第20話「帰る場所」
翌朝。
塔を取り巻く時空乱流は、少しだけ弱まっていた。
完全に収まったわけではない。
塔の外を見れば、海の波が、時折不自然に止まり、遠くの雲も、一部分だけが取り残されたように動かない。
それでも、イースランドからポートハーベンへ戻る航路だけは、どうにか安定していた。
「短い航路なら問題ありませんわ」
ディートリーゼはそう言って、レフィーナを塔の下層へ連れてきた。
「あの少年は、もう帰っても大丈夫ですわ」
「はい」
「今後のわたくしたちの旅は危険ですから、同行はできませんわ」
「はい」
「今日は妙に素直ですわね」
「昨日、たくさん怒られましたから」
「でしたら、もっと早く学習してくださいまし」
レフィーナは。
少しだけ笑った。
その顔を見て。
ディートリーゼは、一瞬だけ視線を逸らした。
昨夜。
この少女の寝台の横で。
短剣を振り上げたことを。
レフィーナは知らない。
「……?」
「何でもありませんわ」
ディートリーゼは扇子を開いた。
「行きますわよ」
* * *
塔の下層。
客室の扉を開くと。
一人の少年が立ち上がった。
「レフィーナ!」
「マークさん……!」
マークだった。
駆け寄ろうとして。
レフィーナは一歩目で顔をしかめる。
「いたっ……」
「お、おい!」
マークが慌てて近づく。
「無理するなよ!」
「だ、大丈夫です」
「その言い方する人、大体大丈夫じゃないんだよ」
「まあ!」
ディートリーゼが扇子の陰から口を挟む。
「よく分かっていますわね!」
「ディートリーゼさん!」
「事実ですわ」
マークは苦笑した。
けれど、すぐにその表情が和らぐ。
「無事だったんだな」
「……はい」
「あのまま戻ってこないから、心配したぞ」
「ごめんなさい。私、ディートリーゼさんと旅に出ることになりました」
「そうなのか……」
レフィーナは、少しだけ目を伏せた。
時空の塔へ来てから、長い時間が過ぎたわけではない。
けれど。
あまりにも多くのものを見た。
未来の滅び。
占領された故郷。
暗黒の姫騎士。
自分たちの光が、まるで届かない闇。
そして今、目の前には、ポートハーベンからここまで自分を連れてきてくれた少年がいる。
その顔を見ただけで、胸の奥が少しだけほどけた。
「マークさん」
「ん?」
レフィーナは、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「え?」
「ここまで連れてきてくれて」
一つ。
「待っていてくれて」
もう一つ。
「それに」
顔を上げる。
「私を信じてくれて」
「……」
マークは、しばらくレフィーナを見ていた。
それから、小さく首を振った。
「まだ早いよ」
「え?」
「礼は、無事に帰ってきてから」
レフィーナの瞳が揺れる。
「前にも言っただろ?」
マークは笑った。
「だから」
一拍。
「ちゃんと帰ってこいよ」
「……はい」
胸が少し熱くなる。
レフィーナは、今度は、はっきりと頷いた。
「必ず」
マークも頷く。
そのやり取りを、ディートリーゼは、少し離れた場所から見ていた。
――帰ってこい。
随分と簡単に、この少年は言う。
未来を知らない。
レフィーナが何になるかも。
あの滅びも。
暗黒の姫騎士の力も。
何も知らない。
それでも、帰ってくると信じている。
その信頼が、ディートリーゼには少し眩しかった。
マークが、ディートリーゼに向き直った。
「時の姫騎士様」
「……何ですの?」
「レフィーナを、頼みます」
「……」
ディートリーゼの手が、わずかに止まった。
昨夜。
短剣を持って、眠るレフィーナの前に立った。
今なら殺せると。
そう考えていた自分に、この少年はレフィーナを頼むと言う。
――わたくしに。
そんな資格があるのか。
答えはすぐには出なかった。
けれど、黙ったままでいるわけにもいかない。
ディートリーゼは、扇子を大きく開いた。
「おーっほっほ!」
塔の中へ、高笑いが響く。
「頼まれなくとも!」
いつもの調子で胸を張る。
「わたくしは、時の姫騎士ですわ!」
その言葉は完全な嘘ではなかった。
けれどまだ、すべて本心とも言えなかった。
それでも昨日までよりは、少しだけ本当の言葉になっていた。
* * *
塔の入口から外へ出ると、潮の匂いがした。
イースランドの岩場。
その先に、マークの小さな船が繋がれている。
「航路は調整してありますわ」
ディートリーゼが海を指す。
「この流れから外れなければ、ポートハーベンまで戻れますの」
「分かった」
「寄り道は禁止ですわよ」
「しないよ」
「海鳥が逆向きに飛んでいても追いかけないこと」
「追いかけないって」
「空から魚が降ってきても拾って食べては駄目ですわ」
「食べないよ!」
「ならよろしいですわ」
レフィーナが、くすりと笑った。
「何ですの?」
「いえ。ディートリーゼさん、心配性なんですね」
「違いますわ!」
「そうなの?」
マークが笑う。
「違いますの!」
ディートリーゼは、ふん、と顔を逸らした。
マークが船へ乗り込む。
帆を確認し、縄を解いた。
ゆっくりと、小さな船が岸を離れていく。
「マークさん!」
レフィーナが呼んだ。
船の上でマークが振り返る。
「必ず帰ります!」
迷いなく、そう言った。
マークは大きく手を上げた。
「待ってる!」
「……!」
風が吹いた。
帆が膨らむ。
船が。
少しずつ遠ざかっていく。
レフィーナは、岩場に立ったままその姿を見送った。
小さくなって。
やがて。
海の向こうへ消えるまで。
「……」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
寂しい。
けれど、それだけではなかった。
待っている。
そう言ってくれる人がいる。
帰ってこいと。
当たり前のように言ってくれる人がいる。
ポートハーベン。
ランドルフ。
マーク。
そして、まだ取り戻してはいないイルファリア。
帰りたい場所がある。
帰ってきてほしいと願ってくれる人がいる。
それは、思っていたよりも、心を支えてくれるものだった。
レフィーナは、包帯の巻かれた手を胸へ当てた。
未来がどれほど恐ろしくても、どれほど強い敵が待っていても、帰る場所がある。
なら、そこへ帰るために進める。
ディートリーゼが、少し離れた場所から声をかけた。
「レフィーナ」
「はい」
「行きますわよ」
レフィーナはもう一度だけ、船の消えた海を見る。
そして、振り返った。
「はい!」
二人の背後には、時空の塔。
その中では赤い灯火が、今も弱く燃えている。
炎の国。
エスティア。
そこで、一人の姫騎士が助けを待っている。
レフィーナは。
剣の柄に手を置いた。
包帯の下の傷が、わずかに痛む。
それでも、歩ける。
まだ、進める。
「リーザさんを、助けに行きましょう」
ディートリーゼは扇子を開く。
「ええ」
そして、いつものように、少しだけ得意げに笑った。
「炎の国へ向かいますわよ」
二人は、時空の塔へ戻っていく。
帰る場所を、胸に抱きながら。
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