第2話「目覚め」
暗闇の底で、誰かが自分の名前を呼んでいた。
――レフィーナ。
遠い。
けれど、聞き間違えるはずのない声だった。
――レフィーナ、走れ!
雨が降っていた。
冷たい雨だった。
山道は泥に埋もれ、足を滑らせるたび、崖の下から黒い闇が口を開けていた。
後ろでは、剣戟の音がした。
叫び声。
魔法が弾ける音。
そして、炎。
「お姉様……!」
振り返った先で、レイルラインが立っていた。
濡れた長い髪を背に張りつかせ、剣を構えている。
敵の姿は、暗くてよく見えなかった。
ただ、あの人の背中だけが見えた。
いつもよりずっと小さく見えた。
「行け!」
「嫌です!」
「レフィーナ!」
雷鳴が空を裂く。
崖が崩れた。
足元の土が消えた。
伸ばした手は、届かなかった。
「お姉様――!」
冷たい水が、全身を呑み込んだ。
* * *
「お姉様は……!?」
レフィーナは跳ね起きた。
胸が苦しい。
呼吸がうまくできない。
全身が痛んだ。特に肩と脇腹が、焼けるように痛い。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
「レイルラインお姉様は、どこですか……!?」
返事はすぐにはなかった。
聞こえたのは、薪が爆ぜる小さな音だけだった。
ぱちり、と。
ゆっくり周囲を見る。
知らない部屋だった。
天井は低く、太い木の梁がむき出しになっている。壁は古びた板張りで、隙間から朝の淡い光が差し込んでいた。
寝ていたのは、粗末だが清潔な寝台だった。
身体には、見覚えのない白い布がかけられている。
薬草の匂いがした。
少し苦く、けれどどこか懐かしいような、乾いた草の匂い。
寝台の傍らには、泥を洗い落とされた一本の剣が立てかけられていた。
近衛騎士から渡された、あの剣だった。
部屋の隅には本が積まれ、棚には瓶詰めの薬草や小さな水晶、古い地図が並んでいる。
窓の外には、深い森が広がっていた。
城の白い壁も、王都の高い塔もない。
燃える空も、戦う人々の姿もない。
「……ここは」
「起き上がるな」
低い声がした。
暖炉の前に、一人の老人がいた。
白い髪。
使い込まれた茶色のローブ。
細い眼鏡の奥にある目は鋭いが、今は怒っているようには見えなかった。
小さな鍋で、何かを煎じている。
「まずは横になりなされ」
「あなたは……誰ですか」
「ランドルフじゃ」
老人は鍋の中身を木の杯へ注いだ。
「お主を川から引き上げた者でもある」
「川……?」
レフィーナは、記憶を辿った。
崩れた崖。
冷たい水。
闇。
何度も岩へ身体を打ちつけたような感覚。
そこで、記憶は途切れている。
「お主は、三日も眠っておった」
「三日……?」
レフィーナの顔から、血の気が引いた。
「三日……も……?」
手から、布が滑り落ちる。
立たなければ。
今すぐ戻らなければ。
お姉様を助けなければ。
レフィーナは寝台の端へ手をつき、無理に身体を起こした。
「戻ります」
「寝ておれ」
「戻らないと……!」
足を床へ下ろした瞬間、脇腹に激痛が走った。
「っ……!」
力が抜ける。
床へ倒れ込みそうになった身体を、ランドルフが支えた。
老人とは思えないほど、腕は強かった。
「放してください!」
「放せば、お主は立てん」
「でも……お姉様が」
「分かっておる」
その声に、レフィーナは息を止めた。
ランドルフは、彼女を静かに寝台へ戻した。
乱暴ではなかった。
けれど、逆らう余地を与えない手つきだった。
「分かっているからこそ、今は動くな」
「どうして……」
レフィーナの声が震えた。
「どうして、分かるんですか」
ランドルフは答えなかった。
暖炉の火が揺れている。
小屋の外で、風が木々を鳴らした。
しばらくしてから、ランドルフは椅子を引き、寝台のそばへ座った。
「お主は、イルファリアの者じゃな」
レフィーナは頷く。
「……はい」
「レフィーナ・イルファリア」
名を呼ばれた。
知らない老人の口から。
レフィーナは、思わず身を固くする。
「なぜ、私の名前を」
「今は、それより先に話すべきことがある」
ランドルフは、視線を外した。
窓の向こうの森を見ている。
その横顔には、迷いのようなものがあった。
そして、ゆっくりと言った。
「レイルライン殿は、帝国軍に連行された」
世界が止まった。
薪の爆ぜる音も。
風の音も。
自分の呼吸さえも、遠くなった。
「……違います」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「お姉様は、強いんです」
ランドルフは何も言わない。
「誰よりも強くて……誰よりも、私を守ってくれて……」
言葉を重ねるほど、胸の中が空っぽになっていく。
「帝国軍なんかに、負けるはず……」
「負けたとは言っておらん」
ランドルフの声は、静かだった。
「連行されたと言った」
レフィーナは、老人の顔を見る。
そこに、希望を探すように。
「生きて……いるんですか」
「帝国軍が、第一王女を生かして連れ去ったという報せがある」
それは断言ではなかった。
けれど、レフィーナにとっては、闇の中に落ちた細い糸だった。
彼女は、その糸を両手で掴むように胸元へ手を寄せた。
「……なら」
「だが」
ランドルフの声が、重く落ちた。
「イルファリア王都は陥落した」
レフィーナの指が止まる。
「王都だけではない。東側の主要防衛線も、いくつか破られている」
「そんな……」
「帝国軍は、お主を探している可能性もある」
レフィーナは首を振った。
「それでも戻ります」
「今戻っても、お主一人では何もできぬ」
「何もしないよりは……!」
「死にに行くことを、何かをするとは言わん」
言葉は厳しかった。
レフィーナは、唇を噛んだ。
涙が溢れた。
「でも……」
声が続かない。
涙だけが頬を伝った。
「私が……もっと強ければ」
言葉にした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが崩れた。
「私が、お姉様のそばで戦えたら……」
あの日。
自分が剣を握れていたなら。
自分が、姉の背中を守れたなら。
レイルラインは一人で残らなかったかもしれない。
あんなふうに、自分だけを逃がしたりしなかったかもしれない。
「私だけ……」
レフィーナは顔を覆った。
「私だけ、生き残って……」
小屋の中に、押し殺した泣き声が広がった。
ランドルフは、すぐには何も言わなかった。
慰める言葉を急がなかった。
ただ、暖炉の火が弱くならないよう、薪を一本だけ足した。
ぱちり、と火が鳴る。
「強い者ほど、守りたいものを抱えておる」
やがて、ランドルフは言った。
レフィーナは、顔を上げなかった。
「レイルライン殿は、お主を守ると決めたのじゃろう」
「でも……私は」
「守られた者が、生き残ったことを罪にしてはならん」
その言葉は、優しくはなかった。
けれど、逃げ場のないほど真っ直ぐだった。
「生きろと言われたなら、生きることにも意味がある」
レフィーナの肩が、小さく震えた。
「意味なんて……今は、分かりません」
「分からなくてよい」
ランドルフは言った。
「今は、泣け」
その一言で。
レフィーナは、声を上げて泣いた。
お姉様、と。
何度も、何度も呼んだ。
返事はなかった。
それでも呼ばずにはいられなかった。
* * *
いつの間にか、外は夕方になっていた。
窓の外の森は、昼間より深い青に沈んでいる。
鳥の声は消え、代わりにどこか遠くで、夜の獣が鳴いた。
レフィーナは泣き疲れ、眠っていた。
頬にはまだ涙の跡が残っている。
ランドルフは、寝台のそばに置いた椅子から立ち上がった。
足音を立てないように、部屋の奥へ向かう。
棚のさらに奥。
古い布で覆われた、小さな箱があった。
ランドルフはしばらく、その箱を見つめた。
箱の表面には、金色の紋章が刻まれている。
イルファリア王家の紋章。
指先で、埃をゆっくりと払う。
「まさか……」
老人は、掠れた声で呟いた。
「お主が、ここへ流れ着くとはな」
箱の中から、かすかな光が漏れたように見えた。
暖炉の炎とは違う。
もっと静かで。
夜明け前の空のように、淡い光だった。
ランドルフは目を閉じる。
「因果とは、まことに容赦がない」
その声は、眠るレフィーナには届かなかった。
森の奥で、風が吹いた。
小屋の屋根を撫で、窓を震わせ、遠く西へと抜けていく。
少女はまだ知らない。
自分が失ったものの大きさも。
自分がこれから受け取るものの重さも。
ただその夜、レフィーナは夢の中で、もう一度だけ姉の声を聞いた。
――生きて。
そして、前へ。
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