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プリンセスナイトサーガ  作者: 中津海人
第1章 光の継承者

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第4話「蒼き姫騎士、墜つ」

 雪は、音を奪う。


 ロアーナ北方国境、防衛要塞フロストウォール。


 夜明け前の空はまだ黒く、雪原と空との境目さえ曖昧だった。


 城壁の外には、白い吹雪の向こうから無数の影が近づいている。


 甲殻を持つ獣。


 異形の脚で雪を掻き分ける巨体。


 人の形をしていながら、腕だけが異様に長い怪物。


 黒い瘴気を纏ったエボルモンスターたちが、氷を踏み砕きながら要塞へ迫っていた。


「敵前衛、距離三百!」


「魔導砲、充填急げ!」


「北側斜面にも反応があります!」


 兵士たちの声は、寒さで白く凍りつく。


 その中で、一人の伝令兵が、雪を踏みしめながら司令台へ駆け上がった。


「急報です!」


 彼は息を切らし、凍りかけた手で通信板を差し出した。


「エスティア王都、陥落!」


 周囲の兵が息を呑む。


「炎の姫騎士リーザ、消息不明!」


 吹雪が、より強くなったように思えた。


 フロストウォールの指揮官たちは、誰もすぐに言葉を返せなかった。


 エスティアは、魔法研究と魔導技術で名を馳せた国だった。


 その国が落ちた。


 炎の姫騎士が、消えた。


「……嘘だろ」


 若い兵士が呟く。


「イルファリアに続いて、エスティアまで……」


 恐怖は、音もなく広がる。


 雪原へ落ちた黒い墨のように。


 そんな兵たちの前へ、一人の少女が歩み出た。


 白銀の鎧。


 ショートカットの蒼い髪。


 額には、水を湛えたような青いティアラが静かに輝いている。


 その瞳は、吹雪の中でも凍らない湖のように澄んでいた。


 水のティアラを受け継いだ、蒼き姫騎士、イレーネ。


「報せは、受け取った」


 声は低く、静かだった。


 だが、兵士たちにはそれで十分だった。


「エスティアが落ちたなら、次はロアーナだと思っている者もいる」


 イレーネは城壁の外を見た。


 黒い軍勢。


 雪を汚す瘴気。


 遥か向こうで、帝国の魔導装甲機が鈍い光を放っている。


「でも、まだここは落ちていない」


 彼女は剣を抜いた。


 冷たい朝の光を受け、刃が青白く輝く。


「なら、守る」


 短い言葉だった。


 だが、兵たちの背筋が伸びた。


 イレーネは城壁の端へ立つ。


 その隣に、軽い足取りで青年が現れた。


 薄茶色の長髪。


 少し軽薄そうな笑み。


 雪の上でも変わらない、明るい声。


「イレーネ様。今夜くらいは、俺と食事でもどうっすか?」


 イレーネは横目だけを向けた。


「……隊長としては信頼してる」


「お。悪くない滑り出しっすね」


「でも、人としては嫌い」


「そこまで言いますぅ?」


 周囲の兵士たちに、少しだけ笑いが起こる。


 青年の名はイヴァン。


 イレーネ親衛隊の隊長だった。


 その少し後ろで、もう一人の青年が静かに剣を抜く。


 背は高い。


 黒い外套の下から見える顔は真面目で、笑うことが少ない。


 手袋をつけた両手で、剣の柄を確かめている。


 マクシム。


 親衛隊副隊長の若き騎士だった。


「姫様」


 マクシムが言う。


「前へ出すぎないでください」


「分かってる」


「本当にですか」


「……分かってる」


 ほんの少しだけ、イレーネの声が詰まる。


 イヴァンが肩をすくめた。


「マクシム。姫様にそれ言って聞くなら、俺たちも苦労しないだろ」


「黙れ」


「へいへい」


 その時、城壁の下で何かが吠えた。


 雪原が揺れる。


 全長十メートルを超える白熊型のエボルモンスターが、雪を掻き分けて走ってきた。


 毛皮の下には黒い瘴気が脈打ち、口からは凍りついた唾液が垂れている。


 その背後には、甲殻をまとった小型の怪物たち。


 さらに後方では、帝国兵が魔導弩を構えていた。


「来るぞ!」


 兵士が叫ぶ。


 イレーネは、躊躇なく城壁から飛び降りた。


「イレーネ様!」


 雪が跳ね上がる。


 白い地面へ降り立った彼女の足元から、薄い氷が広がった。


 剣を掲げる。


「――フロスト・エンチャントブレード」


 青白い氷が、剣身を包んだ。


 刃から零れた冷気が、空気そのものを凍らせる。


 白熊型のエボルモンスターが、両腕を広げて迫る。


 爪が振り下ろされる。


 イレーネは半歩だけ身を引いた。


「清流剣・受け流し」


 剣が、怪物の爪へ触れる。


 だが、巨大な腕は本来とは違う方向へ逸れた。


 凍った地面へ深く突き刺さる。


 巨体が、勢いのまま横へ流れた。


 イレーネはその死角へ入り込む。


「アイスランス」


 彼女の左手から、何本もの氷槍が生まれた。


 青い槍は一直線に飛び、怪物の肩と脚を貫く。


 黒い血が雪へ飛び散る前に、凍りついた。


 白熊型の怪物が吠える。


 その声を掻き消すように、イレーネは剣を振るう。


「清流剣・打ち落とし」


 氷の刃が、怪物の首元へ滑り込んだ。


 巨体が崩れる。


 雪原が揺れる。


 だが、イレーネは倒れた怪物を見ない。


 後方の帝国兵が、魔導弩の照準を城壁へ向けていた。


「撃たせない」


 イレーネは地面を蹴った。


 蒼い残光を引いて、雪原を駆ける。


 その姿は速い。


 だが、急いでいるようには見えなかった。


 必要な場所へ、最短距離で届く。


 それが、彼女の剣だった。


 帝国兵たちが引き金を引く。


 青白い光弾が、いくつも飛ぶ。


 イレーネは剣を横に払った。


 氷の壁が生まれる。


 光弾が、氷の壁へぶつかる。


 爆ぜた魔力が、雪を巻き上げる。


 その白い幕の中から、イレーネが現れた。


「下がって」


 短い声。


 帝国兵たちが剣を抜く。


 だが、遅かった。


 蒼い剣閃が走る。


 連続で。


 剣閃は縦横無尽に走り回った。


「清流剣・水鳥の乱舞」


 大勢の帝国兵たちが、一斉に雪の上へ落ちた。


 間髪入れず、イレーネは後方へ跳んでいた。


 甲殻の怪物たちが、城門へ迫っている。


 彼女は左手を広げる。


「連続詠唱――アイスランス」


 今度は数が違った。


 数十本の氷槍が、吹雪を切り裂く。


 怪物たちの脚を、腹を、地面を貫く。


 雪原の上に、青い氷柱が並ぶ。


 進軍は止まった。


「今」


 イレーネの声が、城壁まで届く。


「前へ」


「第一列、前進!」


 マクシムの指揮が飛ぶ。


 ロアーナ兵が城門から出撃する。


 イヴァンは槍を振り回しながら、笑った。


「聞いたか! 姫様が前へってさ!」


「死ぬなよ!」


「そっちこそ!」


 兵たちは、イレーネが止めた敵へ突撃した。


 雪と氷の戦場に、ロアーナの旗が進む。


「ええい!撤退だ!!」


 帝国軍ロアーナ方面司令官グリゴールは悔しさを滲ませた。


 やがて帝国軍は退いた。


     * * *


 戦いの後、フロストウォールの外には凍りついた静けさが残った。


 血はすぐに固まり、黒い染みになって雪へ沈む。


 折れた槍。


 砕けた魔導弩。


 氷の中へ閉じ込められた怪物の爪。


 兵士たちは、黙ってそれらを片づけていた。


「北側、負傷者三名。命に別状なし」


「東門の民は、全員避難済みです」


「よし」


 マクシムが短く返す。


 イレーネは、城壁の下で剣を拭っていた。


 ティアラの光はまだ穏やかだった。


 イヴァンが、毛皮の襟についた雪を払って近づく。


「いやあ、今日も綺麗に決まりましたね」


「何が」


「氷槍ですよ。あと、俺の援護」


「後者は違う」


「ひどい」


 イヴァンが笑う。


 イレーネは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その時、マクシムが近づいてきた。


「姫様」


「何」


「腕を」


 言われて、イレーネは自分の左腕を見た。


 鎧の隙間に、小さな裂け目がある。


 いつできた傷か、自分でも覚えていなかった。


「これくらい」


「放置する傷ではありません」


「大丈夫」


「大丈夫ではありません」


 マクシムの声は静かだった。


 だが、その静かさの奥に焦りがあった。


 イレーネは一度だけ目を伏せる。


「……分かった」


 マクシムが持ってきた布を受け取る。


 傷は浅い。


 けれど、血は確かに出ている。


 イレーネが傷を隠そうとするたび、彼はそれに気づく。


 それが少しだけ、困る。


「姫様」


 マクシムが低く言った。


「あなた一人で、すべてを受ける必要はありません」


「受けてない」


「受けています」


「……」


「私たちにも、守らせてください」


 吹雪の中で、イレーネは返事をしなかった。


 やがて、少しだけ視線を逸らす。


「あなたたちは、もう十分やってる」


 それだけ言って、彼女は歩き出した。


 マクシムは、その背中を見送る。


 手袋の下で、拳を強く握った。


     * * *


 ロアーナは、それからも何度も帝国軍を退けた。


 帝国が占拠した魔鉱石採掘場を奪還した。


 北部の村を襲ったエボルモンスターを討った。


 氷結した街道に置かれた帝国の魔導砲を、雪崩と氷壁で封じた。


 イレーネが前へ出れば、敵は止まった。


 蒼い剣が振るわれるたび、進軍は凍った。


 民は彼女をこう呼んだ。


 永久凍土の守護神。


 白い大地に立つ、蒼き姫騎士。


 だが、イレーネ自身はその名を嫌った。


「守護神なんて、困る」


 夜の見張り台で、彼女は小さく言った。


「まだ、その域じゃない」


「いやいや、十分その域っしょ」


 イヴァンが軽く口をはさむ。


「そんなに張りつめてないで、今夜くらい食事でも」


「嫌い」


「まだ言うんすか」


 イヴァンの軽口に、周囲の兵が笑う。


 その笑い声の少し離れた場所で、マクシムは木剣を振っていた。


 夜の訓練場。


 雪が降っている。


 何度も。


 何度も。


 木剣を振る。


 手のひらの皮が裂け、血が革手袋へ滲んでいた。


 それでも、止めない。


 イレーネが前へ出るたび、守られる。


 傷を負うたび、見ているしかない。


 それが、耐えられなかった。


「……マクシム」


 背後から声がした。


 彼は振り返る。


 イレーネが立っていた。


 白い外套を羽織り、湯気の立つ杯を二つ持っている。


「姫様」


「手」


「大丈夫です」


「見せて」


「これくらい」


「見せて」


 彼女の声は強くなかった。


 だが、断れる声でもなかった。


 マクシムは、黙って手袋を外す。


 血で裂けた手のひら。


 イレーネは何も言わなかった。


 ただ、自分の外套の内側から新しい革手袋を取り出した。


「これ」


「……私にですか」


「サイズは合うと思う」


「いつ」


「前に見た」


 マクシムは、言葉を失った。


 イレーネは視線を逸らす。


「手が使えなければ、剣を握れない」


「……ありがとうございます」


「礼はいらない」


 それだけ言って、イレーネは踵を返した。


 数歩進んでから、振り返らずに言う。


「明日も早い。休んで」


 雪は、二人の間へ静かに積もっていった。


     * * *


 帝国大戦艦の司令室は、氷原とは違う冷たさを持っていた。


 鉄の壁。


 魔導灯。


 地図の上を走る赤い光。


 ロアーナ北部の採掘場と防衛線には、いくつもの印がついていた。


 帝国軍の敗北を示す印だった。


「また押し返されました」


 ロアーナ方面司令官グリゴールが、震える声で報告する。


「フロストウォールも、タイガフォレストも。姫騎士イレーネが出るたび、部隊が壊滅しています」


 司令室の中央に立つ、黒い外套の女は何も言わなかった。


 暗黒の姫騎士。


 仮面の奥から、地図を見下ろしている。


「魔導砲を増やしますか、総司令」


「意味がない」


 短い声が返る。


「正面から当たれば、また凍らされる」


「では、どうすれば」


 暗黒の姫騎士は、地図の上に置かれた小さな駒へ指を伸ばす。


 イレーネ。


 その周囲に、二つの駒がある。


 イヴァン。


 マクシム。


「イレーネ自身には触れるな」


 グリゴールが、顔を上げた。


「ですが……」


「あれは、部下を守る時、自分を捨てる」


 仮面の女の指が、二つの駒をゆっくりと押した。


「狙うべきは、あの女の手が届く者たちだ」


 グリゴールは、息を呑む。


「部下を……」


「庇わせろ」


 声は低い。


「疲弊させろ」


 地図の上の駒が、黒い指先の下で倒れる。


「無防備で出て来た時だけ、叩け」


 グリゴールの口元が、わずかに歪んだ。


「了解しました」


     * * *


 タイガフォレスト。


 ロアーナ北方の針葉樹林は、冬になれば白い迷宮になる。


 高い木々の枝には雪が積もり、風が吹くたびに白い粉が降る。


 昼でも暗い。


 道は細く、見通しは悪い。


 イレーネは、少数の親衛隊を連れて森を進んでいた。


 前を行くのはイヴァン。


 後ろを守るのはマクシム。


 いつもの配置だった。


「静かっすね」


 イヴァンが言う。


「静かすぎる」


 イレーネは短く返した。


 雪を踏む音。


 馬の鼻息。


 木々が軋む音。


 それ以外は、何もない。


 その時、左側の森で枝が折れた。


「伏せて!」


 イレーネが叫ぶ。


 次の瞬間、黒い影が飛び出した。


 豹に似たエボルモンスター。


 だが、身体の半分が甲殻に覆われ、尾の先には鋭い骨の刃が生えている。


 怪物はイレーネを無視した。


 まっすぐ、イヴァンへ飛ぶ。


「俺?」


 イヴァンが槍を構える。


 だが、怪物の速度が速すぎる。


 その前へ、イレーネが入った。


 剣が、怪物の爪を受ける。


 火花ではなく、氷の欠片が散った。


「下がって」


 イレーネは怪物を斬り伏せる。


 だが、すぐに別の影が木々の間から飛び出す。


 今度はマクシムへ。


「マクシム!」


 彼は剣で受けた。


 しかし、怪物の重さに押され、雪へ膝をつく。


 イレーネが走る。


「アイスランス」


 氷槍が、怪物の肩を貫く。


 マクシムの前へ倒れる巨体。


 その背後から、さらに二体。


 いや、三体。


 四体。


 怪物たちは、イレーネを避ける。


 彼女の隣をすり抜け、イヴァンとマクシムだけを狙ってくる。


「姫様、こいつら!」


「分かってる」


 イレーネの表情が、僅かに硬くなる。


 敵は自分へ来ない。


 自分の剣の届かない場所を、選んでいる。


 イヴァンが後方へ跳ぶ。


「俺、結構人気者っすね!」


「喋るな!」


 イレーネの声が飛ぶ。


 怪物の尾が、イヴァンの肩を掠めた。


 血が散る。


 イレーネは、迷わず間へ入った。


 自分の肩へ、別の怪物の爪が食い込む。


「姫様!」


 マクシムの叫び。


「大丈夫」


 イレーネは短く言った。


 だが、鎧の肩当てが割れ、血が雪へ落ちている。


 怪物たちはさらに襲いかかる。


 イレーネは、一歩も退かなかった。


「……ブリザードレイン」


 空気が、変わった。


 森の上に、蒼い雲が生まれる。


 次の瞬間、氷の雨が降った。


 細く鋭い氷の粒が、怪物たちの身体へ突き刺さる。


 木々が凍る。


 雪が、さらに深く白くなる。


 エボルモンスターたちは動きを止め、氷の彫像のように倒れた。


 静寂が戻る。


 イレーネは剣を下ろした。


 そのまま、一歩だけよろめく。


 マクシムが駆け寄り、身体を支えた。


「姫様」


「平気」


「平気ではありません」


 イヴァンも、肩の傷を押さえながら近づく。


「俺たちのために、また傷を」


「気にしないで」


 イレーネは、二人を見る。


「二人が生きているなら、それでいい」


 マクシムは、唇を噛んだ。


「申し訳ありません」


「謝らないで」


「ですが、私たちが弱いばかりに」


「違う」


 イレーネは、少しだけ強く言った。


「敵が、そうさせた」


 彼女は凍りついた怪物たちを見る。


 黒い瘴気が、氷の中でゆっくりと揺れている。


「次から、もっと近くにいて」


 その言葉を聞いたマクシムは、胸の奥が痛くなった。


 近くにいればいい。


 もっと強くなればいい。


 そう思うのに。


 結局、姫様は自分たちを庇うのだ。


     * * *


 ホワイトフィールドは、ロアーナ中部に広がる大氷原だった。


 見渡す限り、白。


 雪。


 氷。


 空。


 地平線の向こうまで、何もない。


 そこへ帝国軍が押し寄せた。


 歩兵。


 騎兵。


 魔導砲。


 エボルモンスター。


 黒い軍勢は、白い大地を埋め尽くしていた。


「防衛線、第三列まで突破されました!」


「西側の部隊が後退しています!」


「東の丘でも、帝国の旗が!」


 ロアーナ軍は、数で押されていた。


 イレーネは、前線中央に立っている。


 剣には氷。


 頬には、いつついたのか分からない小さな傷。


 後ろには、疲れ切った兵士たち。


 前には、終わりの見えない敵。


「姫様!」


 イヴァンの声がした。


 左側。


 帝国の大型エボルモンスターが、イヴァンの部隊へ突っ込んでいる。


 右側。


 マクシムのいる防衛線へ、魔導砲の集中砲火が向けられている。


 二人が、別々の場所で追い詰められていた。


 イレーネは、歯を食いしばる。


 マクシムの声。


「こちらも、持ちません!」


 どちらへ行く。


 どちらを助ける。


 選べない。


「……両方」


 イレーネは呟いた。


 次の瞬間、彼女は走った。


 まず左。


 イヴァンの前へ滑り込む。


「清流剣・受け流し」


 大型エボルモンスターの突進を逸らす。


 巨体が横へ流れ、雪原を大きく抉った。


「アイスランス!」


 氷槍が、怪物の脚を貫く。


 イヴァンが槍を突き出し、怪物の喉へ一撃を入れる。


「ひゅ~助かりました!」


「右へ行く!」


 返事を待たず、イレーネは走る。


 だが、右側へ向かう途中で、地面の下から黒い触手が伸びた。


 雪を割って現れたそれは、巨大な軟体型エボルモンスターの腕だった。


 一本。


 二本。


 三本。


 触手が、イレーネの足と腕へ絡みつく。


「……っ!」


 魔力が吸われる。


 ティアラの魔力の光が、激しく明滅した。


 触手の先端には黒い穴があり、そこから冷たい瘴気が流れ込んでくる。


 イレーネは剣を振るう。


 一本を断つ。


 だが、別の触手が腰へ巻きつく。


 身体が引かれる。


「姫様!」


 マクシムの声。


 轟音。


 防壁が砕け、飛び散った氷と石の破片が、マクシムの脇腹を裂いた。


「……っ!」


 彼は膝をつきながらも、剣を支えに立ち上がる。


 かなりの深手だったが、イレーネを援護しようと、マクシムは歩を進める。


 遠い。


 イヴァンも、別方向から追いつこうとしている。


 間に合わない。


 イレーネは、触手に引かれながら二人を見る。


 自分が倒れれば、二人が来る。


 二人が来れば、敵は二人を狙う。


 なら。


「下がって」


 イレーネの声は、吹雪の中へ消えそうだった。


「二人とも、下がって」


「できません!」


 マクシムが叫ぶ。


「あなたを置いてなど――!」


「命令」


 その一言に、マクシムの足が止まった。


 イレーネは、ティアラへ手を伸ばす。


 ティアラが、彼女の指へ触れた。


 冷たい。


 けれど、その奥には深い水のような力がある。


「……私が、止める」


 魔力が、一気に溢れた。


 ティアラが眩い蒼光を放つ。


 空が暗くなる。


 白い雲が、氷原の上に集まる。


 風が止まった。


 次の瞬間。


「アブソリュート・ゼロ!」


 空から、氷の嵐が降り注いだ。


 雨ではない。


 雪でもない。


 絶対零度の氷の嵐だった。


 全てが凍る。


 帝国兵。


 魔導砲。


 エボルモンスター。


 黒い軍勢を、白い大地ごと凍らせていく。


 地平線の彼方まで。


 氷の嵐が、止まらない。


「姫様!」


 イヴァンが叫ぶ。


 だが、声は氷嵐へ呑まれる。


 触手の怪物も、凍りついた。


 イレーネの身体を締めつけていた腕が、氷の塊となって砕ける。


 彼女は雪原へ落ちた。


 剣を握ったまま。


 ティアラの光だけを、最後まで放ちながら。


     * * *


 目を覚ました時、天井があった。


 白い布。


 揺れる灯り。


 薬の匂い。


「……ここは」


「後方の野営地です」


 マクシムの声だった。


 彼は寝台の傍らに座っていた。


 目の下に、深い隈がある。


 イヴァンは少し離れた場所で、包帯を巻かれた肩を押さえていた。


「三日、眠っていました」


 イレーネは目を閉じる。


 三日。


「敵は」


「ホワイトフィールドの軍勢は、退いたっす」


 イヴァンが答えた。


「姫様のおかげっす」


「……みんなは」


「生きています」


 マクシムの声が、少しだけ震えた。


 イレーネは、ゆっくり息を吐いた。


「よかった」


 その直後、ティアラが鈍く光った。


 青い光は不安定に揺れ、すぐに消える。


 イレーネは眉を寄せた。


「安定してない」


「無理をしすぎたんです」


 マクシムが言う。


「ティアラの魔力が暴発したんです。今のままで、次に同じ規模の戦いになれば――」


「分かってる」


 イレーネは短く答えた。


 視線を天井へ向ける。


「……ティアラを完全体にしたい」


 マクシムとイヴァンが、顔を上げた。


「時間が、ない」


 ロアーナに残された古い研究記録には、ひとつの場所が記されていた。


 氷河湖の中央に浮かぶ島。


 その島の地下にある、クリスタルティア迷宮。


 水のティアラを完全体へ導く、魔水晶のかけら。


 それが、そこに眠っている。


     * * *


 出発の日。


 マクシムは、鎧を着ていた。


 ホワイトフィールドで負った傷は、まだ深い。


 脇腹には包帯が巻かれ、歩くたびに顔色が変わる。


 それでも、彼は剣を帯びていた。


「私も行きます」


 イレーネは、答えなかった。


 氷河湖へ向かうための小さな船が、岸辺に用意されている。


 風は冷たい。


 湖面は厚い氷に覆われ、その中央に、白い島が浮かんでいた。


 クリスタルティア迷宮の入口がある島。


「姫様」


 マクシムが、もう一度言う。


「私は戦えます」


「戦えない」


「戦えます」


「無理」


 イレーネの声は、静かだった。


 けれど、否定の余地がなかった。


 マクシムは拳を握る。


「……また、守られるだけですか」


 風が吹く。


 氷の湖面を、雪が横へ流れる。


 イレーネはすぐに答えなかった。


 やがて、マクシムの前へ一歩近づく。


「違う」


 彼女は言った。


「私たちの帰る場所を、あなたが守る役」


 マクシムが顔を上げる。


「信頼していなければ、それは託せない」


 彼は、言葉を失った。


 イレーネは視線を逸らす。


「……戻ってくる」


 それだけ言って、船へ乗った。


 イヴァンと、少数の親衛隊が続く。


 マクシムは岸に立ったまま、船を見送った。


 雪が降る。


 白い湖。


 遠ざかる蒼い髪。


 彼は、何もできなかった。


 ただ、握った拳から血が滲むほど、指を強く握りしめた。


     * * *


 氷河湖の中央にある島は、近づくほど不気味だった。


 木はない。


 鳥もいない。


 白い岩と氷だけが積み重なり、島の中央には古い石造りの建物が半分だけ顔を出している。


 クリスタルティア迷宮の入口。


 凍りついた神殿の門。


 その前に立つ石像たちは、雪を被り、長い年月を誰にも見られずに過ごしてきたようだった。


「嫌な場所っすね」


 イヴァンが小さく言う。


「静かすぎる」


 イレーネは答えた。


 船が、島へ続く航路の半ばに差しかかった。


 その時。


 湖面の下で、何かが動いた。


「止まって!」


 イレーネが叫ぶ。


 遅かった。


 氷が割れた。


 水柱が上がる。


 巨大な魚型のエボルモンスターが、船の横から飛び出した。


 口の中には幾重もの牙。


 胴体には、黒い瘴気が絡みついている。


 さらに、別の場所でも氷が割れる。


 一体。


 二体。


 三体。


 水中型の怪物たちが、船を囲んだ。


「帝国軍ですか!?」


「待ち伏せ」


 イレーネは剣を構える。


「先回りされた」


 怪物の尾が、船体を叩く。


 木材が軋む。


 親衛隊の一人が、湖へ投げ出された。


「助けろ!」


 イヴァンが飛び込もうとする。


 だが、別の怪物が水面から現れ、彼の脚へ噛みついた。


「っ……!」


「イヴァン!」


 イレーネは氷槍を放つ。


 怪物の頭を貫く。


 だが、その間に別の怪物が親衛隊を押さえつける。


 氷の上へ引きずり出され、武器を奪われる。


 イレーネが一歩踏み出す。


 その前に、黒い剣が地面へ突き刺さった。


 氷が割れる。


 暗い影が、島の手前の氷原に立っていた。


 黒い外套。


 暗黒の仮面。


 その背後には、帝国兵たち。


 魔導弩を構え、親衛隊とイヴァンへ向けている。


「誰?……お前」


 イレーネの声が低くなる。


「暗黒の姫騎士、と呼ばれている」


 女は、わずかに首を傾けた。


「この者たちの命と引き換えに、投降しろ、イレーネ」


 イヴァンが、脚を押さえながら叫ぶ。


「俺たちのことはいい! 姫様は行ってくれ!」


「黙れ!」


 帝国兵が、イヴァンの背へ槍を向ける。


 親衛隊の一人も、氷の上で押さえつけられている。


 誰も動けない。


 イレーネの剣は、まだ氷をまとっている。


 ティアラも、弱いながら光っている。


 戦えば勝てるかもしれない。


 目の前の敵だけなら。


 暗黒の姫騎士へ届くまでに、数人を失うかもしれない。


 その数人を、イレーネは数えられなかった。


 数にできなかった。


 イヴァンが歯を食いしばる。


「行けって言ってるだろ……!」


「嫌」


 イレーネは、短く答えた。


 剣を下ろす。


 氷が、刃から消えていく。


「……剣を置く」


 白い氷の上へ、剣が落ちた。


 乾いた音が、凍った湖へ響く。


「だから、部下には触れないで」


 彼女は額のティアラへ手を伸ばす。


 指が、触れる。


 手が震えていた。


 それでも、外す。


 水のティアラが、ゆっくりと彼女の手の中へ落ちる。


 その光が、弱く揺れる。


「命令」


 イレーネは、イヴァンと親衛隊を見る。


 声は静かだった。


 けれど、今までで一番強かった。


「生きて」


 暗黒の姫騎士が、帝国兵へ頷く。


 黒い拘束具が運ばれてくる。


 首輪。


 両手の鎖。


 足首の枷。


 イレーネは抵抗しなかった。


 ただ、イヴァンたちから目を離さなかった。


 水のティアラは、暗黒の姫騎士の手へ渡る。


 その瞬間、イレーネの周囲から冷気の魔力が消えた。


 そして、吹雪だけが残った。


     * * *


 コキュートス島は、海図の端にさえ記されない。


 ロアーナ北東の海。


 流氷のさらに向こう。


 冬の海が一年中、凍りついたままの場所。


 島へ近づく船は、海面を割る氷の音しか聞かない。


 波は低い。


 風は強い。


 けれど、その風さえ遠くから吹いているように感じる。


 島全体が、世界から切り離されていた。


 白い崖。


 黒い岩。


 凍った海。


 空はいつも鈍い灰色で、太陽が出ても暖かさは届かない。


 鳥は飛ばない。


 草も生えない。


 誰かが声を上げても、雪へ吸い込まれてしまう。


 コキュートス島の地下収容区画は、氷河の内部に穿たれていた。


 入口には厚い鉄扉があり、その外側を何層もの氷が覆っている。


 扉が閉じれば、外の海も空も、もう見えない。


 中へ入ると、冷気は肌を刺すものではなく、骨の奥へ沈むものになる。


 石壁は濡れている。


 だが、落ちた水滴は床へ届く前に凍る。


 天井から垂れた氷柱には、青白い魔導灯の光が歪んで映る。


 廊下の奥には、いくつもの鉄格子が並んでいた。


 どの独房も狭い。


 どの床も、薄い氷で覆われている。


 暖炉はない。


 火の気はない。


 聞こえるのは、遠くの氷河が軋む音だけだった。


 ぐ、ぐ、と。


 地面の下で、巨大な何かが眠りながら歯を噛み合わせているような音。


 時々、壁の向こうで氷が割れる。


 そのたび、空気が震える。


 誰かの叫びに似た音がする。


 けれど、それが氷の音なのか、本当に誰かの声なのか、分からない。


 イレーネは、独房の奥に座っていた。


 両手は鎖で壁へ繋がれている。


 足首には、重い枷。


 首には、黒い金属の首輪。


 首輪には封印の紋様が刻まれていた。


 小さな魔力さえ動かそうとすれば、青白い火花が走り、全身の力が抜ける。


 何度か、氷を作ろうとした。


 指先へ、わずかな冷気を集めようとした。


 だが、そのたびに首輪が光る。


 痛みは鋭くない。


 冷たい。


 冷たすぎて、痛みと呼べるものさえ奪っていく。


 指先に生まれた小さな霜は、すぐに消えた。


 イレーネは、その霜が消えるまで見つめていた。


 鎧は傷ついていた。


 肩当てには、タイガフォレストで受けた爪痕。


 胸元には、ホワイトフィールドの触手が残した黒い汚れ。


 外套は失われ、白銀の鎧の隙間へ、地下の冷気が容赦なく入り込む。


 けれど、寒いとは言わなかった。


 言葉にすれば、その寒さが自分の中へ入り込んでしまう気がした。


 独房の外。


 石の台の上に、水のティアラが置かれていた。


 それだけが、氷の世界の中でわずかに光っている。


 だが、その光はイレーネへ届かない。


 鉄格子。


 鎖。


 首輪。


 冷たい床。


 そのすべてが、ティアラと彼女の間に横たわっている。


 あれはロアーナの守りだった。


 氷原を越えてきた民の希望だった。


 自分が何度も剣を抜いた理由だった。


 なのに今は、ただ遠い。


 イレーネは目を閉じた。


 イヴァンは生きているだろうか。


 親衛隊は。


 マクシムは、帰る場所を守れているだろうか。


 思い浮かぶ顔が、ひとつずつ白い霧の中へ消えそうになる。


 その時。


 廊下の奥から、足音がした。


 氷の床を踏む音。


 ゆっくりと。


 一定の速さで。


 迷いなく近づいてくる。


 暗黒の姫騎士が、独房の前に立った。


 仮面の奥は見えない。


 けれど、イレーネは顔を上げた。


 彼女は、もう目を逸らさなかった。


 暗黒の姫騎士は、石の台に置かれた水のティアラを手に取る。


 ティアラが、黒い手袋の上で弱く瞬いた。


「部下を庇いすぎたな」


 イレーネは答えない。


「一見冷たいが、お前は誰より情に脆い」


 氷河が、遠くで軋む。


 ぐ、ぐ、と。


 壁の中の氷が、ゆっくり割れる。


「それがお前の敗因だ、イレーネ」


 イレーネの指が、鎖を握り、口を開いた。


「殺せ」


 短く言い放つ。


 鉄が冷たい。


 指先の感覚は、ほとんど残っていない。


 それでも、握る。


「お前は殺さん。お前の部下たちもな。互いの命を案じる限り、お前たちは勝手な真似もできまい」


「卑劣!」


「これは試合ではない。勝った方が正義となる」


 暗黒の姫騎士が薄く笑ったような気がした。


「ティアラはこちらで預かる」


 暗黒の姫騎士は、首輪へ目を向けた。


「お前の力も、もう使えない」


 イレーネは、静かに息を吸った。


 白い吐息が、すぐに霧となって消える。


「……私が剣を置いたのは」


 声は、少し掠れていた。


 けれど、震えてはいなかった。


「負けたからじゃない」


 暗黒の姫騎士は、動かなかった。


「みんなを、生かすため」


 イレーネは、青いティアラを見つめる。


「その選択を、後悔はしない」


 長い沈黙が落ちた。


 コキュートス島の地下で。


 氷の壁が、また低く軋む。


 暗黒の姫騎士はしばらく、イレーネを見ていた。


 やがて、低い声で言った。


「諦めろ」


「……」


「お前は負けたのだ」


 イレーネは、返事をしなかった。


 ただ、目を伏せた。


 泣かなかった。


 怒鳴らなかった。


 鎖を引きちぎろうとも、しなかった。


 けれど、その沈黙は、折れた者の沈黙ではない。


 自分が守った命を、胸の中で数えている者の沈黙だった。


 暗黒の姫騎士は背を向ける。


 鉄扉が閉まる。


 重い音が、冷たい廊下へ響いた。


 その音は、氷河の奥まで届いたように思えた。


 再び、独房は静かになる。


 青白い魔導灯。


 凍った石床。


 壁に繋がれた鎖。


 遠くの海。


 遠くの空。


 遠くのロアーナ。


 すべてが、氷の向こう側にあった。


 水の姫騎士は、誰にも届かない冷気の中に残された。


 それでも、目を閉じる直前。


 イレーネは、ほんの少しだけ唇を動かした。


「……生きて」


 それは、イヴァンへ。


 マクシムへ。


 名も知らない兵たちへ。


 そして、自分自身へ向けた命令だった。


 氷の島の地下で、蒼き姫騎士の光は奪われた。


 世界から一つ、大国の光が消えた。


――この日、ロアーナは陥落した。

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