第3話「因果の小屋」
朝の光は、森の木々を越えてから小屋へ届いた。
窓から差し込むそれは細く、床板の上に淡い線を描いている。
レフィーナは、その光をぼんやりと見つめていた。
身体を起こすと、まだ脇腹が痛んだ。
けれど昨日ほどではない。
寝台の傍らには、泥を洗い落とされた剣が立てかけられていた。
西へ逃げる途中、近衛騎士から渡された剣。
レフィーナは、震える手でその柄に触れた。
冷たい。
見慣れた王城の武器庫にあった剣とは違う。飾り気のない、実戦のためだけに作られた剣だった。
それでも、あの日のことを思い出させるには十分だった。
雨。
叫び声。
崩れる崖。
そして、姉の背中。
「……お姉様」
声にしても、返事はない。
暖炉の前では、ランドルフが朝の火を整えていた。
昨日と同じ茶色のローブ。
昨日と同じ、背中を丸めた姿。
だが今朝は、暖炉の脇に小さな木箱が置かれていることに、レフィーナは気づいた。
濃い色の木でできた箱だった。
古びてはいるが、丁寧に手入れされている。
蓋には、金色の紋章が刻まれていた。
翼を広げた獅子と、その中央に置かれた太陽。
イルファリア王家の紋章。
「……それは」
ランドルフの手が止まった。
しばらく、暖炉の火だけが揺れていた。
「起きておったか」
「はい」
レフィーナは箱から目を離せなかった。
「どうして、その箱を……?」
ランドルフは答えず、木の杯へ温かい薬湯を注いだ。
昨夜よりも少し薄い、薬草の匂い。
「先に飲め。苦いぞ」
「答えてください」
思ったより強い声が出た。
ランドルフは、ゆっくり振り返った。
細い眼鏡の奥の目が、まっすぐレフィーナを見ている。
「私の名前を知っていました」
レフィーナは続けた。
「お姉様のことも。イルファリアのことも」
両手を膝の上で握る。
「あなたは、誰なんですか」
ランドルフは、長く息を吐いた。
そして、暖炉の前に置かれていた古い椅子を引き、レフィーナの寝台のそばへ座った。
「わしは、元イルファリア近衛騎士じゃ」
レフィーナの目が見開かれる。
「近衛騎士……?」
「若い頃はな。王の傍で剣を振るっておった」
ランドルフは、自分の手を見る。
節くれ立った手だった。
剣を握ってきた者の手にも見えた。
だが同時に、紙をめくり、水晶を扱い、薬草を刻んできた者の手にも見えた。
「だが、戦場で足を悪くしてからは、ティアラの研究へ回された。魔力の流れ、古代の記録、魔水晶の性質……そういうものを調べる役目じゃ」
「ティアラの……研究を」
「そうじゃ」
レフィーナの視線が、木箱へ向かう。
ランドルフは、その視線を追った。
「そして、あの箱を預かった」
「誰からですか」
「ジェラームス王からじゃ」
レフィーナは息を呑んだ。
父の名だった。
いつも穏やかに笑っていた父。
姉との剣の稽古で、自分が泣くと、何も言わず頭を撫でてくれた父。
王としての父は、いつも遠かった。
けれど家族としての父は、確かにいた。
「お父様が……」
「あの方は、最後まで迷っておられた」
ランドルフは言った。
「何を信じ、何を守るべきか。王としての答えと、父としての答えが、いつも同じとは限らんからな」
レフィーナは、言葉を失った。
小屋の外で、鳥が一羽鳴いた。
澄んだ声だった。
けれど、その声さえ遠く感じる。
「レフィーナ」
ランドルフが、静かに名を呼んだ。
「お主は、ヒルダ様とマリア様のことを、どこまで知っておる」
レフィーナは少し考えた。
「ヒルダ様は……お姉様のお母様です」
「うむ」
「ガルギア王国の血を引いていると、聞いたことがあります」
「それだけか」
「はい」
ランドルフは頷いた。
「マリア様は?」
「私の母です」
そこで、レフィーナは少しだけ微笑んだ。
すぐに、その笑みは消えた。
「私が小さい頃に、亡くなりました」
「そうじゃったな」
ランドルフの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「マリア様は純イルファリアの家柄の方じゃった。ヒルダ様は、ガルギア王家に連なる血を引く正妻。お二人とも、ジェラームス王の妃だった」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
「二人の妃がいたことで、王宮には二つの派閥が生まれた」
レフィーナは、唇を噛む。
「ヒルダ様の派閥と……母の派閥」
「正確には、そう呼ばれておった」
ランドルフは首を横に振った。
「だが、ヒルダ様とマリア様ご本人が、互いを憎み合っていたわけではない」
「……そうなんですか」
「わしは、お二人が同じ席で話している姿を何度も見た。子供たちのことも、国のこともな」
ランドルフは、遠いものを見るように目を細めた。
「ヒルダ様は強い方じゃった。だが、強さを振りかざす方ではない。マリア様は優しい方じゃった。だが、ただ誰かへ従うだけの方でもない」
レフィーナは、母の顔をほとんど覚えていない。
けれど、柔らかな手の感触だけは覚えている。
眠る前、額へ触れてくれた手。
熱を出した時、何度も髪を撫でてくれた手。
「では、どうして……」
言葉が続く前に、ランドルフが答えた。
「周りが、お二人を争わせたのじゃ」
その声には、怒りよりも深い疲れがあった。
「ヒルダ様がガルギアの血を引くことを恐れる者がいた。ガルギアには王位を継ぐ者が少なく、国内の争いも激しかった。だからいつか、ヒルダ様を通じてイルファリアへ手を伸ばすのではないか、と」
「でも、ヒルダ様は……」
「そうじゃ。本人がそう望んだ証拠はない」
ランドルフは、きっぱりと言った。
「だが、噂は証拠がなくとも広がる。恐れる者にとっては、それだけで十分だった」
レフィーナの胸が重くなる。
「ヒルダ様の派閥が、光のティアラをガルギアへ渡すつもりだ」
ランドルフは、かつて囁かれていた言葉を、低く繰り返した。
「そんな噂が王宮を巡った」
「それは……本当だったんですか」
「分からん」
ランドルフは、すぐに答えた。
「今となっては、確かめようがない。誰かが意図して流したのか。本当にそう企んだ者がいたのか。ただ恐れた者たちが、勝手に膨らませたのか」
少し間を置く。
「だが、ひとつだけ確かなことがある」
ランドルフは、箱を見た。
「大人たちは、その噂を恐れた」
レフィーナの視線も、箱へ向く。
「そして恐れは、誰かを信じるより先に、疑う理由になる」
小屋の中が、急に狭く感じられた。
王城の広い廊下。
華やかな宴。
笑顔で頭を下げていた貴族たち。
その裏で、皆が互いの血筋や生まれを数え、誰が何を奪うかを考えていたのだろうか。
「光のティアラは……」
レフィーナが、かすれた声で言った。
「お姉様が継ぐはずだったものですよね」
「そうなるはずじゃった」
ランドルフは、木箱の蓋へ手を置く。
「だが王と、保守派の重臣たちは恐れた。本物の光のティアラが、王宮の争いへ巻き込まれることを」
「だから……隠したんですか」
「うむ」
「お姉様には……」
レフィーナの声が震える。
「お姉様には、何を渡したんですか」
ランドルフは、一度だけ目を伏せた。
「レプリカじゃ」
その言葉は、小屋の中へ重く落ちた。
「外見も、儀式のための反応も、本物に似せて作られた代替品」
「お姉様は、知らなかったんですか」
「知らなかった」
レフィーナの胸の奥で、何かが軋んだ。
姉は、何も知らずに叙任式へ立った。
皆に祝福され、光の姫騎士として剣を受け取った。
けれど、その頭に載せられたものは、本物ではなかった。
姉を守るためだったのか。
姉を疑っていたからなのか。
どちらにしても、姉は選ばせてもらえなかった。
「……ひどいです」
レフィーナの口から、ぽつりと零れた。
「お姉様は、何も悪くないのに」
「悪くない」
ランドルフは言った。
「ヒルダ様も。マリア様も。レイルライン殿も。そして、お主もな」
レフィーナは顔を上げる。
「因果とは、誰か一人の悪意だけでは生まれん」
ランドルフの声は、静かだった。
「恐れた者。疑った者。黙った者。守るつもりで隠した者」
老人の指が、木箱の上をゆっくりとなぞる。
「その選択が積み重なって、今のお主をここへ連れてきた」
レフィーナは、何も言えなかった。
怒りたかった。
父へ。
王宮の大人たちへ。
名前も知らない派閥の者たちへ。
けれど、怒りだけでは何も戻らないことも、どこかで分かっていた。
母も。
ヒルダも。
姉も。
自分も。
皆、何かを奪われていた。
「では、この箱の中にあるのは……」
「本物の光のティアラじゃ」
ランドルフは、静かに木箱へ手を置いた。
「王都から遠ざけ、誰の目にも触れさせぬために、わしはこの森で守ってきたのじゃ」
ランドルフは、ようやく蓋を開けた。
小屋の中に、淡い金色の光が広がった。
まぶしいほどではない。
けれど、暖炉の火とは違う。
炎のように揺れない。
朝の光のように、静かにそこにある。
箱の中には、細い金の輪が納められていた。
装飾は少ない。
中央に、小さな透明な宝石がひとつ。
けれどその宝石の奥には、夜明けの空を閉じ込めたような光が宿っていた。
レフィーナは、息を止めた。
「……きれい」
それだけしか言えなかった。
「光のティアラは、血だけで選ぶものではない」
ランドルフが言う。
「王家の血を受け継ぐ者の、心と意志に応じる。守りたいものを持つ者へ、力を貸す」
ランドルフは、箱をレフィーナに差し出した。
「私に……?」
レフィーナは、すぐに首を横に振った。
「無理です」
自分の手を見る。
まだ震えている。
剣を握ることさえ、まともにできない。
「私は、何もできません」
「触れてみい」
「でも……」
「触れてみい」
ランドルフの声は、強かった。
レフィーナは、恐る恐る手を伸ばす。
指先が、冷たい金属へ触れた。
その瞬間。
透明な宝石の奥で、淡い光が揺れた。
小さな金色の粒が、レフィーナの指先へ移る。
暖かい。
暖炉の火とは違う。
誰かの手に包まれた時のような、静かな温かさだった。
「……お姉様」
思わず、名を呼んだ。
光が少しだけ強くなる。
けれどすぐに、弱くなった。
完全には応えない。
レフィーナには、それが分かった。
「やっぱり……私は」
「急ぐな」
ランドルフが言った。
「これは剣ではない。握った瞬間、すべてを変えてくれる道具でもない」
レフィーナの手から、金色の光が消えていく。
「お主は、レイルライン殿になれぬ」
その言葉に、レフィーナは俯いた。
けれどランドルフは、続けた。
「ならんでよい」
レフィーナは顔を上げる。
「レイルライン殿になれとは言わん」
ランドルフは、まっすぐ彼女を見た。
「お主は、お主の光になればよい」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
姉のようにならなければいけないと思っていた。
姉より強くならなければ。
姉の代わりに、皆を守らなければ。
そうでなければ、生き残った意味がないと思っていた。
けれど。
自分は、姉ではない。
姉のように強くない。
姉のように迷いなく剣を振るえない。
それでも。
お姉様を助けたい。
もう誰にも、あんなふうに大切な人を奪われてほしくない。
その思いだけは、姉のものではない。
自分のものだ。
レフィーナは、光のティアラを両手で持ち上げた。
まだ重い。
小さな輪なのに、国の過去も、父の迷いも、姉が知らずに背負わされたものも、すべてがそこへ積もっているようだった。
「私……」
声が震える。
「私、まだ……何もできていません」
ランドルフは黙って聞いている。
「お姉様を助けることも、国のみんなを守ることも……何も」
レフィーナは、光のティアラを胸へ抱いた。
「だから、強くなりたいです」
涙が滲んだ。
けれど、昨日のように崩れ落ちる涙ではなかった。
「力を貸してください」
ランドルフは、長い間、何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ目を細めた。
懐かしいものを見るように。
痛みを思い出すように。
「……マリア様も、お主のような方じゃった」
レフィーナは顔を上げる。
「お母様を、知っているんですか」
「知っておる」
ランドルフは短く答えた。
「誰かの涙を見れば、見なかったことにはできん方じゃった」
それ以上は語らなかった。
けれど、その一言だけで十分だった。
レフィーナは、光のティアラをそっと箱へ戻す。
そして、寝台の端へ手をついた。
「何をする気じゃ」
「立ちます」
「まだ傷が」
「立てます」
レフィーナは、ゆっくりと足へ力を入れた。
脇腹が痛む。
膝が震える。
視界が揺れる。
それでも、手を離さない。
寝台の柱を掴み、身体を起こす。
一度、足がもつれた。
床へ倒れそうになる。
だが、レフィーナは歯を食いしばった。
「立てます」
もう一度、言った。
今度は自分へ言い聞かせるように。
震える足が、床を踏みしめる。
不安定ながらも、レフィーナは立っていた。
ランドルフは、しばらくその姿を見つめた。
それから、小さく笑った。
「わしの修行は苛烈じゃ」
レフィーナは、まだ息を整えながら頷く。
「泣いても、逃げても、手を止めることは許さん」
「……はい」
「朝は早い。剣だけではない。走らせる。転ばせる。飯も作らせる」
レフィーナは、一瞬だけ目を瞬いた。
「ご飯も……ですか?」
「生きるためのことをできぬ者が、誰かを守れるものか」
ランドルフは、少しだけ口元を緩めた。
「ならば明朝から始めるぞ。姫騎士見習い」
レフィーナは、箱の中の光を見た。
まだ弱い。
自分も弱い。
何ひとつ、取り戻してはいない。
それでも。
「はい」
声は、昨日より少しだけまっすぐだった。
小屋の外では、森を渡る風が、木々の葉を揺らしていた。
その朝、レフィーナは初めて、自分の足で立っていた。
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