2
――走る。
空は晴れ、星がまた出始めていた。少し前までわだかまっていたはずの雲は、気付けばほとんどなくなっている。まばらに輝く星だけが、俺にとって唯一の明かりだった。
――ただ、走る。
飛鳥、隼人の場所は郷長の家に押しかけたら、すぐにわかるものと思っていた。だが、世の中そう甘いものでもない。郷長から聞けた情報はそんなに多くはなかった。
――不安定な足場で、姿勢を崩しそうになる。だが、足は止めない。
『あのお二人なら、妖を退治しに向かわれました』と、郷長はそう言っていた。さっき俺が二人と会ったのは、妖怪を探す道すがらだったというわけだろう。とにかく、郷長から聞けた情報はたったこれだけ。
――暗闇に近い視界の中、転びそうになる勢いをも利用して、ただひたすら前へと進む。
だが、だからと言って諦めるわけにはいかなかった。あの二人には、何一つとして言うべきことを言っていない。あれだけ理不尽なことを言っておいて、そう簡単に許してもらえるとは思っていないが、それでも謝らなければ。
――ぬかるんだ地面を踏み、時折水が跳ねる。滑りそうになりながらも、ただ先へと。
やみくもに走り回っても無意味なのは分かっていた。妖怪を退治しに行ったということは、あの二人のいる場所は十中八九、土蜘蛛が現れる場所。『普段は森の中におるか、出てくるにしても水辺が多いのじゃが……』という、昼間の郷長の言葉を思い出す。
――こうして、自分から走るのは初めてかもしれない。
この近辺の水辺といえば、市に行く時に見た……川。森は、月詠殿から見て村や街道よりもさらに向こう側にある。そして川は、確か森にも流れていたはずだ。
――それは、簡単に見えて、でも難しい。だか、俺はもう、逃げたくはなかった。
土蜘蛛を見つけたいなら、川沿いに森を探せばいい。おそらく二人もそう考えるはずだ。なら、俺が向かうべきところはただ一つ。
――あとはひたすら、前へと進むだけだった。
――ズン。と、何かが揺れる音がした。
「……もう、戦っているのか?」
音は、前の方から聞こえてきた。どうやら進む方向は間違っていなかったようだ。
――待ってろよ。
岩場を乗り越え、木々の間を縫って声の方へと進む。
そして……
目の前に広がったのは、開けた河原だった。
そこに立っていたのは、二つの影。大きさも形も違うそれらは、長身の男と大きな蜘蛛のように見える。
「おいデカブツ! どうした、かかってこねぇのか?」
長身の男の影――隼人が叫んだ。まだ少し離れた場所にいるにもかかわらず、その声はこっちの方まではっきりと聞こえてくる。
隼人の言葉に応じるように蜘蛛の影――土蜘蛛は、暗闇にあってなお片目に炎を輝かせる鬼面を隼人の方へと向け、
――激突。
隼人の拳と蜘蛛の脚が交叉し、激しくぶつかり合う。前の四肢を使い打撃を加えてくる土蜘蛛に対し、隼人は小刻みに間合いを計りながら、攻撃を躱し、あるいは受け流す。何発もの打撃を腕につけた黒い手甲で弾きながら、素早く動き回る隼人。しかし、攻勢には転じない。あくまで攻撃を捌くことだけに専念する隼人の動きに業を煮やしたのか、土蜘蛛は一旦、後ろに跳んで距離をとった。
片目の青い炎がその輝きを増し、今度は――鬼面から糸が吐き出される。
(あれは……霊気の、糸!?)
「――はッ!」
隼人は、糸の動きを最初から知っているかのように、腕を無造作に振るい、飛ばされた糸を打ち払う。
遠目だが一瞬。隼人の振るう腕を――手甲を覆うように、山吹色の光を放つ、薄い膜のようなものが見えた気がした。あれは……霊気の膜、か?
『――グォオオオオッッ!!』
土蜘蛛が叫び、その脇腹が――開く。
「傀儡蟲か……ッ!」
直後、土蜘蛛の胴体の中から這い出てくる、蟲、蟲、――蟲。小型犬ほどもある蜘蛛の大群は、一気にその場を埋め尽くし、隼人を包囲して――
「――今だッ!!」
その瞬間、隼人は叫んだ。
それと同時、茂みから飛び出したのは――飛鳥。その手に握られているのは、一本の矢だった。それを地面に突き刺した瞬間、俺は気付く。
地面に突き立ったいくつもの矢。それは、飛鳥が今突き刺したものだけでなく、この周囲一帯に、まるで土蜘蛛を包囲するかのように円を描いて突き立っている。
そして飛鳥は、矢を握る方とはもう片方の手で印を結び――
「――調縛!」
瞬間――炎が燃え移って行くように。円陣を作る矢に、紅の光が次々と灯ってゆく。紅く燐光を放つ霊気が陽炎のように立ち上り、妖怪たちを囲む壁を成す。
『ガッ……アアアア――ッ!?』
鎖に縛られたように、ガクリと動きを止める土蜘蛛と、痙攣してひっくり返る傀儡蟲。
(これは……矢梢円陣と同じ術式か!)
この時代の祓妖師は祇鶴と殿守しか知らなくて、正直この二人がどんなものか全くイメージできていなかったが。この二人は……月詠殿のやつらとは、別の意味で凄い。
隼人は、霊気を体に纏わせてながら、素手であの巨大な土蜘蛛と渡り合っているし、飛鳥に至っては、殿守たちが大勢で使っていた矢梢円陣と同じ術式を一人で発動してのけている。あっちがオールマイティーな団体戦のプロなら、こっちは一点特化型の個人戦のプロといったところか。
「きゃ――ッ!?」
突然。響きわたったのは、飛鳥の悲鳴。慌てて振り向くと――喉を抑え、苦しそうにしている彼女が見えた。
(あれは……蜘蛛の糸か!)
「飛鳥ッ!?」
隼人は叫ぶが、動けない。円陣は土蜘蛛だけでなく、それを押さえていた隼人の動きすら封じている。
円陣の発動を切れば隼人は動けるようになるのだろうが……飛鳥はそれをしなかった。一旦解除してしまえば土蜘蛛はこの場から逃走し、今度こそ捕まえる機会を逸してしまう。それが、分かっているからだろう。
「――ッ!」
考えるよりも先に身体が動いた。
鬼面の場所と飛鳥の立ち位置から、糸の通っている箇所を逆算し――一閃。
「……渉!?」
突然飛び出した俺の姿に驚いたのだろう。飛鳥は目を丸くして俺の方を見つめ、
その時――ベキリと、音が響く。
「な――ッ?!」
暗闇で目を――感覚を凝らして、気付く。円陣を構成している矢に絡みついているのは、先ほど飛鳥の首を絞めていたものと同じ、蜘蛛の糸。
(糸で……矢を倒してる!?)
糸に引かれた矢は次々とへし折れ、霊気の陽炎は弱々しく揺らぎ、次々と消えてゆく。
(これじゃ、昼間の二の舞だぞ……)
「は――ッ」
飛鳥が力を籠め直すとともに円陣の残りの部分が輝きを強め、円陣が再び力を取り戻しかけるように見えた、その時。
突如、土蜘蛛が跳躍。巨体に似合わない身軽さで宙を舞った土蜘蛛が狙うのは――
「飛鳥――ッ!」
(くっ……術者を潰す気か!)
あの間合いじゃ、回避は無理だ。なら――
「……ッ!」
咄嗟の行動だった。
足裏に霊気を集中させ、石火抄。ただし、飛ぶ方向は横ではなく――斜め上。上から飛びかかってきた土蜘蛛に対し、身体全体を使って強引に当て身を食らわせる。
「く……ッッ?!」
肩に鈍い衝撃が走る。まるで、全速力で走って壁にぶつかったような感触。ほとんど捨て身のこの攻撃はさすがに予想外だったのか、不意を突かれた土蜘蛛は、空中でバランスを崩し――
「抑え込め――!」
――落下する、その直前。俺は隼人に向かってそう叫んだ。
「――おうよッ!」
打てば響く、とはまさにこのことか。
素早く動いた隼人は、姿勢を崩したまま地面に叩きつけられた土蜘蛛の脚二本をそれぞれの腕で掴み、ギリギリと拘束する。……とはいえ、この拘束も長くは保てないだろう。だが、数秒稼ぐことができれば、それで充分だ。
地面に落下したと同時に受け身を取ったその足で立ち上がり、倒れた土蜘蛛の正面へと回り込む。狙うは――
「――そこだッ!」
刀を振り上げ、縦に一閃。
真っ二つに切り裂かれた――鬼面が。土蜘蛛の身体から剥がれ落ち……僅かな火の粉を散らして燃え落ちる。それと同時にその場で崩れ落ち、ぐったりとして動かなくなる土蜘蛛。その奥から覗かせたのは――
「……人間の、顔!?」
「――これ、借りるわよ!」
声の方向は後ろ。それと同時、俺の手から刀がぐいっと抜き取られる。
「……飛鳥?」
「やられっぱなしじゃカッコつかないしね」
飛鳥はそう言うと刀を逆手で持ち、それを土蜘蛛の身体へと突き刺した。そして、
「――悪穢祓清」
声と同時。飛鳥は、刀の前で印を結ぶ。
「――怨呪帰返」
目を閉じ、その不可思議な呪文を静かに唱え。
「――不浄討滅」
再び目を開いて――叫ぶ。
「――邪霊調伏!」
――瞬間。
突き刺した刀から。紅の光が、土蜘蛛の身体を這い回り――
直後――全てが、吹き飛んだ。
妖怪の身体を作っていたはずの霊気は、爆散。円陣全体を覆うほどの、巨大な霊気爆発が起こる。それと同時、胸の心央に走るのは、強く、灼けつくような、刻印の疼き。刹那の内に広がった、意識に走るあの感覚は、瞬く間に体中を駆け巡る。
そして……一瞬にして、妖怪の身体は、跡形も無く――消えて。
……見慣れた光景。その……はずだった。
祓霊師をしていた幼い頃は、数えきれないほどの悪霊をこの手で葬り去り、それを目にしていたはずだった。
あの時は、何も思っていなかったのだ。自分にとっては、蟻を踏みつぶす程度。
それなのに、今は――
「――……」
……言葉が、出なかった。
一瞬で奪われる、生命。
呆気なく……あまりにも呆気ない、最期。
死体すら残さず、妖怪は――その存在は、祓妖師の手で葬り去られる。
地面に突きたった刀と、刻印の疼きだけが、土蜘蛛との戦いの名残だった。
「……なるほど、そういうことだったのね」
「まさか、まゆちゃんがあの玉響の巫女だったとはなぁ……」
土蜘蛛との戦いが終わった後、俺は二人に、すべての事情を洗いざらい説明した。まずは、自分が腹を割って話さないことには何も始まらない。最初は話を聞いてもらえるか不安だったが、それはすぐに杞憂だったと気付く。殊、飛鳥に至っては、俺から事情を聞いて納得するまでは、もう逃がさないといった様子だった。
二人とも祓妖師ということもあってか、月詠殿の話や、玉響の巫女の話、朔の禍刻の話といったものは聞いたことがあるらしく、思っていたよりも話が早かった。
まゆが玉響の巫女であること。俺がその随身であること。どうして早く帰る必要があったのか。その後、夕方に何があったか。そういったことをすべて話し、そして――
「――悪かった!」
俺は、素直に頭を下げた。
「あの時のは……完全にやつあたりだった。お前らが全然悪くないってことも頭ではわかってたんだが、どうしても言葉が止まらなくて、それで――」
「――ちょっと待て」
隼人が、俺の言葉を制して言う。
まあ……そうだよな。頭を下げた程度で、許してもらえることじゃない。俺は、二人の好意を踏みにじってあれだけ酷いことを言っただけでなく、その上勝手に逃げ出して――
「話は分かった。けどよ、俺らが全然悪くなかったなんてこたぁねぇだろ。事情を知らなかったとはいえ、こっちだってお前らを連れ回しちまったんだから」
「そうね……確かに、何も説明を受けてなかったってのはあれだけど、私たちにも悪いところはあったと思う」
そう言って申し訳なさそうにする二人。それは、俺にとってあまりにも予想外で……
「だからよ、自分だけが悪かったみてぇなこと言うなっつってんだ。お前にも非はあった。けどそれは、俺らに非がなかったってことにはならねぇだろ。喧嘩なんつーもんは、どっちかが本当に正しいなら、そもそも喧嘩にすらならねぇんだ。だったら、喧嘩したことを謝るよりも、どうして喧嘩になったのか、それを伝えて謝ることの方が大事だろうが」
「どうして、喧嘩になったのか……」
「要するに、きちんと言わなかった渉も悪い。でも、渉の話にちゃんと耳を傾けようとしなかった私たちも悪い。あんただって、心のどこかでそう思ってたから、それを抑えきれないでついつい言葉に出ちゃったわけでしょ。なら、それならそうとちゃんと言いなさい。でないとまた、こういうことの繰り返しになるだけよ」
……目からうろこが落ちる思いだった。
喧嘩したことを謝るんじゃなくて、どうして喧嘩になったかを相手に伝えて、謝る。考えてみればそんなの、当たり前のことだ。喧嘩した理由をちゃんと相手に伝えなければ、また同じことで喧嘩してしまう。でも、そういうことは普通、相手の顔色を気にしたり、自分の思いをさらけ出してしまうのが怖かったりして、なかなかできることじゃない。
それをこいつらは、当たり前のように……。
……この二人には敵わないな、と思う。兼義の言っていた通り、俺は本当にどうしようもなくガキだったのかもしれない。でも……ガキのままではいたくなかった。少しでも早く、この二人に追いつきたかった。先へと、進みたかった。だから――
「俺は……あの時、ちゃんとこっちの話に耳を傾けてほしかった。しっかりと、聞いてほしかった。それは確かに……俺の本心だと思う。でも、お前らと市を回ってるのが楽しかったのも本当で。事情があったとはいえ、きちんとこっちの話を伝える努力をしていなかったのは悪かった。だから……すまん」
俺はそう言って、改めて頭を下げた。そして言いながら、自分の気持ちに向き合いながら、気が付いた。――ああ、これは、俺がまゆにしていたことなんだ、って。話をしっかりと聞いてほしかったのは、まゆも同じなんだって。
「俺たちも、お前の話ちゃんと聞きもしねぇで、好き勝手に市連れ回して……悪かったな」
「私も、あの時はついつい悪乗りしちゃったわ。ごめん」
そう言って頭を下げ合う俺たち。これだけ、自分の思いをさらけ出したのは、初めてだった。
だがそれは、想像していたよりも、遥かに気持ちのいいもので。喧嘩した後のギスギスした不快感じゃない。もっと、より良い関係になれたような、そんな爽快感。そういった思いが、今は胸の奥に満ちていた。
「さて、と。じゃあこの話はこれでおしまい!」
飛鳥はそう言って、パンと手を叩く。
「じゃあ、話を整理するけど。まゆは明日の明け方に、その烏衣神ってのを鎮めるために月詠の儀で殺されるってことね?」
「ああ」
「でも、儀式をしないと朔の禍刻が起きるわけだろ?」
「そうだ……。そうなったら、多くの人間が死ぬことになる。もちろん、どっちが正しくてどっちが間違ってるのかなんて、そんなことはわかってるつもりだ。だから別に……無理して二人に助けてもらおうとは思ってない。ただ――」
「――あんたは、どうしたいの?」
飛鳥がそう訊いてくる。奇しくもその問いは、兼義のそれと全く同じものだった。そうだ、大事なことは、同じ。
――自分の、意志。
「俺は……まゆを助けたい!」
「なら、決まりだな」「なら、決まりよね」
「……え?」
即答。二人同時に、何の躊躇もなくそう言ってのける。
「ほんとに……いいのか?」
「俺たちは何も、正義の味方っつーわけじゃねぇぞ。ただ、自分のやりたいように動く。それだけだ」
「渉の話を聞いて、私もまゆを助けたいって思った。だから、私は渉についていく」
「……もしかしたら、帰ってこれないかもしれないんだぞ」
そんな二人に、俺は最後の確認を取る。いくらなんでも、二つ返事で了承するには危険すぎることだ。あの殿守たちを相手にたった三人で立ち回るなんて、本来なら無謀の極みでしかないのだから。
だが……
「どうとでもなるだろ、んなこと」
「祓妖師の旅に危険はつきものよ。妖百匹相手よりかは人間相手の方が幾分ましでしょ」
そう言って笑う二人からは、微塵の迷いも感じられない。まるで、そうするのが当たり前とでもいうように。こいつらは、さらりとそう言った。
……信じられなかった。自分だったら、今日会ったばかりの人間のためにこんな、勝算もわからない――いや、勝算なんてほとんどないような勝負に出るなんて考えられない。
でも、こいつらのそんな態度に。俺は、どんな励ましの言葉よりも自分が勇気づけられるのを感じた。
きれいごとを並べ立てたり、上っ面だけの言葉で取り繕ったりしない、こいつらの姿勢。それは、俺が今まで出会った人間の中で、どんな奴にも当てはまらない、全くもって別の価値観だった。しかし……こいつららしいと、なぜかそんなことを思った。
――『時には、喧嘩してもいい。わがままを言ってもいい。きちんと自分の意見をぶつけて、そうしてきちんと人の話に向き合えば。そこはもう、その人の居場所になるんだよ』
今になって、俺はまゆの言葉を思い出す。あの時はただ、自分にとって都合の悪い言葉に耳を塞ぎ、言い訳をとともに誤魔化して、その言葉の意味を、考えようともしなかった。
でも……今なら、わかる。
喧嘩して、お互いの気持ちをちゃんと伝え合って、相手を考えを理解して。そうして初めて自分で作った、自分の居場所。
なるほど……こういうのも、悪くない。
それは、自分にとっても意外な心の動きだった。
大切なものは、失って初めてわかる。失った痛みも、そこに居た時のありがたさも。
俺は……当たり前のことに気付くのに、時間をかけすぎたのだ。
だが、もう迷いはしない。自分の意志が明確なら、進むべき道も明確で。
それは何よりも素晴らしい生き方なんだと、この時になってようやく実感することができた。




