第1話「炎の姫騎士、墜つ」
火は、夜明けより早く空を染めていた。
エスティア東部、アッシュゲート要塞。
石造りの城壁の向こうで、黒い煙がいくつも立ち昇っている。遠くの森は焼け、朝靄に混じった煤が、要塞の上を低く流れていた。
見張り台の鐘が、途切れることなく鳴っている。
「東門まで、残り二百!」
「魔導弩、第二列! 撃てる者から撃て!」
「民の避難はまだ終わっていません!」
怒号が飛び交う城壁の上で、一人の兵士が震える手に紙片を握りしめていた。
その紙には、短い文字だけが記されている。
――イルファリア王都、陥落。
「……あのイルファリアが」
兵士の声は、ひどく掠れていた。
「世界有数の大国が、たった数日で……」
誰も、続きの言葉を口にできなかった。
豊かな資源と広大な国土を持ち、短期間で世界の大国へと上り詰めたイルファリア。
その王都が落ちた。
姫騎士レイルラインがいた国が、落ちた。
ならば、魔法研究で名を知られる学術国家エスティアが、どれほど耐えられるというのか。
城壁の上に、重い沈黙が広がった。
その時だった。
「だから何よ」
よく通る少女の声が、沈黙を断ち切った。
兵士たちが振り返る。
赤い髪を弾ませた少女が、城壁の階段を上がってくる。
赤い髪の上では、炎を模したティアラが、かすかに揺らめいていた。
白銀の鎧は朝の薄い光を受け、煌めく。腰には一振りの長剣。彼女が歩くたび、鞘に収められた剣の奥で、かすかな熱が揺らめいている。
炎の姫騎士、リーザ。
「イルファリアが落ちたからって、あたしたちまで膝をつく理由にはならないでしょ」
リーザは城壁の外を見た。
森を踏み荒らし、要塞へ近づく帝国軍。
その前を進むのは、異様に肥大化した獣たちだった。
狼に似た四足の怪物。甲殻に覆われた巨大な虫。腕が異様に長く伸び、泥を引きずる人型の怪物。
どれも本来の生き物の形を歪め、黒い瘴気を皮膚の下に走らせている。
エボルモンスター。
ガルギア帝国が生み出した、進化と変異の名を冠する怪物たちだった。
「リーザ」
リーザの隣へ、青い軍装の青年が立った。
穏やかな目をした、背の高い青年だった。だが、手にした剣は静かに抜かれている。
セドリック。
「東門の民は、あと少しで地下通路へ入れる。だが、あの数が城壁へ取りつけば――」
「それまで持たせればいいのね」
「頼む」
それだけで、二人の間には十分だった。
リーザは頷き、背後を振り返る。
「セドリック。兵を二列に分けて。前に出るのは、あたしが崩した後だけ」
「分かった」
「怪我人を優先。追撃はしない。今日の目的は勝つことじゃない。みんなで生き残ることよ」
「承知」
セドリックは即座に兵へ指示を飛ばした。
その声に、固まっていた兵士たちの顔へ少しずつ血の気が戻っていく。
リーザは、最後にもう一人へ視線を向けた。
城壁の内側、槍を握ったまま立ち尽くしている青年。
栗色の髪は汗で額に張りつき、指先は白くなるほど震えていた。
カストール。
リーザとセドリックの幼馴染であり、エスティア親衛隊の一員でもある。
「カストール」
呼ばれて、彼の肩が跳ねた。
「……あ、ああ」
「西側の階段、守れる?」
「も、もちろんだ」
返事だけは、強く言った。
だが、彼の視線は城壁の外にいる怪物たちから離れなかった。
巨大な狼型のエボルモンスターが、地面を抉りながら前へ出る。
口から垂れる黒い泡が、土を腐らせていた。
兵士の誰かが、息を呑んだ。
リーザは剣を抜く。
「じゃ、行ってくる」
剣身が、朝の空気を裂いた。
「――フレイム・エンチャントブレード!」
赤い炎が、リーザの剣へ巻きついた。
ただ燃えているのではない。
炎は刃に沿って細く伸び、熱を圧縮し、剣そのものをひとつの火柱へ変えていく。
次の瞬間、リーザは城壁の上から飛び降りた。
「リーザ様!」
兵たちの叫びを背に、彼女は城壁の外側へ着地する。
土煙が舞う。
狼型のエボルモンスターが吠え、突進した。
人間の馬より速い。
牙は鉄の鎧さえ噛み砕く。
だが、リーザは動かなかった。
ぎりぎりまで引きつける。
そして、踏み込んだ。
「紅蓮剣・ほむら斬り!」
炎の軌跡が、低く走った。
怪物の前脚が折れ、巨体が横へ崩れる。
リーザは勢いを止めず、その背を駆け上がった。火をまとった剣が、首筋を一閃する。
黒い血が噴き上がる前に、炎がそれを蒸発させた。
怪物が地面へ倒れる。
その後ろから、帝国兵が魔導弩を構えた。
「撃て!」
青白い光弾が、いくつもリーザへ飛ぶ。
だが、リーザは振り返らない。
「ファイアボール!」
彼女の左手から放たれた火球が、空中で光弾とぶつかった。
爆音。
赤と青の閃光が、戦場を照らす。
その隙に、リーザは地面を蹴った。
炎を引いて、帝国兵の列へ飛び込む。
「紅蓮剣・ファイアスマッシュ!」
剣が地面を叩いた。
爆ぜる炎が扇状に広がり、前衛の兵とエボルモンスターをまとめて吹き飛ばす。
炎の中で、兵士たちが悲鳴を上げた。
だが、リーザは追わない。
倒れた者たちのさらに後ろ。
荷車ほどの大きさをした黒い甲殻の虫が、腹部を開いていた。
その中には、脈打つ魔導炉のような赤い器官が埋め込まれている。
「魔導兵器まで連れてきたのね」
リーザは唇を歪めた。
「趣味悪いわよ」
炎の剣を振りかぶる。
火が、彼女の周囲へ渦を巻いた。
「ブレイジングストーム!」
集まった炎が大きな嵐となり、一気に吹き荒れた。
灼熱の劫火は甲殻の虫を包み込み、全てを焼き尽くす。
爆発。
炎の中で黒い虫の身体が大きく跳ね、しばらくはもがいていたが、やがて動かなくなった。
周囲のエボルモンスターたちが、怯えたように後ずさった。
「今よ!」
リーザが振り返り、城壁へ叫んだ。
「前に出なさい!」
「第一列、前進!」
セドリックの声が響く。
城門が開いた。
エスティアの兵士たちが、盾を掲げて飛び出す。
リーザが切り開いた道へ、彼らは迷わず入った。
先ほどまで震えていた兵士も、隣の者と肩を並べて槍を構える。
「押し返せ!」
「エスティアを守れ!」
戦場に、初めて人間の声が満ちた。
リーザは再び敵の群れへ飛び込む。
炎は何度も弾け、赤い剣閃が黒い軍勢を切り裂いていった。
* * *
戦いが終わった頃には、朝日はすっかり高くなっていた。
要塞の外には、焼けた土と黒い煙の匂いが残っている。
帝国先遣隊は退いた。
完全な壊滅ではない。
だが、アッシュゲート要塞を越えることはできなかった。
城壁の上では、兵士たちが怪我人を運び、壊れた魔導弩を片づけている。
リーザは剣についた煤を拭いながら、息を吐いた。
「はぁ……朝から働かせすぎ」
「お疲れさま」
セドリックが水袋を差し出した。
リーザは受け取ると、勢いよく口をつけた。
「民は?」
「全員、地下通路へ避難できた。負傷者は出たが、死者は――」
セドリックは一度、言葉を選んだ。
「こちらでは出ていないよ」
「よかった」
リーザは、心からそう言った。
それから、周囲を見回す。
「カストールは?」
少し離れた場所で、カストールが地面に落ちた槍を拾っていた。
槍先には血がついていない。
彼は、リーザと目が合うと、慌てて背筋を伸ばした。
「ここにいる」
「怪我は?」
「ない」
「そう」
リーザは、ほっとしたように笑った。
「カストールも無事でよかった」
その笑顔は、あまりにもいつも通りだった。
カストールは答えられなかった。
自分は何もしていない。
セドリックは兵を動かし、民を守り、リーザの隣で自然に戦っていた。
自分だけが、城壁の上で怪物を見て、足を止めた。
それでもリーザは、自分に「無事でよかった」と言う。
その優しさが、胸の奥へ鈍い棘のように刺さった。
「……ああ」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
リーザは気づかない。
「次は、あたしの後ろにちゃんと隠れていなさい」
「分かってる」
「ほんとに?」
「分かってるって」
少し強く返すと、リーザは肩をすくめた。
「なら、いいけど」
セドリックが、静かにカストールへ目を向ける。
心配している目だった。
責める目ではない。
それが、カストールには余計に耐えられなかった。
* * *
それから、エスティアは勝ち続けた。
帝国が奪った街道の関所を奪い返した。
魔導研究所へ迫った先遣隊を退けた。
避難民を乗せた荷馬車の列を、焼けた丘の向こうまで護衛した。
リーザが前へ出れば、炎が道を作った。
セドリックが後ろを整えれば、民と兵は崩れなかった。
人々は、炎の姫騎士を見て希望を口にした。
まだ戦える。
まだエスティアは落ちない。
だが、帝国軍は学んでいた。
リーザへ正面からぶつかれば、兵が減る。
魔導兵器を増やしても、炎の剣はそれを焼き切る。
ならば、炎そのものを折る必要はない。
炎が燃える場所を、内側から崩せばいい。
* * *
夜。
要塞近くの酒場では、勝利を祝う兵士たちの笑い声が聞こえていた。
粗末な木の卓を囲み、酒を回し、明日も生きていることを確かめ合うように騒いでいる。
その賑わいから離れた隅の席で、カストールは一人、酒を飲んでいた。
杯の中身は、もうほとんど残っていない。
それでも彼は、空になりかけた杯を見つめ続けていた。
少し前まで、リーザの声が聞こえていた。
セドリックと何かを話し、笑っていた。
戦場ではあんなに強いくせに、酒場では子供のように笑う。
誰にでも気さくで。
誰にでも優しくて。
それなのに、自分が欲しい言葉だけは、決してくれない。
「……くだらない」
カストールは呟いた。
「何がだ」
背後から、声がした。
低く、冷たい声だった。
カストールは振り返る。
いつの間にか、黒い外套をまとった人物が立っていた。
酒場の灯りは、その人物の顔だけをうまく照らさない。
仮面。
光を吸い込むような暗黒の仮面だった。
「誰だ」
「答える必要があるか?」
女の声だった。
だが、その声には感情の揺れがない。
カストールは立ち上がろうとした。
しかし足に力が入らない。
恐怖ではない、と自分に言い聞かせた。
酒のせいだ。
「俺に何の用だ」
仮面の女は、少しだけ首を傾けた。
「セドリックの隣で、お前は何をしているのだ?」
カストールの顔が強張る。
「何……?」
「リーザを物欲しそうに眺めているだけで満足か?」
杯が、卓から落ちた。
鈍い音を立てて転がる。
「黙れ」
「違うか」
「黙れ!」
思わず声が大きくなった。
周囲の兵士たちが振り返る。
だが仮面の女は、そこにいる誰にも見えていないようだった。
酒場の音は遠い。
笑い声も、皿の触れ合う音も、厚い壁の向こうへ隔てられたように聞こえる。
「お前は、リーザの隣に立ちたい」
女は言った。
「だが、そこにはいつもセドリックがいる」
「……違う」
「お前はリーザに守られる」
「違う!」
「そして、守られるたびに自分が小さくなる」
カストールは、息を止めた。
言い返せなかった。
仮面の女は、外套の内側から小さな腕輪を取り出した。
黒い金属でできた腕輪。
表面には、見ているだけで目が痛くなるような、細い紋様が刻まれていた。
「何だ、それは」
「お前が望むものへ、手を伸ばすための力だ」
「俺は……」
「リーザを、お前のものにしてやろう」
カストールの喉が鳴った。
「そんなこと、できるわけが」
「彼女から国を奪え。仲間を奪え。姫騎士という立場を奪え」
女の声は、淡々としていた。
「そうすれば、彼女は誰を見る?」
「……」
「誰を必要とする?」
カストールは、腕輪を見つめた。
怖かった。
それが何をするものか、分からない。
だが、分からないからこそ、そこには自分が持っていない力があるように思えた。
「俺は……リーザを傷つけたいわけじゃない」
「ならば、なぜあの女がセドリックへ笑いかけるたび、お前は苦しむ?」
カストールは俯いた。
「このままでは、お前は永遠に誰にも選ばれない」
仮面の女が、腕輪を卓へ置く。
黒い金属が、灯りを鈍く飲み込んだ。
「使うかどうかは、お前が決めろ」
それだけ言うと、女は背を向けた。
酒場の扉が開く。
冷たい夜風が入る。
次の瞬間には、黒い外套の姿はなかった。
カストールは、長い間、腕輪を見つめていた。
やがて、震える指でそれを掴んだ。
* * *
数日後。
エスティア王都近郊、ソルフレア迷宮。
赤い岩壁が、地下へ深く続いていた。
迷宮の中には、地の底から湧き上がる熱が満ちている。
壁の割れ目からは赤い蒸気が漏れ、足元の岩は、場所によっては触れるだけで熱を持っていた。
リーザは松明を持たずに歩いていた。
彼女の剣が、かすかな炎をまとっている。
その光が、赤黒い通路を照らしていた。
「ほんとに、ここにあるの?」
リーザは壁面に刻まれた古代文字を見た。
「研究所の記録には、そう書いてあったわ。姫騎士のティアラを強める魔水晶のかけら」
後ろを歩くカストールは、短く頷いた。
「帝国も探しているかもしれない」
「だから先に来たのよ」
リーザは振り返り、少し笑う。
「セドリックには悪いけど、王都の守りを任せてきた。あいつなら大丈夫」
その言葉に、カストールの顔がわずかに歪んだ。
リーザは気づかず、前へ向き直る。
「それに、あんたはあたしの近くにいれば安全でしょ」
「え?」
「戦闘になったら、いつもあんたはろくに動けないんだから」
「……い、いや俺だって…」
「何よ、ちゃんとやれるって言うの?」
リーザは足を止めた。
「カストール。あんた、戦いになると判断が遅いの。自覚して」
「……」
「動かなきゃいけない時に止まって、手を出したらまずい時に無理するし」
「俺は……」
言葉が続かなかった。
リーザはため息をついた。
「あんたが戦いに向いてないのは分かってる。でもだからって、勝手に死なれると、後味悪いでしょ」
「リーザ…」
「あたしの後ろについて。離れないで」
彼女は少し語気を強めた。
「あと、余計な手出しもダメよ。危険だから」
それは、カストールへの最善の配慮だったのかもしれない。
だがカストールの心を歪ませるという意味では、最悪の配慮とも言えたかもしれない。
やがて、通路の先に大きな空洞が開けた。
中央には、半ば崩れた石の祭壇。
そして祭壇の奥の岩壁に、何やら封印の施された扉。
リーザが一歩踏み出した。
その瞬間。
地面が揺れた。
赤い岩壁が崩れ、空洞の奥から巨大な影が立ち上がる。
石と鉄でできた人型。
胸には赤い魔導炉のような器官が埋め込まれ、両腕には巨大な刃がついている。
古代ガーディアンだった。
「出たわね」
リーザは剣を構える。
「下がって、カストール」
「俺も戦う」
「あんた、人の話聞いてる?いいから下がりなさい!」
その一言が、またカストールの胸を刺した。
ガーディアンが腕を振り下ろす。
岩が砕けた。
リーザは横へ跳び、炎の剣で刃を受け流す。
「フレイム・エンチャントブレード!」
炎が大きく膨らむ。
リーザはガーディアンの腕へ斬りつけた。
だが、石と鉄の装甲は深く切れない。
「硬っ……!」
ガーディアンのもう一方の腕が、横から迫る。
リーザは退く。
その時、カストールが横から剣を振った。
刃は装甲に弾かれた。
衝撃で、彼の身体がよろめく。
「カストール!」
ガーディアンの足元から、赤い鎖のような魔力が伸びた。
カストールの足首へ絡みつく。
引きずられる。
「くそっ……!」
彼は剣を地面へ突き刺し、必死に耐えた。
だが、力が足りない。
赤い鎖は彼をガーディアンの胸部へ引き寄せていく。
胸の魔導炉が、赤く明滅した。
「危ない!」
リーザが叫ぶ。
迷わなかった。
ガーディアンの正面へ飛び込む。
振り下ろされる巨大な刃を、炎の剣で受ける。
火花が散る。
リーザの足元の岩が割れる。
「リーザ!」
「黙って、下がってなさい!」
リーザは歯を食いしばり、刃を押し返した。
炎が爆ぜる。
「紅蓮剣・ファイアスマッシュ!」
至近距離で放たれた炎の衝撃が、ガーディアンの腕を弾いた。
リーザはそのままカストールの前へ踏み込み、赤い鎖を断ち切る。
解放されたカストールが、地面へ転がった。
ガーディアンは再び腕を振り上げる。
リーザは、彼を庇うように立った。
「ファイアボール!」
火球がガーディアンの胸へ直撃する。
魔導炉が赤く膨張する。
さらにリーザは、炎をまとった剣で跳び上がった。
「紅蓮剣・ほむら斬り!」
胸の中心へ、火の一線が走る。
魔導炉が割れた。
轟音と共に、ガーディアンの巨体が崩れ落ちる。
空洞に、赤い火の粉が降った。
リーザは着地すると、すぐにカストールへ駆け寄った。
「大丈夫!?」
「……ああ」
「ほんとに?」
「大丈夫だ」
「嘘。足、震えてる…ったく」
リーザは彼の腕を掴み、無理やり立たせる。
「あんた、バカぁ~?」
怒っている声だった。
けれど、その手は強く、温かかった。
「死にたいの?」
「……リーザ」
「次、勝手に前へ出たら、あたし、ぶん殴るから」
カストールは、彼女を見つめた。
赤い髪。
煤で汚れた頬。
肩には、さっきの一撃でできた浅い傷。
それでもリーザは、自分の傷ではなく、カストールの足を気にしている。
どうして。
どうして、そんな目で自分を見る。
どうして、誰にでも同じように優しい。
カストールの胸の奥で、何かがゆっくりと壊れた。
その時、リーザの腰につけた魔導通信機が強く光った。
「リーザ!」
通信機の向こうから、セドリックの声が聞こえる。
ひどく切迫していた。
「王都西門が破られた! 内部に帝国兵が入っている!」
「何ですって!?」
「防衛線は持たせている。だが、長くは――」
「すぐ戻るわ!」
リーザは通信機を握りしめる。
祭壇の奥の扉の封印は、解かれているようだった。
だが、魔水晶のかけらがこの先のどこにあるのかも分からない。
探索する猶予はない。
リーザは振り返らなかった。
「カストール、行くわよ!」
彼女は出口へ走り出す。
その背中へ、カストールは手を伸ばしかけた。
止めればいい。
腕輪を捨てればいい。
今なら、まだ間に合う。
リーザは、自分を仲間だと思っている。
さっきも守ってくれた。
自分が弱くても、置いていかなかった。
だからこそ。
だからこそ、そのままでは駄目だった。
彼女はまたセドリックの元へ行く。
また国のために戦う。
また誰かのために傷つく。
自分だけを見てはくれない。
カストールは、袖口の下に隠していた黒い腕輪を握りしめた。
黒い紋様が、彼の手首で鈍く光る。
「……リーザ」
「何よ、早くして!」
リーザが振り返る。
その顔には、疑いがなかった。
カストールの喉が震える。
「シャドウ・バインド」
黒い影が、地面から噴き上がった。
蛇のようにうねり、リーザの両腕と両脚へ絡みつく。
「はあ!? 何やってんのよ! カストール……?」
炎の剣が、石床へ落ちた。
リーザは身体を捻り、拘束を引き剥がそうとする。
炎が影を焼く。
だが、焼けた端から、さらに濃い闇が増えていく。
「リーザが、リーザがいけないんだ……!!」
カストールの声は、泣き叫ぶようだった。
「!?…どうして?……カストール」
「ずっと、こうしたかったんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
リーザの顔から、怒りが消えた。
残ったのは、理解できないという痛みだけだった。
空洞の入口に、黒い外套が現れた。
仮面の女。
黒い姫騎士。
「何者なの?あんた…?」
「暗黒の姫騎士様…エスティアの主力部隊、制圧しました」
彼女の背後には、帝国兵たちが並んでいた。
暗黒の姫騎士と呼ばれた女はゆっくりうなずいた。
「よくやったぞ、カストール」
暗黒の姫騎士に言われ、バツが悪そうに下を向くカストール。
「はあ!?あんたがカストールをそそのかしたのね!」
リーザは、倒れた剣へ手を伸ばす。
だが、影の鎖が腕を引き戻す。
「放しなさい!」
炎が手のひらから噴き出す。
暗黒の姫騎士は、少しだけ目を細めた。
「まだ抵抗するか」
「当たり前でしょ!」
「王都は落ちた」
リーザの動きが止まった。
「……嘘よ」
「西門は破られた。お前の仲間は、今も戦っている」
「セドリックは」
「生きているかどうかは知らん」
「……っ」
リーザの炎が、大きく揺れた。
その一瞬を、暗黒の姫騎士は見逃さなかった。
黒い魔力が、空洞を満たす。
影の鎖が、さらに強くリーザを締めつけた。
彼女は膝をつく。
「やめろ!」
カストールが叫んだ。
暗黒の姫騎士は、振り返らない。
「お前が望んだことだ」
「俺は、こんな……」
「望んだのは、お前だ」
カストールは言葉を失った。
暗黒の姫騎士は、リーザの前へ進む。
赤い髪の少女は、息を荒くしながら睨みつけていた。
「返しなさいよ」
「何をだ」
「みんなを……セドリックを……」
声が震える。
それでもリーザは、顔を上げていた。
暗黒の姫騎士は、彼女の額に手を伸ばす。
そこにあった炎のティアラへ、黒い指先が触れた。
赤い光が弾ける。
「やめ――」
リーザの声が、途切れた。
ティアラが外される。
その瞬間、彼女の身体から炎が消えた。
空洞に残ったのは、熱を失った剣と、膝をつく一人の少女だけだった。
* * *
インフェルノバレーは、地図の上ではただの渓谷だった。
だが実際にそこへ連れて行かれた者は、二度と同じ呼び方をしなくなる。
空はいつも煙に覆われている。
黒い岩肌が何層にも重なり、その深い裂け目の底では、地の底から漏れ出した赤い光が揺れている。
昼でも薄暗い。
夜になれば、星の代わりに火山の裂け目が谷を照らす。
燃えているのに、暖かくはない。
炎は生き物を照らすためではなく、すべてを焼き尽くした後の残骸を赤く見せるためにあるようだった。
地下収容区画は、その谷のさらに奥にあった。
分厚い鉄扉。
湿った石壁。
熱を含んだ蒸気が、低い天井の隙間から絶えず漏れている。
空気は重く、硫黄と鉄と煤の匂いが混ざっていた。
呼吸をするだけで、喉の奥がひりつく。
廊下の先では、どこかの炉が低く唸っている。
ごう、という音。
遠い雷鳴にも似たその音は、止まることがなかった。
人の声はほとんど聞こえない。
聞こえるのは、兵士の靴音。
鉄扉が閉まる音。
鎖が石床を擦る音。
そして、地下深くで燃え続ける火の息づかいだけだった。
リーザは、粗い石壁に背を預けていた。
両手には鎖。
足にも重い拘束具。
首には、黒い金属の首輪が嵌められている。
首輪に刻まれた封印の紋様は、彼女がわずかでも魔力を動かそうとするたび、鈍い痛みと共に光った。
何度か、炎を呼ぼうとした。
指先に小さな火花が生まれた。
だが、それだけだった。
火花は首輪の光に呑まれ、すぐに消える。
石床へ落ちた赤い点が、煤の中で一瞬だけ光り、そして消えた。
リーザの鎧は、迷宮での戦いと拘束の途中で傷ついていた。
片方の肩当ては割れ、胸元には深い擦り傷がある。
衣服には煤と乾いた泥が残り、赤い髪は乱れて頬へ張りついていた。
けれど、彼女が最も見つめられなかったのは、自分の姿ではない。
独房の外。
細い鉄格子の向こう、石の台の上に置かれた炎のティアラだった。
ティアラは、まだ弱く光っている。
自分の頭から離れたはずなのに。
そこにあるだけで、リーザの胸を締めつけた。
あれは、ただの装飾ではない。
国の象徴だった。
守ると決めた人々の希望だった。
そして、自分が何度も剣を握ってきた理由だった。
なのに今、その光は自分の手の届かない場所に置かれている。
格子の外から、足音が近づいた。
ゆっくりと。
迷いなく。
石床を踏むたび、音が地下の冷たい壁へ染み込んでいく。
暗黒の姫騎士が、独房前に立った。
仮面の奥は見えない。
だが、その沈黙だけで、リーザは彼女だと分かった。
暗黒の姫騎士は、台の上に置かれた炎のティアラを手に取る。
ティアラが、黒い手袋の中で小さく震えた。
「正面から戦っていれば、立場は逆だったかもしれん」
リーザは顔を上げなかった。
唇だけが、かすかに動く。
「……殺しなさいよ」
「お前を殺すわけにはいかない。カストールと約束したからな。あの者は、お前に自分を必要とさせたがっていた」
「冗談じゃないわ!」
「お前は足元の腐りを見抜けなかった」
暗黒の姫騎士の声は、熱のない刃のようだった。
「それがお前の敗因だ、リーザ」
リーザの指が、鎖を握る。
鉄が軋む。
だが、鎖は切れない。
「ティアラはこちらで預かる」
暗黒の姫騎士は、首輪へ視線を落とした。
「首輪も最新式だ。もう、お前の力は使えん」
地下の炉が、低く唸る。
ごう、と。
まるで谷そのものが、リーザの言葉を飲み込んだようだった。
「諦めろ」
暗黒の姫騎士は言った。
「お前は負けたのだ」
長い沈黙が落ちた。
リーザは、すぐには答えなかった。
怒鳴ることもできた。
罵ることもできた。
炎の姫騎士らしく、最後まで噛みつくこともできた。
けれど、セドリックの声が耳に残っていた。
王都が落ちたという言葉が、胸の中で何度も繰り返されていた。
自分は、何を見落としたのか。
カストール、いつから、あいつはあんな顔をしていたのか。
守ると言いながら。
皆が無事でよかったと笑いながら。
いちばん近くにいた一人の痛みに、どうして気づけなかったのか。
リーザは目を閉じた。
瞼の奥にあった赤い光が、ゆっくりと沈んでいく。
歯を食いしばる。
声は出なかった。
その姿は、強く、気高い姫騎士のものではなかった。
炎を失った少女は、鎖の中でただ俯いていた。
鉄格子の向こうでは、奪われたティアラだけが、かすかな光を残していた。
暗黒の姫騎士は、しばらくその姿を見ていた。
そして何も言わず、背を向けた。
鉄扉が閉まる。
重い音が、独房の中へ響いた。
火の谷の地下で。
炎の姫騎士は、誰にも届かない鎖の中に残された。
外では、地の底の火が燃え続けていた。
世界から一つ、大国の光が消えた。
――この日、エスティアは陥落した。
お読み頂き、ありがとうございます。
更新は週2回を目安に予定しています。
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