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プリンセスナイトサーガ  作者: 中津海人
序章

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序章 第3話「崖の向こうへ」

 雨は、容赦なく降り続いていた。


 山道はすでに道の形を失い、泥と水が岩の間を流れている。


 レフィーナは、息を切らしながら走っていた。


 片手には、近衛騎士から渡された剣。


 もう片方の手は、濡れた崖肌へ触れながら、足を滑らせないよう必死に身体を支えている。


 前を行く近衛騎士が、崩れかけた細道の先を指した。


「もう少しです! あの岩場を越えれば、西の森へ入れます!」


「はい……!」


 返事をした声は、雨音に掻き消されそうだった。


 レフィーナの足は重い。


 何度も転び、服は泥で汚れている。髪は雨に張りつき、視界もぼやけていた。


 それでも、手にした剣だけは離せなかった。


 重い。


 冷たい。


 自分には不釣り合いなほど、重い。


 けれどそれは、あの護衛が残したものだった。


 自分たちを逃がすために、帝国兵と異形の怪物へ向かっていった人が、最後に渡してくれたものだった。


 ――いつか必要になります。


 その声を思い出すたび、レフィーナは剣の柄を握り直した。


 後方で、木々が折れる音がした。


 近衛騎士の顔色が変わる。


「……追いつかれた」


 レフィーナも振り返る。


 雨の帳の向こう。


 黒い影が、ぬかるんだ道を這うように近づいてくる。


 赤い目。


 雨に濡れて鈍く光る甲殻。


 異様に長い腕が地面を掴み、岩を砕きながら進んでくる。


「エボルモンスター……」


 喉の奥が冷たくなる。


 王都で見た怪物だ。


 お姉様を追い詰めた怪物。


 レイルラインの剣を受けても止まらず、切られた腕すら再生させた怪物。


「レフィーナ様」


 近衛騎士が前へ出た。


 剣を抜き、細道の中央へ立つ。


「先へ進んでください」


「でも……!」


「ここは私が食い止めます」


「駄目です!」


 レフィーナは首を振った。


 もう、誰かが自分のために残る姿を見たくなかった。


 お姉様も。


 あの護衛も。


 皆、自分へ前へ進めと言った。


 それなのに、自分だけが前へ進んで、皆を置いていくなんて。


「一緒に行きましょう!森まで、あと少しなんでしょう!?」


 近衛騎士は、わずかに笑った。


「だからこそ、です」


 怪物が唸る。


 その口から垂れた黒い液体が、地面へ落ちる。


 草が、じゅっと音を立てて枯れた。


「お進み下さい! 西へ! そして、必ず生きて下さい!」


「嫌です!」


 レフィーナの声は、雨を裂くように響いた。


 近衛騎士が、振り返る。


「私は……もう、置いていかれるだけなんて嫌です」


 レフィーナは剣を両手で抱えていた。


「お姉様も、皆さんも……助けてくれたのに」


 怪物が、突然地を蹴った。


「危ない!」


 近衛騎士がレフィーナの前へ飛び込む。


 鈍い衝撃音。


 怪物の腕が、近衛騎士の盾を叩き割った。


「ぐっ……!」


 近衛騎士の身体が岩壁へ叩きつけられる。


 剣が地面へ落ちた。


「近衛騎士さん!」


 レフィーナは駆け出した。


 怪物は、倒れた近衛騎士へ赤い目を向ける。


 黒い爪が、ゆっくりと持ち上がった。


 止めを刺すために。


「やめて!」


 レフィーナは叫んだ。


 自分でも、何をするつもりなのか分からなかった。


 ただ、身体が動いていた。


 倒れた近衛騎士と怪物の間へ立つ。


 両手で剣を抜いた。


 鞘から滑り出た刃が、雨の中で鈍く光る。


 重かった。


 腕が震える。


 剣先は定まらない。


 怪物は、そんなレフィーナを見ている。


 赤い目に、感情はなかった。


 怒りも。


 迷いも。


 ただ命令に従い、目の前の敵を壊すためだけに作られた兵器。


 怪物が腕を振るう。


 レフィーナは反射的に剣を振り上げた。


「――っ!」


 刃は空を切った。


 怪物の爪が、すぐ横を通り過ぎる。


 風圧だけで、レフィーナの身体がよろめいた。


 頬に熱い痛みが走る。


 指で触れると、血がついた。


 怖い。


 足が動かない。


 目の前の怪物は、次の一撃を振り上げている。


 逃げなければ。


 逃げなければ、死ぬ。


 頭の中で、そんな声が響く。


 けれど、背後では近衛騎士が倒れている。


 ここで逃げたら、この人が死ぬ。


 また、自分だけが生き残る。


 それだけは嫌だった。


 レフィーナは、震える息を吸った。


 雨が顔を打つ。


 涙なのか雨なのか、もう分からない。


 耳の奥で、いくつもの声が重なった。


 ――どうか、イルファリアをお願いします。


 ――生きて、いつかご自分で選び取ってください。


 ――生きる為に走れ。


 ――前に進め。


「……まだ」


 レフィーナは、剣を構え直した。


 腕は震えている。


 足も、怖さで竦みそうになっている。


 それでも、怪物から目を逸らさなかった。


「まだ、助けられます!」


 今度は、逃げなかった。


 怪物の腕が振り下ろされる、その瞬間。


 レフィーナは一歩だけ踏み込んだ。


 剣を横へ薙ぐ。


 刃は怪物の前脚を浅く切り裂いた。


 黒い液体が飛び散る。


 怪物は、初めてわずかに体勢を崩した。


「……っ!」


 大した傷ではない。


 すぐに傷口は蠢き、閉じ始めている。


 それでも、怪物の動きは止まった。


 近衛騎士が、痛みに顔を歪めながらも身体を起こす。


「レフィーナ様……今です!」


 怪物の横から、岩壁が崩れた。


 先ほどの衝撃で亀裂が走っていたらしい。


 大きな岩が、怪物の足元へ落ちる。


 怪物は咆哮を上げ、崩れた岩を押しのけようとした。


「走ってください!」


 近衛騎士が、レフィーナの背を押した。


「でも、あなたは!」


「私は後から行きます!」


 レフィーナは首を振る。


「駄目です! 一緒に!」


 だがその時。


 怪物が、岩を跳ね飛ばした。


 砕けた石が雨の中へ散る。


 その一つが、崖沿いの細道へ激突した。


 地面が揺れる。


 足元に、細い亀裂が走った。


「レフィーナ様!」


 近衛騎士が叫ぶ。


 次の瞬間、怪物が岩壁へ拳を叩きつけた。


 轟音。


 山肌が崩れる。


 雨で緩んだ土と石が、一斉に崖下へ流れ落ち始めた。


「こっちです!」


 近衛騎士がレフィーナの腕を掴む。


 二人は、残った足場へ飛び移ろうとした。


 しかし、レフィーナの足元が崩れた。


「――っ!」


 身体が傾く。


 剣を持つ手が、空を掴む。


 目の前で、近衛騎士が手を伸ばした。


「レフィーナ様!」


 指先が触れる。


 けれど、雨で濡れた手は滑った。


 レフィーナは、崩れる土と石の中へ投げ出される。


「レフィーナ様ァァァ!」


 上から、近衛騎士の声が聞こえた。


 けれど、すぐに雨と崩落の音がすべてを呑み込んだ。


 落ちていく。


 炎上する王都が、遠くに見えた。


 お姉様の背中。


 西門で自分を見つめていた瞳。


 笑っていた近衛騎士たち。


 手の中の剣。


 何もかもが、遠ざかっていく。


「お姉様」


 レフィーナは、最愛の姉に手を伸ばした。


「待っていてください」


 声は、誰にも届かない。


 それでも、言わずにはいられなかった。


「私、絶対に強くなります」


 激しい落雷が世界を照らした瞬間。


少女の身体は、底の知れない暗黒の崖下へと、真っ逆さまに転落していった――。





 *


 崖の上では、雨がすべての跡を洗い流していた。


 帝国兵たちは、崩れた道の手前で立ち尽くしている。


 谷底には、濁流が渦巻いていた。


 岩も、木も、人の姿も見えない。


「落ちたのか?」


「分かりません。ですが、この雨と崩落では……」


 帝国軍の指揮官は、濁流を睨んだ。


 その背後では、エボルモンスターが低く唸っている。


「遺体を確認しろ」


「しかし、戦線から救援要請が――」


 指揮官は舌打ちした。


 王都の制圧は、まだ終わっていない。


 西へ逃げた避難民もいる。


 たった一人の少女へ、兵を割き続ける余裕はない。


「捜索隊を残せ――残りは王都へ戻る」


「はっ!」


 帝国兵たちは、雨の崖へ最後の視線を投げた。


 そこには、何もなかった。


 ただ濁流と、崩れた岩だけがある。


 やがて、帝国軍は撤収していく。


 炎上する王都の方角へ。


 遠くで、まだ戦の音がしていた。


 イルファリアの空は、黒い煙に覆われていた。


 世界から一つ、大国の光が消えた。


――この日、イルファリアは陥落した。

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