第2話「西門へ」
エボルモンスターの斬り裂かれた外殻の奥から、黒い肉のようなものが蠢く。
傷は、見る間に塞がっていく。
レイルラインはさらに踏み込んだ。
今度は一本の腕を斬り落とす。
だが、切断面から闇が溢れ、新たな腕が歪に伸び始めた。
再生。
それも、人の常識を越えた速さで。
「第二隊、後退しろ!」
レイルラインは、怪物の爪を大剣で受け流しながら叫んだ。
「東門は放棄する! 民を西門へ向かわせろ!」
「しかし、城内にはまだ――」
「一人でも多く外へ出す! 近衛は避難誘導を優先しろ!」
帝国兵が槍を突き出す。
レイルラインはそれを斬り払い、続けて怪物の爪を避けた。
だが、敵は一体ではない。
煙の向こうから、さらに黒い影が現れる。
東門の防衛線は、すでに崩れ始めていた。
このままでは帝国軍が王都へ雪崩れ込む。
王宮に残された民も。
まだ戦う力を持たない妹も。
レイルラインは奥歯を噛み締めた。
「西門を死守しろ」
剣を振るいながら、彼女は命じた。
「一人でも多く、生かして逃がせ」
*
王宮の長い回廊では、怒号が飛び交っていた。
「西門へ! 避難民を西門へ誘導しろ!」
「第二城壁が破られました!」
「東門から帝国軍が市街地へ入ったぞ!」
窓ガラスが砕け、長い回廊へ雨のように降り注ぐ。
白い石壁には亀裂が走り、遠くで誰かの悲鳴が上がった。
金色の髪を揺らしながら、レフィーナは護衛に囲まれて走っていた。
まだ正式な叙任を受けていない、姫騎士見習い。
窓の向こうでは、見慣れた王都が燃えていた。
朝には市場に並んでいた果物の屋台も。
祭日の飾りで彩られていた通りも。
黒煙の向こうへ消えている。
空を覆う煙の下では、帝国の旗が風に鳴っていた。
「レフィーナ様、こちらへ!」
近衛騎士が手を伸ばす。
だが、レフィーナはその手を取れなかった。
「待ってください」
回廊の柱の陰で、小さな子供が座り込んでいた。
煤で汚れた頬を涙で濡らし、壊れた壁の向こうを指さしている。
「おかあさんが……まだ……!」
子供の声は震えていた。
近衛騎士が顔をしかめる。
「今は無理です。王都はすでに――」
「大丈夫です」
レフィーナは子供の前へしゃがみ込んだ。
自分の手も震えていた。
爆発の音がするたび、肩が跳ねそうになる。
けれど、子供の手はもっと冷たく、もっと強く震えていた。
レフィーナは両手で、その小さな手を包む。
「一緒に探しましょう」
「ですが、レフィーナ様!」
「この子のお母さんが、まだ向こうにいるんです」
言い切ると、レフィーナは立ち上がった。
護衛たちが止めるより早く、崩れた回廊の奥へ駆け出す。
石の粉塵が舞っていた。
壁の一部が崩れ、かつて絵画が飾られていた場所は瓦礫に埋もれている。
その下から、かすかな声が聞こえた。
「だ、誰か……」
「お母さん!」
子供が泣きながら駆け寄ろうとする。
レフィーナは慌てて抱き留めた。
「危ないです。ここにいてください」
瓦礫の下には、若い女性がいた。
片足を石材に挟まれ、動けないでいる。
顔には擦り傷があり、息も荒い。
「大丈夫ですか?」
「姫様……? どうして、ここに……」
「今、助けます」
レフィーナは石材へ手をかけた。
押す。
けれど、びくともしない。
もう一度、力を込める。
腕が震える。
指先が痛む。
それでも、女性の向こうでは子供が必死に母を呼んでいた。
「お母さん……!」
「大丈夫。絶対に助けますから」
自分に言い聞かせるように、レフィーナは言った。
その時だった。
瓦礫の上を、一筋の閃光が走った。
石が、音もなく二つに分かれる。
重かった石材は横へ滑り落ち、女性の足を解放した。
「立てるか」
低く、短い声だった。
レフィーナが振り返る。
「お姉様!」
そこに立っていたのは、レイルラインだった。
白銀の鎧は煤と泥で汚れている。
肩当てには大きな傷があり、白い腕には血が流れていた。
それでも、その背筋はまっすぐだった。
「怪我はないか、レフィーナ」
「私は大丈夫です。お姉様こそ……!」
「私はいい」
レイルラインは、助け出された女性へ視線を向けた。
「近衛。彼女を支えろ。子供とともに西門へ」
「は、はい!」
近衛騎士が女性の肩を支える。
母親は子供を抱きしめ、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、姫様……!」
子供も、涙を拭いながらレフィーナを見上げた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
レフィーナは笑おうとした。
けれど、笑顔はうまく作れなかった。
レイルラインの鎧に付いた血が、敵のものだけではないと分かってしまったからだ。
「お姉様。前線は……」
「崩れている」
その一言に、周囲の空気が凍った。
近衛騎士の一人が、息を切らして駆け込んでくる。
「レイルライン様! 帝国軍が市街地を横切り、西門へ迫っています! 避難民の列が――」
「分かっている」
レイルラインは、迷わずレフィーナの手首を掴んだ。
「西門へ行け」
「え?」
「東門は落ちた。西門が、王都に残された最後の出口だ」
レフィーナは首を振る。
「でも、まだ助けられる人がいます。お姉様一人で――」
「私がいる」
短い言葉だった。
けれど、その声には、拒絶ではない切実さがあった。
レフィーナは息を呑む。
姉の手は、冷えていた。
いつもなら、どんな敵を前にしても揺るがないはずの手が。
ほんのわずかに、強く握られている。
「お姉様……?」
「行け、レフィーナ」
レイルラインは妹を見た。
そこには命令する姫騎士ではなく、ただ一人の姉がいた。
「今すぐにだ」
レイルラインは剣を握り直す。
「近衛。避難民を連れて西へ進め」
「しかし、レイルライン様は――」
「私は時間を作る」
振り返ることなく、彼女は言った。
「一人でも多く、生かして逃がせ」
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