないのか――!?)

 ならば、ここで――決める!

 もはや、後ろに退いて仕切り直すなどという選択肢はなかった。決して確実ではない勝利への道。だが、それでも防戦主体の構えをとっていた祇鶴が見せた、最も大きな隙であることには変わりがない。

 だから、俺は。

 互いの攻撃が充分に届く間合いでありながら、防御も回避も一切無視し、ただ目の前の相手に向け――刀を繰り出す。

 奇しくもそれは、祇鶴も同じだった。

 互いが必殺を狙って繰り出した刀は、交わることなく鋭く空を切り――


 ――風が、止んだ。


 首筋に冷たい感触。皮一枚分だけ食い込んだ祇鶴の剣尖が、俺の首筋に突きつけられている。

 そしてそれは――向こうも同じ。

 俺の繰り出した刀も、祇鶴の首筋にピタリと突きつけられ。

 互いが急所を狙い、決める寸前で――刀を止めていた。

 鏡写しのように、互いに必殺の刃を突きつけあった状態で睨み合う。だが、それ以上は動けない。もう、この勝負はどうにもならないのだ。どちらかが刃に力を込めた瞬間、互いの刃が互いの首筋を容赦無く斬るだろう。

 やがて、祇鶴が息を吐いた。

「人を……斬ったことがないんだな」

「え……?」

 小さく呟かれた何かの言葉は、風に溶けて聞くことができず。

 それと同時に、祇鶴の刀を握る手の力が緩み、張り詰めていた殺気が霧散する。

「……行け」

 そして。祇鶴は静かにそう言い、一歩退いた。

「巫女様に話があるのならば、行くが良い。だが、貴様にできるのはそれだけだ。それ以上は……どうにもならん」

「どうにもならん、って……どういうことだよ」

 俺は、これ以上振るうこともないであろう刀を収め、祇鶴に問いただす。だが、祇鶴はそれには答えず、

「巫女様は神奈備に居る」

 それだけを言うと、本殿に背を向けたまま歩き出し、俺の横を通り過ぎた。

 本殿に背を向けた祇鶴と、本殿の方へ向かう俺はすれ違い――

 そして、祇鶴はそれ以上何も言わずに姿を消した。

 ……あとは全て巫女様に聞け、とでも言うように。



 神奈備を見たのは、これで何度目だろう。

 薄暗い光の中にぼんやりと見えるのは、石灯籠と柵で囲われた儀式の舞台。準備で何度も目にしたはずのその光景は、今はとても――残酷に見える。

 そして、その閑散とした空間の中でただ一人、舞台の傍に佇む、少女の人影があった。

 陽が昇る前の、僅かに白んだ空を見上げるまゆの背中は。あの日の夜と何も変わらず――儚くも美しく、凛々しくも物悲しい。

 ……ひどく、嫌な予感がした。

 祇鶴が最後に見せたあの態度。全てを知っていながら、死地に飛び込む人間を見送るような――あの眼。祇鶴は、これから起こることすらも、全てわかっているのではないか、と。そんな感覚に囚われてしまう。

 ……それでも。

「もう、逃げないって……決めたんだ」

 自分に言い聞かせるようにそう宣言し、その一歩を踏み出す。神奈備の玉砂利が、ザリッ――と、音を立てて、

「渉……くん?」

 ……その音に振り向いたまゆは、きょとんとした表情を浮かべる。

「よっ、まゆ。元気そうで何よりだ」

 俺はそんなまゆに対し、努めて明るく声をかけた。

「どうして、ここに……?」

「どうしてはないだろ。俺はお前の随身なんだしさ」

「……そっか。そうだよね」

 そう言って安堵の笑みを浮かべるまゆに、俺は、

「まずは、謝りたいことがあるんだ」

「え……?」

「随身のこと……お前が何回も話そうとしてくれてたのにさ。その度に話の腰を折って……悪かった。俺、無責任なことばっか言ったよな。その上、祇鶴から本当のこと聞いても何もできなくてさ」

 まずは謝らなければならない。そうしなければ――何も始まらない。

 だから俺は、

「本当に……すまん」

 そう言って、頭を下げた。

 不甲斐無い自分の行動に対する、せめてもの償いのつもりだった。

 だけどまゆは、

「違うよ、渉くん」

 静かに、首を横に振る。

「わたしが、しっかりしてなかったから。わたしが無理言って渉くんに随身になってもらったのに、うまく言い出せなかったから。それでこんな……たくさん迷惑かけて。本当に……ごめんなさい」

「いや、悪いのは俺の方だ。俺が――」

「違うよ、わたしが――」

 お互いに言い合って、はたと、言葉を止める。それから、まゆはおかしそうに笑った。

「……きりがないね、これ」

「……そうだな」

 その時、俺は。このやりとりに、一つの既視感を感じた。そういえばあの時も……

「よし。じゃあ、おあいこってことでどうだ?」

「……おあいこ?」

「ああ。話を遮った俺も悪いが、ちゃんと話せなかったまゆも悪い。だから、おあいこだ」

「おあいこ、か。うん……そうだね」

 そう……飛鳥や隼人と喧嘩した時だって、こうしてお互い様だって、そう言って仲直りしたんだ。ああして、俺が居場所を作ることができたのも全部……まゆのおかげだった。

 だから、今度は俺が。

「なあ……まゆ。ここから、一緒に出ないか?」

 俺は改めて意を決し、まゆに言う。

「巫女とか、烏衣神とか、朔の禍刻とか。……そういうこと全部忘れて。一緒にもっと、外の世界を見に行こう」

 それは、最後にまゆと言葉を交わしたあの時と……同じ言葉。だが、あの時の逃避から口に出たものとは違う。まゆをここから連れ出すためなら、俺は何だってする。もう一度――いや、何度だって。祇鶴や、殿守たちと刀を交える覚悟だ。

 ……だけど、まゆは。頷かず、差し伸べた手を取ることもなく。

 ただ、嬉しいような、それでいて困ったような表情を浮かべ、

「――ごめんね」

 だが、きっぱりと。

 俺の言葉を、拒絶した。

「わたしの中にはね、烏衣神さまが宿ってるの」

「宿……ってる?」

 宿ってるって……どういうことだ? 幽霊が人間に憑依するというのならわかる。でも、死神っていうのは幽霊とか、妖怪とか、そんなものとは次元の違う存在のはずで……。

「まさか……死神が人間に宿るなんて、そんなことあるわけ……」

 無意識の内に俺は、否定の言葉を探し、

「あるんだよ」

 だがまゆは、確とそう言い切った。

「わたしの背中にはね、烏衣神さまの刻印があるの。だからこそ、わたしはここに、玉響の巫女として連れて来られた」

 烏衣神の――死神の、刻印。

 それで連想したのは、他でもない、自分自身のそれ。死神の呪いによって刻まれた、罪の烙印。それは俺の知る中で、死神が人間に干渉した唯一の証でもある。

 神聖な巫女であるはずのまゆに実は死神が宿っているなんて、にわかには信じられない話だ。でももし、本当に背中に刻印があるとしたら……

「烏衣神さまはね……妖を呼び寄せるの。それは、神聖な力でもなんでもない。わたしの中にいる烏衣神さまが、妖を呼び寄せる」

 それはもう、驚くべきことでも、何でもなかった。

 心当たりなら、いくらでもある。餓舎髑髏も土蜘蛛も、全部、まゆを狙って襲ってきたものだ。だからこそ、巫女を外に出してはならないという掟があるのだろう。

 だが。それでも、俺は。

「……それがどうしたんだ」

「え……?」

 俺はもう、揺るがない。

「烏衣神が宿ってる? 妖をおびき寄せる? それがどうしたっていうんだよ。そんなもの、俺がお前を守ってやるのには何の――」

「――違うんだよ」

 だが、少女は静かに、首を横に振って。


「月詠の儀がなくても、わたしは――『死ぬ運命』だから」


 そう、言った。

「なんだよ……それ。だってお前は、儀式で殺されるんじゃ……」

 そうだ。月詠の儀は、朔の禍刻が起こらないようにするために、随身の俺が、巫女であるまゆを殺す儀式のはず。それなのに、どうして……。

「烏衣神さまはね、宿った人の意識を奪おうとするの。最近、それがどんどん強くなってる。わたしの意識を押し退けて、出てこようとして。少しずつ、わたしを蝕んでる」

 まゆは、珍しく……本当に珍しく、気弱な――どこか諦めたような笑みを浮かべた。

「実はね……前から辛くなってたんだ。ちょっと疲れたり、気が緩んだりしたら、すぐに意識を持っていかれそうになるの。でも、なんでなのかな……渉くんと話してたら、不思議と心が落ち着くんだ」

 …………そうか。だからこいつ、あの時俺を随身に……。

 宴の時に、まゆが一人神奈備で風に当たってたのも、騒ぎ過ぎて疲れないようにするためだったのか……。

「じゃあお前、まさか市の時も……」

「うん……ごめんね。ちょっと、無理しちゃったかな。でも、せっかく渉くんが誘ってくれたし。それに……どうしても外に出てみたかったから。でも、結局倒れて。みんなに、迷惑かけちゃって……」

 …………馬鹿か。

 俺はまゆに、そして何より、自分自身に対してそう罵りたくなった。

 体力がない? ドジ? いったい俺は、まゆの何を見ていたんだ。

 兆候なら、最初からあった。初めて逢った日の舞の後だって。市で飛鳥や隼人と別れた直後だって。ふらついた……なんてものじゃない。まゆは……明らかに消耗していた。少し考えれば、ただの疲労ではないのは明白だったはずなのに……。

 何も……気付かなかった。

 随身などと言いながら、守るなどと言いながら――何も、気付いてやれなかった。

 これだけ苦しんでいるのに。これだけ頑張って、耐えているというのに。

「じゃあもし、烏衣神に意識を支配されたら……」

「たぶん……ううん、きっと。わたしは何の見境もなく、周りにいる人たちを襲う。その時はもう――わたしの魂は『死んで』いるだろうから」

 まゆは、自嘲的な、諦めたような笑みを浮かべた。

「それが、朔の禍刻の真実。人々を襲う烏衣神さまは、わたしそのものなんだよ」

 つまり――何だ?

 儀式をすれば、まゆは殺され。

 ここで儀式を止めれば、死神に呑まれて自我が崩壊する?

「ははっ……。何だよ……それ」

 口から、乾いた笑いが漏れる。

 儀式を止めればまゆは助かる、だなんて。そもそも、そんな単純な話じゃない。

 何を選んでも、まゆは――死ぬ。

「だから、この儀式はね。わたしが、人としての生を全うするために執り行われるものなの。もしここでわたしが逃げ出しても、いずれ、わたしの中の烏衣神さまが、周りの人を――渉くんでさえも、殺してしまう。わたしは、みんなを傷つけてまで、自分が自分じゃなくなってまでして……生きたくない」

 まゆの言葉は……遠く。意識の外側から、ぼんやりと聞こえてくる。

 俺に……どうしろっていうんだよ。

 道が見えたと思っていた。やっとやりたいことを見つけて。自分の意志を自覚して。みんなの力を借りて。がむしゃらに突き進んで。そうしてようやく、ここまでたどり着けたんだ。これでようやく、まゆは救われるんだ。と……そう、思っていた。

 ……だというのに。こんな――こんな、残酷な運命。

 覚悟を決めたから、それでどうにかなるなんて。そんな生易しい話じゃなかったんだ。

 じゃあ……俺は、どうすればいい?

 俺は、まゆのために――何をしてやれる?

 まゆは、そんな俺の疑問に終止符を打つように。

 最後の一言を、告げた。


「――渉くん。わたしを、守ってくれますか?」


 それは、本来とは全く逆の意味の言葉だった。

 わかってる。もう、手詰まりなんだと。助けるとか助けないとか、そんな簡単な話じゃないってことも。

 それでも……何もかもを諦めるには、まだ早すぎて。だから、俺は、

「少し……考えさせてくれ」

 そう言って、踵を返した。

 もう一度、大切なものを見つめるために。

 ――本殿の中で、待ってるから。

 そうかけられたまゆの言葉は。

 昼間の影法師のように、俺の耳へと残った。


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