第4話「蒼き姫騎士、墜つ」
雪は、音を奪う。
ロアーナ北方国境、防衛要塞フロストウォール。
夜明け前の空はまだ黒く、雪原と空との境目さえ曖昧だった。
城壁の外には、白い吹雪の向こうから無数の影が近づいている。
甲殻を持つ獣。
異形の脚で雪を掻き分ける巨体。
人の形をしていながら、腕だけが異様に長い怪物。
黒い瘴気を纏ったエボルモンスターたちが、氷を踏み砕きながら要塞へ迫っていた。
「敵前衛、距離三百!」
「魔導砲、充填急げ!」
「北側斜面にも反応があります!」
兵士たちの声は、寒さで白く凍りつく。
その中で、一人の伝令兵が、雪を踏みしめながら司令台へ駆け上がった。
「急報です!」
彼は息を切らし、凍りかけた手で通信板を差し出した。
「エスティア王都、陥落!」
周囲の兵が息を呑む。
「炎の姫騎士リーザ、消息不明!」
吹雪が、より強くなったように思えた。
フロストウォールの指揮官たちは、誰もすぐに言葉を返せなかった。
エスティアは、魔法研究と魔導技術で名を馳せた国だった。
その国が落ちた。
炎の姫騎士が、消えた。
「……嘘だろ」
若い兵士が呟く。
「イルファリアに続いて、エスティアまで……」
恐怖は、音もなく広がる。
雪原へ落ちた黒い墨のように。
そんな兵たちの前へ、一人の少女が歩み出た。
白銀の鎧。
ショートカットの蒼い髪。
額には、水を湛えたような青いティアラが静かに輝いている。
その瞳は、吹雪の中でも凍らない湖のように澄んでいた。
水のティアラを受け継いだ、蒼き姫騎士、イレーネ。
「報せは、受け取った」
声は低く、静かだった。
だが、兵士たちにはそれで十分だった。
「エスティアが落ちたなら、次はロアーナだと思っている者もいる」
イレーネは城壁の外を見た。
黒い軍勢。
雪を汚す瘴気。
遥か向こうで、帝国の魔導装甲機が鈍い光を放っている。
「でも、まだここは落ちていない」
彼女は剣を抜いた。
冷たい朝の光を受け、刃が青白く輝く。
「なら、守る」
短い言葉だった。
だが、兵たちの背筋が伸びた。
イレーネは城壁の端へ立つ。
その隣に、軽い足取りで青年が現れた。
薄茶色の長髪。
少し軽薄そうな笑み。
雪の上でも変わらない、明るい声。
「イレーネ様。今夜くらいは、俺と食事でもどうっすか?」
イレーネは横目だけを向けた。
「……隊長としては信頼してる」
「お。悪くない滑り出しっすね」
「でも、人としては嫌い」
「そこまで言いますぅ?」
周囲の兵士たちに、少しだけ笑いが起こる。
青年の名はイヴァン。
イレーネ親衛隊の隊長だった。
その少し後ろで、もう一人の青年が静かに剣を抜く。
背は高い。
黒い外套の下から見える顔は真面目で、笑うことが少ない。
手袋をつけた両手で、剣の柄を確かめている。
マクシム。
親衛隊副隊長の若き騎士だった。
「姫様」
マクシムが言う。
「前へ出すぎないでください」
「分かってる」
「本当にですか」
「……分かってる」
ほんの少しだけ、イレーネの声が詰まる。
イヴァンが肩をすくめた。
「マクシム。姫様にそれ言って聞くなら、俺たちも苦労しないだろ」
「黙れ」
「へいへい」
その時、城壁の下で何かが吠えた。
雪原が揺れる。
全長十メートルを超える白熊型のエボルモンスターが、雪を掻き分けて走ってきた。
毛皮の下には黒い瘴気が脈打ち、口からは凍りついた唾液が垂れている。
その背後には、甲殻をまとった小型の怪物たち。
さらに後方では、帝国兵が魔導弩を構えていた。
「来るぞ!」
兵士が叫ぶ。
イレーネは、躊躇なく城壁から飛び降りた。
「イレーネ様!」
雪が跳ね上がる。
白い地面へ降り立った彼女の足元から、薄い氷が広がった。
剣を掲げる。
「――フロスト・エンチャントブレード」
青白い氷が、剣身を包んだ。
刃から零れた冷気が、空気そのものを凍らせる。
白熊型のエボルモンスターが、両腕を広げて迫る。
爪が振り下ろされる。
イレーネは半歩だけ身を引いた。
「清流剣・受け流し」
剣が、怪物の爪へ触れる。
だが、巨大な腕は本来とは違う方向へ逸れた。
凍った地面へ深く突き刺さる。
巨体が、勢いのまま横へ流れた。
イレーネはその死角へ入り込む。
「アイスランス」
彼女の左手から、何本もの氷槍が生まれた。
青い槍は一直線に飛び、怪物の肩と脚を貫く。
黒い血が雪へ飛び散る前に、凍りついた。
白熊型の怪物が吠える。
その声を掻き消すように、イレーネは剣を振るう。
「清流剣・打ち落とし」
氷の刃が、怪物の首元へ滑り込んだ。
巨体が崩れる。
雪原が揺れる。
だが、イレーネは倒れた怪物を見ない。
後方の帝国兵が、魔導弩の照準を城壁へ向けていた。
「撃たせない」
イレーネは地面を蹴った。
蒼い残光を引いて、雪原を駆ける。
その姿は速い。
だが、急いでいるようには見えなかった。
必要な場所へ、最短距離で届く。
それが、彼女の剣だった。
帝国兵たちが引き金を引く。
青白い光弾が、いくつも飛ぶ。
イレーネは剣を横に払った。
氷の壁が生まれる。
光弾が、氷の壁へぶつかる。
爆ぜた魔力が、雪を巻き上げる。
その白い幕の中から、イレーネが現れた。
「下がって」
短い声。
帝国兵たちが剣を抜く。
だが、遅かった。
蒼い剣閃が走る。
連続で。
剣閃は縦横無尽に走り回った。
「清流剣・水鳥の乱舞」
大勢の帝国兵たちが、一斉に雪の上へ落ちた。
間髪入れず、イレーネは後方へ跳んでいた。
甲殻の怪物たちが、城門へ迫っている。
彼女は左手を広げる。
「連続詠唱――アイスランス」
今度は数が違った。
数十本の氷槍が、吹雪を切り裂く。
怪物たちの脚を、腹を、地面を貫く。
雪原の上に、青い氷柱が並ぶ。
進軍は止まった。
「今」
イレーネの声が、城壁まで届く。
「前へ」
「第一列、前進!」
マクシムの指揮が飛ぶ。
ロアーナ兵が城門から出撃する。
イヴァンは槍を振り回しながら、笑った。
「聞いたか! 姫様が前へってさ!」
「死ぬなよ!」
「そっちこそ!」
兵たちは、イレーネが止めた敵へ突撃した。
雪と氷の戦場に、ロアーナの旗が進む。
「ええい!撤退だ!!」
帝国軍ロアーナ方面司令官グリゴールは悔しさを滲ませた。
やがて帝国軍は退いた。
* * *
戦いの後、フロストウォールの外には凍りついた静けさが残った。
血はすぐに固まり、黒い染みになって雪へ沈む。
折れた槍。
砕けた魔導弩。
氷の中へ閉じ込められた怪物の爪。
兵士たちは、黙ってそれらを片づけていた。
「北側、負傷者三名。命に別状なし」
「東門の民は、全員避難済みです」
「よし」
マクシムが短く返す。
イレーネは、城壁の下で剣を拭っていた。
ティアラの光はまだ穏やかだった。
イヴァンが、毛皮の襟についた雪を払って近づく。
「いやあ、今日も綺麗に決まりましたね」
「何が」
「氷槍ですよ。あと、俺の援護」
「後者は違う」
「ひどい」
イヴァンが笑う。
イレーネは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その時、マクシムが近づいてきた。
「姫様」
「何」
「腕を」
言われて、イレーネは自分の左腕を見た。
鎧の隙間に、小さな裂け目がある。
いつできた傷か、自分でも覚えていなかった。
「これくらい」
「放置する傷ではありません」
「大丈夫」
「大丈夫ではありません」
マクシムの声は静かだった。
だが、その静かさの奥に焦りがあった。
イレーネは一度だけ目を伏せる。
「……分かった」
マクシムが持ってきた布を受け取る。
傷は浅い。
けれど、血は確かに出ている。
イレーネが傷を隠そうとするたび、彼はそれに気づく。
それが少しだけ、困る。
「姫様」
マクシムが低く言った。
「あなた一人で、すべてを受ける必要はありません」
「受けてない」
「受けています」
「……」
「私たちにも、守らせてください」
吹雪の中で、イレーネは返事をしなかった。
やがて、少しだけ視線を逸らす。
「あなたたちは、もう十分やってる」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
マクシムは、その背中を見送る。
手袋の下で、拳を強く握った。
* * *
ロアーナは、それからも何度も帝国軍を退けた。
帝国が占拠した魔鉱石採掘場を奪還した。
北部の村を襲ったエボルモンスターを討った。
氷結した街道に置かれた帝国の魔導砲を、雪崩と氷壁で封じた。
イレーネが前へ出れば、敵は止まった。
蒼い剣が振るわれるたび、進軍は凍った。
民は彼女をこう呼んだ。
永久凍土の守護神。
白い大地に立つ、蒼き姫騎士。
だが、イレーネ自身はその名を嫌った。
「守護神なんて、困る」
夜の見張り台で、彼女は小さく言った。
「まだ、その域じゃない」
「いやいや、十分その域っしょ」
イヴァンが軽く口をはさむ。
「そんなに張りつめてないで、今夜くらい食事でも」
「嫌い」
「まだ言うんすか」
イヴァンの軽口に、周囲の兵が笑う。
その笑い声の少し離れた場所で、マクシムは木剣を振っていた。
夜の訓練場。
雪が降っている。
何度も。
何度も。
木剣を振る。
手のひらの皮が裂け、血が革手袋へ滲んでいた。
それでも、止めない。
イレーネが前へ出るたび、守られる。
傷を負うたび、見ているしかない。
それが、耐えられなかった。
「……マクシム」
背後から声がした。
彼は振り返る。
イレーネが立っていた。
白い外套を羽織り、湯気の立つ杯を二つ持っている。
「姫様」
「手」
「大丈夫です」
「見せて」
「これくらい」
「見せて」
彼女の声は強くなかった。
だが、断れる声でもなかった。
マクシムは、黙って手袋を外す。
血で裂けた手のひら。
イレーネは何も言わなかった。
ただ、自分の外套の内側から新しい革手袋を取り出した。
「これ」
「……私にですか」
「サイズは合うと思う」
「いつ」
「前に見た」
マクシムは、言葉を失った。
イレーネは視線を逸らす。
「手が使えなければ、剣を握れない」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
それだけ言って、イレーネは踵を返した。
数歩進んでから、振り返らずに言う。
「明日も早い。休んで」
雪は、二人の間へ静かに積もっていった。
* * *
帝国大戦艦の司令室は、氷原とは違う冷たさを持っていた。
鉄の壁。
魔導灯。
地図の上を走る赤い光。
ロアーナ北部の採掘場と防衛線には、いくつもの印がついていた。
帝国軍の敗北を示す印だった。
「また押し返されました」
ロアーナ方面司令官グリゴールが、震える声で報告する。
「フロストウォールも、タイガフォレストも。姫騎士イレーネが出るたび、部隊が壊滅しています」
司令室の中央に立つ、黒い外套の女は何も言わなかった。
暗黒の姫騎士。
仮面の奥から、地図を見下ろしている。
「魔導砲を増やしますか、総司令」
「意味がない」
短い声が返る。
「正面から当たれば、また凍らされる」
「では、どうすれば」
暗黒の姫騎士は、地図の上に置かれた小さな駒へ指を伸ばす。
イレーネ。
その周囲に、二つの駒がある。
イヴァン。
マクシム。
「イレーネ自身には触れるな」
グリゴールが、顔を上げた。
「ですが……」
「あれは、部下を守る時、自分を捨てる」
仮面の女の指が、二つの駒をゆっくりと押した。
「狙うべきは、あの女の手が届く者たちだ」
グリゴールは、息を呑む。
「部下を……」
「庇わせろ」
声は低い。
「疲弊させろ」
地図の上の駒が、黒い指先の下で倒れる。
「無防備で出て来た時だけ、叩け」
グリゴールの口元が、わずかに歪んだ。
「了解しました」
* * *
タイガフォレスト。
ロアーナ北方の針葉樹林は、冬になれば白い迷宮になる。
高い木々の枝には雪が積もり、風が吹くたびに白い粉が降る。
昼でも暗い。
道は細く、見通しは悪い。
イレーネは、少数の親衛隊を連れて森を進んでいた。
前を行くのはイヴァン。
後ろを守るのはマクシム。
いつもの配置だった。
「静かっすね」
イヴァンが言う。
「静かすぎる」
イレーネは短く返した。
雪を踏む音。
馬の鼻息。
木々が軋む音。
それ以外は、何もない。
その時、左側の森で枝が折れた。
「伏せて!」
イレーネが叫ぶ。
次の瞬間、黒い影が飛び出した。
豹に似たエボルモンスター。
だが、身体の半分が甲殻に覆われ、尾の先には鋭い骨の刃が生えている。
怪物はイレーネを無視した。
まっすぐ、イヴァンへ飛ぶ。
「俺?」
イヴァンが槍を構える。
だが、怪物の速度が速すぎる。
その前へ、イレーネが入った。
剣が、怪物の爪を受ける。
火花ではなく、氷の欠片が散った。
「下がって」
イレーネは怪物を斬り伏せる。
だが、すぐに別の影が木々の間から飛び出す。
今度はマクシムへ。
「マクシム!」
彼は剣で受けた。
しかし、怪物の重さに押され、雪へ膝をつく。
イレーネが走る。
「アイスランス」
氷槍が、怪物の肩を貫く。
マクシムの前へ倒れる巨体。
その背後から、さらに二体。
いや、三体。
四体。
怪物たちは、イレーネを避ける。
彼女の隣をすり抜け、イヴァンとマクシムだけを狙ってくる。
「姫様、こいつら!」
「分かってる」
イレーネの表情が、僅かに硬くなる。
敵は自分へ来ない。
自分の剣の届かない場所を、選んでいる。
イヴァンが後方へ跳ぶ。
「俺、結構人気者っすね!」
「喋るな!」
イレーネの声が飛ぶ。
怪物の尾が、イヴァンの肩を掠めた。
血が散る。
イレーネは、迷わず間へ入った。
自分の肩へ、別の怪物の爪が食い込む。
「姫様!」
マクシムの叫び。
「大丈夫」
イレーネは短く言った。
だが、鎧の肩当てが割れ、血が雪へ落ちている。
怪物たちはさらに襲いかかる。
イレーネは、一歩も退かなかった。
「……ブリザードレイン」
空気が、変わった。
森の上に、蒼い雲が生まれる。
次の瞬間、氷の雨が降った。
細く鋭い氷の粒が、怪物たちの身体へ突き刺さる。
木々が凍る。
雪が、さらに深く白くなる。
エボルモンスターたちは動きを止め、氷の彫像のように倒れた。
静寂が戻る。
イレーネは剣を下ろした。
そのまま、一歩だけよろめく。
マクシムが駆け寄り、身体を支えた。
「姫様」
「平気」
「平気ではありません」
イヴァンも、肩の傷を押さえながら近づく。
「俺たちのために、また傷を」
「気にしないで」
イレーネは、二人を見る。
「二人が生きているなら、それでいい」
マクシムは、唇を噛んだ。
「申し訳ありません」
「謝らないで」
「ですが、私たちが弱いばかりに」
「違う」
イレーネは、少しだけ強く言った。
「敵が、そうさせた」
彼女は凍りついた怪物たちを見る。
黒い瘴気が、氷の中でゆっくりと揺れている。
「次から、もっと近くにいて」
その言葉を聞いたマクシムは、胸の奥が痛くなった。
近くにいればいい。
もっと強くなればいい。
そう思うのに。
結局、姫様は自分たちを庇うのだ。
* * *
ホワイトフィールドは、ロアーナ中部に広がる大氷原だった。
見渡す限り、白。
雪。
氷。
空。
地平線の向こうまで、何もない。
そこへ帝国軍が押し寄せた。
歩兵。
騎兵。
魔導砲。
エボルモンスター。
黒い軍勢は、白い大地を埋め尽くしていた。
「防衛線、第三列まで突破されました!」
「西側の部隊が後退しています!」
「東の丘でも、帝国の旗が!」
ロアーナ軍は、数で押されていた。
イレーネは、前線中央に立っている。
剣には氷。
頬には、いつついたのか分からない小さな傷。
後ろには、疲れ切った兵士たち。
前には、終わりの見えない敵。
「姫様!」
イヴァンの声がした。
左側。
帝国の大型エボルモンスターが、イヴァンの部隊へ突っ込んでいる。
右側。
マクシムのいる防衛線へ、魔導砲の集中砲火が向けられている。
二人が、別々の場所で追い詰められていた。
イレーネは、歯を食いしばる。
マクシムの声。
「こちらも、持ちません!」
どちらへ行く。
どちらを助ける。
選べない。
「……両方」
イレーネは呟いた。
次の瞬間、彼女は走った。
まず左。
イヴァンの前へ滑り込む。
「清流剣・受け流し」
大型エボルモンスターの突進を逸らす。
巨体が横へ流れ、雪原を大きく抉った。
「アイスランス!」
氷槍が、怪物の脚を貫く。
イヴァンが槍を突き出し、怪物の喉へ一撃を入れる。
「ひゅ~助かりました!」
「右へ行く!」
返事を待たず、イレーネは走る。
だが、右側へ向かう途中で、地面の下から黒い触手が伸びた。
雪を割って現れたそれは、巨大な軟体型エボルモンスターの腕だった。
一本。
二本。
三本。
触手が、イレーネの足と腕へ絡みつく。
「……っ!」
魔力が吸われる。
ティアラの魔力の光が、激しく明滅した。
触手の先端には黒い穴があり、そこから冷たい瘴気が流れ込んでくる。
イレーネは剣を振るう。
一本を断つ。
だが、別の触手が腰へ巻きつく。
身体が引かれる。
「姫様!」
マクシムの声。
轟音。
防壁が砕け、飛び散った氷と石の破片が、マクシムの脇腹を裂いた。
「……っ!」
彼は膝をつきながらも、剣を支えに立ち上がる。
かなりの深手だったが、イレーネを援護しようと、マクシムは歩を進める。
遠い。
イヴァンも、別方向から追いつこうとしている。
間に合わない。
イレーネは、触手に引かれながら二人を見る。
自分が倒れれば、二人が来る。
二人が来れば、敵は二人を狙う。
なら。
「下がって」
イレーネの声は、吹雪の中へ消えそうだった。
「二人とも、下がって」
「できません!」
マクシムが叫ぶ。
「あなたを置いてなど――!」
「命令」
その一言に、マクシムの足が止まった。
イレーネは、ティアラへ手を伸ばす。
ティアラが、彼女の指へ触れた。
冷たい。
けれど、その奥には深い水のような力がある。
「……私が、止める」
魔力が、一気に溢れた。
ティアラが眩い蒼光を放つ。
空が暗くなる。
白い雲が、氷原の上に集まる。
風が止まった。
次の瞬間。
「アブソリュート・ゼロ!」
空から、氷の嵐が降り注いだ。
雨ではない。
雪でもない。
絶対零度の氷の嵐だった。
全てが凍る。
帝国兵。
魔導砲。
エボルモンスター。
黒い軍勢を、白い大地ごと凍らせていく。
地平線の彼方まで。
氷の嵐が、止まらない。
「姫様!」
イヴァンが叫ぶ。
だが、声は氷嵐へ呑まれる。
触手の怪物も、凍りついた。
イレーネの身体を締めつけていた腕が、氷の塊となって砕ける。
彼女は雪原へ落ちた。
剣を握ったまま。
ティアラの光だけを、最後まで放ちながら。
* * *
目を覚ました時、天井があった。
白い布。
揺れる灯り。
薬の匂い。
「……ここは」
「後方の野営地です」
マクシムの声だった。
彼は寝台の傍らに座っていた。
目の下に、深い隈がある。
イヴァンは少し離れた場所で、包帯を巻かれた肩を押さえていた。
「三日、眠っていました」
イレーネは目を閉じる。
三日。
「敵は」
「ホワイトフィールドの軍勢は、退いたっす」
イヴァンが答えた。
「姫様のおかげっす」
「……みんなは」
「生きています」
マクシムの声が、少しだけ震えた。
イレーネは、ゆっくり息を吐いた。
「よかった」
その直後、ティアラが鈍く光った。
青い光は不安定に揺れ、すぐに消える。
イレーネは眉を寄せた。
「安定してない」
「無理をしすぎたんです」
マクシムが言う。
「ティアラの魔力が暴発したんです。今のままで、次に同じ規模の戦いになれば――」
「分かってる」
イレーネは短く答えた。
視線を天井へ向ける。
「……ティアラを完全体にしたい」
マクシムとイヴァンが、顔を上げた。
「時間が、ない」
ロアーナに残された古い研究記録には、ひとつの場所が記されていた。
氷河湖の中央に浮かぶ島。
その島の地下にある、クリスタルティア迷宮。
水のティアラを完全体へ導く、魔水晶のかけら。
それが、そこに眠っている。
* * *
出発の日。
マクシムは、鎧を着ていた。
ホワイトフィールドで負った傷は、まだ深い。
脇腹には包帯が巻かれ、歩くたびに顔色が変わる。
それでも、彼は剣を帯びていた。
「私も行きます」
イレーネは、答えなかった。
氷河湖へ向かうための小さな船が、岸辺に用意されている。
風は冷たい。
湖面は厚い氷に覆われ、その中央に、白い島が浮かんでいた。
クリスタルティア迷宮の入口がある島。
「姫様」
マクシムが、もう一度言う。
「私は戦えます」
「戦えない」
「戦えます」
「無理」
イレーネの声は、静かだった。
けれど、否定の余地がなかった。
マクシムは拳を握る。
「……また、守られるだけですか」
風が吹く。
氷の湖面を、雪が横へ流れる。
イレーネはすぐに答えなかった。
やがて、マクシムの前へ一歩近づく。
「違う」
彼女は言った。
「私たちの帰る場所を、あなたが守る役」
マクシムが顔を上げる。
「信頼していなければ、それは託せない」
彼は、言葉を失った。
イレーネは視線を逸らす。
「……戻ってくる」
それだけ言って、船へ乗った。
イヴァンと、少数の親衛隊が続く。
マクシムは岸に立ったまま、船を見送った。
雪が降る。
白い湖。
遠ざかる蒼い髪。
彼は、何もできなかった。
ただ、握った拳から血が滲むほど、指を強く握りしめた。
* * *
氷河湖の中央にある島は、近づくほど不気味だった。
木はない。
鳥もいない。
白い岩と氷だけが積み重なり、島の中央には古い石造りの建物が半分だけ顔を出している。
クリスタルティア迷宮の入口。
凍りついた神殿の門。
その前に立つ石像たちは、雪を被り、長い年月を誰にも見られずに過ごしてきたようだった。
「嫌な場所っすね」
イヴァンが小さく言う。
「静かすぎる」
イレーネは答えた。
船が、島へ続く航路の半ばに差しかかった。
その時。
湖面の下で、何かが動いた。
「止まって!」
イレーネが叫ぶ。
遅かった。
氷が割れた。
水柱が上がる。
巨大な魚型のエボルモンスターが、船の横から飛び出した。
口の中には幾重もの牙。
胴体には、黒い瘴気が絡みついている。
さらに、別の場所でも氷が割れる。
一体。
二体。
三体。
水中型の怪物たちが、船を囲んだ。
「帝国軍ですか!?」
「待ち伏せ」
イレーネは剣を構える。
「先回りされた」
怪物の尾が、船体を叩く。
木材が軋む。
親衛隊の一人が、湖へ投げ出された。
「助けろ!」
イヴァンが飛び込もうとする。
だが、別の怪物が水面から現れ、彼の脚へ噛みついた。
「っ……!」
「イヴァン!」
イレーネは氷槍を放つ。
怪物の頭を貫く。
だが、その間に別の怪物が親衛隊を押さえつける。
氷の上へ引きずり出され、武器を奪われる。
イレーネが一歩踏み出す。
その前に、黒い剣が地面へ突き刺さった。
氷が割れる。
暗い影が、島の手前の氷原に立っていた。
黒い外套。
暗黒の仮面。
その背後には、帝国兵たち。
魔導弩を構え、親衛隊とイヴァンへ向けている。
「誰?……お前」
イレーネの声が低くなる。
「暗黒の姫騎士、と呼ばれている」
女は、わずかに首を傾けた。
「この者たちの命と引き換えに、投降しろ、イレーネ」
イヴァンが、脚を押さえながら叫ぶ。
「俺たちのことはいい! 姫様は行ってくれ!」
「黙れ!」
帝国兵が、イヴァンの背へ槍を向ける。
親衛隊の一人も、氷の上で押さえつけられている。
誰も動けない。
イレーネの剣は、まだ氷をまとっている。
ティアラも、弱いながら光っている。
戦えば勝てるかもしれない。
目の前の敵だけなら。
暗黒の姫騎士へ届くまでに、数人を失うかもしれない。
その数人を、イレーネは数えられなかった。
数にできなかった。
イヴァンが歯を食いしばる。
「行けって言ってるだろ……!」
「嫌」
イレーネは、短く答えた。
剣を下ろす。
氷が、刃から消えていく。
「……剣を置く」
白い氷の上へ、剣が落ちた。
乾いた音が、凍った湖へ響く。
「だから、部下には触れないで」
彼女は額のティアラへ手を伸ばす。
指が、触れる。
手が震えていた。
それでも、外す。
水のティアラが、ゆっくりと彼女の手の中へ落ちる。
その光が、弱く揺れる。
「命令」
イレーネは、イヴァンと親衛隊を見る。
声は静かだった。
けれど、今までで一番強かった。
「生きて」
暗黒の姫騎士が、帝国兵へ頷く。
黒い拘束具が運ばれてくる。
首輪。
両手の鎖。
足首の枷。
イレーネは抵抗しなかった。
ただ、イヴァンたちから目を離さなかった。
水のティアラは、暗黒の姫騎士の手へ渡る。
その瞬間、イレーネの周囲から冷気の魔力が消えた。
そして、吹雪だけが残った。
* * *
コキュートス島は、海図の端にさえ記されない。
ロアーナ北東の海。
流氷のさらに向こう。
冬の海が一年中、凍りついたままの場所。
島へ近づく船は、海面を割る氷の音しか聞かない。
波は低い。
風は強い。
けれど、その風さえ遠くから吹いているように感じる。
島全体が、世界から切り離されていた。
白い崖。
黒い岩。
凍った海。
空はいつも鈍い灰色で、太陽が出ても暖かさは届かない。
鳥は飛ばない。
草も生えない。
誰かが声を上げても、雪へ吸い込まれてしまう。
コキュートス島の地下収容区画は、氷河の内部に穿たれていた。
入口には厚い鉄扉があり、その外側を何層もの氷が覆っている。
扉が閉じれば、外の海も空も、もう見えない。
中へ入ると、冷気は肌を刺すものではなく、骨の奥へ沈むものになる。
石壁は濡れている。
だが、落ちた水滴は床へ届く前に凍る。
天井から垂れた氷柱には、青白い魔導灯の光が歪んで映る。
廊下の奥には、いくつもの鉄格子が並んでいた。
どの独房も狭い。
どの床も、薄い氷で覆われている。
暖炉はない。
火の気はない。
聞こえるのは、遠くの氷河が軋む音だけだった。
ぐ、ぐ、と。
地面の下で、巨大な何かが眠りながら歯を噛み合わせているような音。
時々、壁の向こうで氷が割れる。
そのたび、空気が震える。
誰かの叫びに似た音がする。
けれど、それが氷の音なのか、本当に誰かの声なのか、分からない。
イレーネは、独房の奥に座っていた。
両手は鎖で壁へ繋がれている。
足首には、重い枷。
首には、黒い金属の首輪。
首輪には封印の紋様が刻まれていた。
小さな魔力さえ動かそうとすれば、青白い火花が走り、全身の力が抜ける。
何度か、氷を作ろうとした。
指先へ、わずかな冷気を集めようとした。
だが、そのたびに首輪が光る。
痛みは鋭くない。
冷たい。
冷たすぎて、痛みと呼べるものさえ奪っていく。
指先に生まれた小さな霜は、すぐに消えた。
イレーネは、その霜が消えるまで見つめていた。
鎧は傷ついていた。
肩当てには、タイガフォレストで受けた爪痕。
胸元には、ホワイトフィールドの触手が残した黒い汚れ。
外套は失われ、白銀の鎧の隙間へ、地下の冷気が容赦なく入り込む。
けれど、寒いとは言わなかった。
言葉にすれば、その寒さが自分の中へ入り込んでしまう気がした。
独房の外。
石の台の上に、水のティアラが置かれていた。
それだけが、氷の世界の中でわずかに光っている。
だが、その光はイレーネへ届かない。
鉄格子。
鎖。
首輪。
冷たい床。
そのすべてが、ティアラと彼女の間に横たわっている。
あれはロアーナの守りだった。
氷原を越えてきた民の希望だった。
自分が何度も剣を抜いた理由だった。
なのに今は、ただ遠い。
イレーネは目を閉じた。
イヴァンは生きているだろうか。
親衛隊は。
マクシムは、帰る場所を守れているだろうか。
思い浮かぶ顔が、ひとつずつ白い霧の中へ消えそうになる。
その時。
廊下の奥から、足音がした。
氷の床を踏む音。
ゆっくりと。
一定の速さで。
迷いなく近づいてくる。
暗黒の姫騎士が、独房の前に立った。
仮面の奥は見えない。
けれど、イレーネは顔を上げた。
彼女は、もう目を逸らさなかった。
暗黒の姫騎士は、石の台に置かれた水のティアラを手に取る。
ティアラが、黒い手袋の上で弱く瞬いた。
「部下を庇いすぎたな」
イレーネは答えない。
「一見冷たいが、お前は誰より情に脆い」
氷河が、遠くで軋む。
ぐ、ぐ、と。
壁の中の氷が、ゆっくり割れる。
「それがお前の敗因だ、イレーネ」
イレーネの指が、鎖を握り、口を開いた。
「殺せ」
短く言い放つ。
鉄が冷たい。
指先の感覚は、ほとんど残っていない。
それでも、握る。
「お前は殺さん。お前の部下たちもな。互いの命を案じる限り、お前たちは勝手な真似もできまい」
「卑劣!」
「これは試合ではない。勝った方が正義となる」
暗黒の姫騎士が薄く笑ったような気がした。
「ティアラはこちらで預かる」
暗黒の姫騎士は、首輪へ目を向けた。
「お前の力も、もう使えない」
イレーネは、静かに息を吸った。
白い吐息が、すぐに霧となって消える。
「……私が剣を置いたのは」
声は、少し掠れていた。
けれど、震えてはいなかった。
「負けたからじゃない」
暗黒の姫騎士は、動かなかった。
「みんなを、生かすため」
イレーネは、青いティアラを見つめる。
「その選択を、後悔はしない」
長い沈黙が落ちた。
コキュートス島の地下で。
氷の壁が、また低く軋む。
暗黒の姫騎士はしばらく、イレーネを見ていた。
やがて、低い声で言った。
「諦めろ」
「……」
「お前は負けたのだ」
イレーネは、返事をしなかった。
ただ、目を伏せた。
泣かなかった。
怒鳴らなかった。
鎖を引きちぎろうとも、しなかった。
けれど、その沈黙は、折れた者の沈黙ではない。
自分が守った命を、胸の中で数えている者の沈黙だった。
暗黒の姫騎士は背を向ける。
鉄扉が閉まる。
重い音が、冷たい廊下へ響いた。
その音は、氷河の奥まで届いたように思えた。
再び、独房は静かになる。
青白い魔導灯。
凍った石床。
壁に繋がれた鎖。
遠くの海。
遠くの空。
遠くのロアーナ。
すべてが、氷の向こう側にあった。
水の姫騎士は、誰にも届かない冷気の中に残された。
それでも、目を閉じる直前。
イレーネは、ほんの少しだけ唇を動かした。
「……生きて」
それは、イヴァンへ。
マクシムへ。
名も知らない兵たちへ。
そして、自分自身へ向けた命令だった。
氷の島の地下で、蒼き姫騎士の光は奪われた。
世界から一つ、大国の光が消えた。
――この日、ロアーナは陥落した。
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