序章 第1話「イルファリア、燃ゆ」
世界には、大国と呼ばれる国々がある。
その栄華の傍らには、ごく少数の「守護神」がいた。
王家の高貴なる血筋を引き、一騎当千の戦闘能力を誇る、美しくも苛烈なる戦士たち。
人々は親しみを込め、そして最大の敬意を払って、彼女たちをこう呼んだ。
――姫騎士、と。
その厳しい条件ゆえに、世界に数人しか存在しない姫騎士たちは、国の象徴であり、人々の希望の光そのものだった。
大陸のほぼ中央に位置する新興国家、イルファリアもまた、姫騎士に守られながら豊かさを築いた大国の一つだった。
だが、その輝かしい国に、終わりの日が訪れようとしていた。
*
イルファリアの東隣には、産業と金融業で栄えたガルギア王国があった。
その地の底には、古の時代に封印された大魔王が眠っていた。
――眠っていたはずだった。
ある日、何の前触れもなく封印は引き千切られた。
地の底から溢れ出した闇は、獣を、魔獣を、そして人々を狂わせた。
その果てに生まれたのが、かつての文献には記されていない異形の怪物――エボルモンスターだった。
一夜にして、ガルギア王国は暗黒の魔国家へ変貌した。
彼らは自らを、ガルギア帝国と名乗った。
そして、その狂気の刃が最初に向けられたのは。
豊かな資源と、輝かしい未来を持つ隣国――イルファリアだった。
*
最初に聞こえたのは、鐘の音ではなかった。
王都東方の外壁を震わせる、低く重い爆発音だった。
石壁が崩れ、白煙と黒煙が空へ立ち上る。
東門の防衛線には、帝国兵と異形の怪物たちが押し寄せていた。
その最前線に、一人の姫騎士が立っている。
白銀の鎧は煤と血で汚れ、長い髪は風に乱れていた。
レイルライン。
イルファリアを守る姫騎士の一人。
そして、この国の第一王女でもある。
「……まさか、母様の故国が、このような化け物の巣窟になってしまうとは……」
低く零れた声は、戦場の轟音に掻き消されそうだった。
レイルラインの亡き母は、まだ平穏だった頃のガルギア王国の出身だった。
幼い頃、母はよく故国の話をしてくれた。
美しい石造りの街並み。
穏やかな人々。
豊かな文化。
そのすべてが今、黒い煙と狂気に呑まれている。
そして今、その故国の兵たちが、自分の守るべき国を蹂躙しようとしていた。
「レイルライン様! 前方、エボルモンスターが接近!」
近衛騎士の叫び。
巨大な甲殻に覆われた怪物が、石畳を踏み砕きながら迫ってくる。
異形と化した腕。
口元から滴る黒い液体。
赤く濁った目。
帝国兵たちでさえ距離を取り、その巨体を恐れているように見えた。
レイルラインは剣を構える。
「下がれ」
「ですが!」
「下がれと言った」
短く告げると、レイルラインは前へ出た。
怪物が咆哮する。
異形の腕が、彼女へ振り下ろされた。
レイルラインは横へ滑るように避け、踏み込む。
白銀の大剣が、怪物の脇腹へ深く走った。
硬い甲殻の隙間。
守りの薄い一点。
流し斬りは、確かに急所まで届いた。
黒い血が噴き出す。
だが。
「……流し斬りが完全に入ったのに……効かない、だと……!?」
怪物は止まらなかった。
斬り裂かれた外殻の奥から、黒い肉のようなものが蠢く。
傷は、見る間に塞がっていく。
レイルラインはさらに踏み込んだ。
今度は一本の腕を斬り落とす。
だが、切断面から闇が溢れ、新たな腕が歪に伸び始めた。
再生。
それも、人の常識を越えた速さで。
「第二隊、後退しろ!」
レイルラインは、怪物の爪を大剣で受け流しながら叫んだ。
「東門は放棄する! 民を西門へ向かわせろ!」
「しかし、城内にはまだ――」
「一人でも多く外へ出す! 近衛は避難誘導を優先しろ!」
帝国兵が槍を突き出す。
レイルラインはそれを斬り払い、続けて怪物の爪を避けた。
だが、敵は一体ではない。
煙の向こうから、さらに黒い影が現れる。
東門の防衛線は、すでに崩れ始めていた。
このままでは帝国軍が王都へ雪崩れ込む。
王宮に残された民も。
まだ戦う力を持たない妹も。
レイルラインは奥歯を噛み締めた。
「西門を死守しろ」
剣を振るいながら、彼女は命じた。
「一人でも多く、生かして逃がせ」
*
王宮の長い回廊では、怒号が飛び交っていた。
「西門へ! 避難民を西門へ誘導しろ!」
「第二城壁が破られました!」
「東門から帝国軍が市街地へ入ったぞ!」
窓ガラスが砕け、長い回廊へ雨のように降り注ぐ。
白い石壁には亀裂が走り、遠くで誰かの悲鳴が上がった。
金色の髪を揺らしながら、レフィーナは護衛に囲まれて走っていた。
まだ正式な叙任を受けていない、姫騎士見習い。
窓の向こうでは、見慣れた王都が燃えていた。
朝には市場に並んでいた果物の屋台も。
祭日の飾りで彩られていた通りも。
黒煙の向こうへ消えている。
空を覆う煙の下では、帝国の旗が風に鳴っていた。
「レフィーナ様、こちらへ!」
近衛騎士が手を伸ばす。
だが、レフィーナはその手を取れなかった。
「待ってください」
回廊の柱の陰で、小さな子供が座り込んでいた。
煤で汚れた頬を涙で濡らし、壊れた壁の向こうを指さしている。
「おかあさんが……まだ……!」
子供の声は震えていた。
近衛騎士が顔をしかめる。
「今は無理です。王都はすでに――」
「大丈夫です」
レフィーナは子供の前へしゃがみ込んだ。
自分の手も震えていた。
爆発の音がするたび、肩が跳ねそうになる。
けれど、子供の手はもっと冷たく、もっと強く震えていた。
レフィーナは両手で、その小さな手を包む。
「一緒に探しましょう」
「ですが、レフィーナ様!」
「この子のお母さんが、まだ向こうにいるんです」
言い切ると、レフィーナは立ち上がった。
護衛たちが止めるより早く、崩れた回廊の奥へ駆け出す。
石の粉塵が舞っていた。
壁の一部が崩れ、かつて絵画が飾られていた場所は瓦礫に埋もれている。
その下から、かすかな声が聞こえた。
「だ、誰か……」
「お母さん!」
子供が泣きながら駆け寄ろうとする。
レフィーナは慌てて抱き留めた。
「危ないです。ここにいてください」
瓦礫の下には、若い女性がいた。
片足を石材に挟まれ、動けないでいる。
顔には擦り傷があり、息も荒い。
「大丈夫ですか?」
「姫様……? どうして、ここに……」
「今、助けます」
レフィーナは石材へ手をかけた。
押す。
けれど、びくともしない。
もう一度、力を込める。
腕が震える。
指先が痛む。
それでも、女性の向こうでは子供が必死に母を呼んでいた。
「お母さん……!」
「大丈夫。絶対に助けますから」
自分に言い聞かせるように、レフィーナは言った。
その時だった。
瓦礫の上を、一筋の閃光が走った。
石が、音もなく二つに分かれる。
重かった石材は横へ滑り落ち、女性の足を解放した。
「立てるか」
低く、短い声だった。
レフィーナが振り返る。
「お姉様!」
そこに立っていたのは、レイルラインだった。
白銀の鎧は煤と泥で汚れている。
肩当てには大きな傷があり、白い腕には血が流れていた。
それでも、その背筋はまっすぐだった。
「怪我はないか、レフィーナ」
「私は大丈夫です。お姉様こそ……!」
「私はいい」
レイルラインは、助け出された女性へ視線を向けた。
「近衛。彼女を支えろ。子供とともに西門へ」
「は、はい!」
近衛騎士が女性の肩を支える。
母親は子供を抱きしめ、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、姫様……!」
子供も、涙を拭いながらレフィーナを見上げた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
レフィーナは笑おうとした。
けれど、笑顔はうまく作れなかった。
レイルラインの鎧に付いた血が、敵のものだけではないと分かってしまったからだ。
「お姉様。前線は……」
「崩れている」
その一言に、周囲の空気が凍った。
近衛騎士の一人が、息を切らして駆け込んでくる。
「レイルライン様! 帝国軍が市街地を横切り、西門へ迫っています! 避難民の列が――」
「分かっている」
レイルラインは、迷わずレフィーナの手首を掴んだ。
「西門へ行け」
「え?」
「東門は落ちた。西門が、王都に残された最後の出口だ」
レフィーナは首を振る。
「でも、まだ助けられる人がいます。お姉様一人で――」
「私がいる」
短い言葉だった。
けれど、その声には、拒絶ではない切実さがあった。
レフィーナは息を呑む。
姉の手は、冷えていた。
いつもなら、どんな敵を前にしても揺るがないはずの手が。
ほんのわずかに、強く握られている。
「お姉様……?」
「行け、レフィーナ」
レイルラインは妹を見た。
そこには命令する姫騎士ではなく、ただ一人の姉がいた。
「今すぐにだ」
レイルラインは剣を握り直す。
「近衛。避難民を連れて西へ進め」
「しかし、レイルライン様は――」
「私は時間を作る」
振り返ることなく、彼女は言った。
「一人でも多く、生かして逃がせ」
*
東門を陥とした帝国軍は、市街地を横断し、西門へ迫っていた。
西門は、王都に残された最後の出口だった。
門を閉めれば、城内に残る民の逃げ道が断たれる。
だから、門は開かれたままだった。
西の荒野へ続く街道には、避難民の列が伸びている。
その背後――王都の内側から、帝国兵とエボルモンスターの群れが追いつこうとしていた。
「門を閉めるな! 一人でも多く外へ出すんだ!」
「防衛線を維持しろ! ここを抜かれれば、民が逃げられない!」
西門前の広場では、王宮護衛たちが必死に剣を振るっていた。
その最前線へ、レイルラインが踏み出す。
「下がれ」
帝国兵が槍を構える。
「イルファリアの姫騎士だ! 殺――」
最後まで言わせなかった。
レイルラインの剣が一閃する。
帝国兵の槍が折れ、足元の石畳が一直線に裂けた。
怯んだ兵たちの間へ、彼女は迷いなく踏み込む。
剣が走るたび、帝国兵の武器が落ちる。
倒れた者を追わず、避難路を塞ぐ者だけを斬り払う。
「行け!」
近衛たちが避難民を西へ導く。
レフィーナは護衛に腕を掴まれながらも、その場を離れられなかった。
姉の背中が、あまりにも小さく見えた。
その時。
東門でレイルラインが斬り落としたはずの腕を、黒い肉で再生させた怪物が現れた。
エボルモンスターが咆哮する。
異形の腕が振り下ろされた。
レイルラインは身を翻し、剣を振るう。
甲殻へ刃が食い込んだ。
火花が散る。
だが、怪物は止まらない。
先ほど深く裂いたはずの傷口さえ、すでに黒い肉に覆われていた。
レフィーナは、声を失う。
レイルラインには、妹の視線に応える余裕はなかった。
怪物の拳が石畳を抉る。
彼女は避ける。
反撃する。
帝国兵を牽制する。
だが、一体だけではない。
煙の向こうから、さらに二体、三体と異形が現れた。
近衛隊の隊列が崩れ始める。
「レイルライン様! このままでは西門が――」
「止める!」
レイルラインは叫んだ。
初めて、その声に焦りが混じった。
彼女は前へ出る。
後ろにいるレフィーナへ、ただ一歩でも近づかせないために。
帝国軍の指揮官らしき男が、遠くから声を張り上げた。
「姫騎士を殺すな!」
その命令に、レフィーナは顔を上げる。
「第一王女を生かして捕らえろ! 皇帝陛下がお望みだ!」
レイルラインは、背後を見た。
そこには、レフィーナがいる。
まだ逃げきれていない民たちがいる。
ここで退けば、彼らが怪物たちに呑まれる。
(……私に、自己犠牲の精神などない)
大剣を握り直す。
(だが、お前だけは渡さない)
レイルラインは、自ら敵の群れへ踏み込んだ。
剣を振るい、怪物を斬り、兵を薙ぎ払う。
敵の注意が、彼女一人に集まっていく。
「来い」
姫騎士は、燃える王都の中で叫んだ。
「私の首が欲しいなら、力で奪ってみせろ」
だが、疲労は限界に近かった。
死角から飛び込んだ怪物の腕が、レイルラインの側頭部を掠める。
視界が揺れた。
大剣が手から離れ、石畳を滑っていく。
「お姉様の剣が……!」
レフィーナが叫ぶ。
その瞬間を待っていたかのように、帝国の術師たちが腕を振った。
黒い魔導の鎖が、レイルラインの両手首と足首へ絡みつく。
さらに上空から落ちた魔導網が、彼女の身体を覆った。
「くっ……!」
魔力が封じられる。
レイルラインは鎖を引きちぎろうとしたが、膝が石畳についた。
白銀の鎧が砕け、煤と血に汚れていく。
イルファリア最強の姫騎士が、敵に捕らえられた。
「…………くっ、……殺せ!」
「お姉様――っ!」
レフィーナは護衛の制止を振り切り、敵へ向かって駆け出そうとした。
未熟な光の魔力が、彼女の身体の周りでかすかに揺れる。
だが、魔導網に縛られたレイルラインが、妹を睨んだ。
「来るな――――っ!」
その叫びに、レフィーナの足が止まる。
「西へ行け、レフィーナ!」
「嫌です! お姉様を置いてなんて――!」
「イルファリアは、お前さえ無事なら立て直せる!」
レフィーナの目から涙が溢れた。
レイルラインは、声を絞り出す。
「生きるために走れ! ――そして、前に進め!」
「レフィーナ様、お許しを!」
護衛たちが、レフィーナを抱え上げた。
「離してください! お姉様! お姉様ぁぁぁ!」
彼女の叫びを背に、護衛たちは西へ走る。
燃える王都。
崩れる城壁。
帝国軍に囲まれながら、なおレフィーナの方だけを見つめる姉の姿。
それが、レフィーナの瞳に焼き付いた。
やがて煙が二人の間を覆い隠す。
もう、何も見えなかった。
ただ、姉の最後の声だけが、耳の奥で鳴り続けていた。
――前に進め。
姉の声だけを背に。
レフィーナは、燃える王都から西へ連れ出された。
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