第19話「もう少しだけ」
その夜。
時空の塔は、静かだった。
どこか遠くで、巨大な歯車が、ゆっくりと回っている。
カチ。
カチ、カチ――。
廊下の壁に埋め込まれた水晶は、淡い光を放っている。
窓の向こうでは、星のような光の流れが、音もなく横切っていた。
ディートリーゼは、一人で、廊下に立っていた。
目の前には、レフィーナが眠る客室の扉。
「……」
右手には、小さな短剣が握られていた。
最初に出会った時、レフィーナへ向けたものと、同じ短剣。
冷たい白い刃が、水晶の光を受けて、かすかに輝く。
ディートリーゼは、短剣に目を落とした。
昼間の言葉が、耳の奥に残っている。
『私は、リーザさんを助けたいです』
あれほどの目に遭ったのに、変わらなかった。
いや。
本人は、変わったと言った。
『今の私は、あの人には届きません』
『だから、強くなりたいです』
『一人では無理でも、みんなでなら、届くかもしれません』
「……」
強くなる。
仲間を集める。
姫騎士たちを救う。
それは、帝国へ抗うためなら正しい。
暗黒の姫騎士へ届くためにも。
きっと必要なこと。
けれど。
ディートリーゼは知っている。
その先に、何が待っているのかを。
砕けた世界樹。
滅びた大地。
黒く濁ったティアラ。
そして。
レフィーナの姿をした、大魔王。
「このまま進ませれば……」
声が、小さく漏れた。
「本当に、あの未来へ近づくかもしれませんわ」
昼間。
自分は言った。
分かった、と。
監視する、と。
そう言って、レフィーナが先へ進むことを認めた。
けれど。
それでいいのか。
ディートリーゼは、短剣を握る指に力を込めた。
イルファリアで、機会はあった。
自分は、何もしなくてよかった。
暗黒の姫騎士に任せておけば。
レフィーナは、そこで終わっていた。
絶対の未来も、そこで途切れていたかもしれない。
なのに。
自分は、手を伸ばした。
『レフィーナ!』
今でも、あの瞬間の感触を覚えている。
握った手。
細い指。
震えていた、自分の手。
「わたくしは……」
ディートリーゼは目を伏せる。
「レフィーナを、見捨てることができませんでしたわ」
言葉にした瞬間。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
否定できない。
もう、ただの観測対象ではない。
未来を変えるための駒でもない。
少なくとも、あの場で見捨てられないほどには、この少女を知ってしまった。
「でしたら……」
扉を見る。
「やるなら、今しかありませんわ」
これ以上。
一緒にいれば。
また食卓を囲むかもしれない。
また笑いかけられるかもしれない。
また。
自分のことを優しいなどと言われるかもしれない。
「この先……」
短剣を持つ手が、わずかに震えた。
「もっと情が移ってしまうかもしれませんもの」
だから。
今。
まだ、できるうちに終わらせる。
未来を変えるために。
世界を救うために。
ディートリーゼは、静かに扉に手をかけた。
* * *
扉が。
音もなく開いた。
客室は薄暗い。
窓の外を流れる星の光だけが。
寝台を淡く照らしていた。
レフィーナは。
眠っている。
呼吸は静かだった。
まだ身体には傷が残っている。
両手には包帯。
顔色も完全には戻っていない。
ディートリーゼは、ゆっくりと寝台へ近づいた。
「今なら……」
短剣を見つめる。
「時を止めるまでもありませんわね」
眠っている。
抵抗されることはない。
自分なら。
一瞬で終わらせられる。
苦しませる必要もない。
それが一番いい。
そう思わなければならない。
暗黒の姫騎士に奪われる前に。
帝国に利用される前に。
大魔王に呑まれる前に。
レフィーナが、誰かを傷つける前に。
短剣を持つ手が、ゆっくりと上がる。
白い刃が、星の光を受けた。
「……」
レフィーナは。
何も知らずに眠っている。
――違う。
ディートリーゼは。
そう思った。
何も知らないわけではない。
未来を見た。
自分が世界を滅ぼす姿を。
故郷を見た。
帝国に蹂躙されたイルファリアを。
闇を見た。
自分たちでは届かないほどの。
暗黒の姫騎士を。
それでも、この少女は助けに行くと言った。
「迷っては……」
ディートリーゼは、自分に言い聞かせる。
「駄目ですわ」
刃が。
少しずつ下を向く。
「わたくしが迷えば」
一拍。
「世界が――」
その時だった。
レフィーナの指先が、かすかに動いた。
「……!」
ディートリーゼの手が止まる。
レフィーナは起きていない。
眠ったまま。
手探りするように、枕元へ指を伸ばしている。
そこには。
眠る前に外した光のティアラが置かれていた。
指先が触れる。
レフィーナは、ティアラを胸元へ引き寄せた。
両手で、大切なものを抱くように。
「……お姉様……」
小さな、かすれた寝言。
ディートリーゼの瞳が揺れた。
レフィーナは。
苦しそうに眉を寄せる。
「まだ……」
一度、息を詰まらせる。
「終わって……ません……」
「……」
短剣が。
動かない。
姉を助けたいと願う少女。
絶対の未来を知って。
それでも。
まだ終わっていないと言う少女。
根拠などない。
確信もない。
ただ。
諦めていない。
昼間もそうだった。
暗黒の姫騎士に、何もできずに負けた。
それでも。
『強くなりたいです』
そして。
『みんなでなら、届くかもしれません』
未来の怪物ではない。
今ここにいるのは。
姉を助けたくて。
誰かを見捨てたくなくて。
怖いまま。
それでも前へ進もうとしている、ただの少女だった。
「……卑怯ですわ」
ディートリーゼは。
短剣を下ろした。
「そんな寝言を聞かされては……」
眠るレフィーナを見つめる。
さっき。
今しかないと思った。
この先。
もっと情が移る前に、終わらせなければならないと。
なのに。
もう、遅かったのかもしれない。
「わたくしも」
ディートリーゼは。
短剣をローブの内側へ戻す。
「簡単には、決められませんわね」
レフィーナは、何も知らずに眠っている。
胸元には、光のティアラ。
その光が、弱く温かく、少女の指の間から漏れていた。
未来では、黒く濁るはずの光。
けれど、今はまだ違う。
ディートリーゼは、扇子で口元を隠した。
「もう少しだけ」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
「もう少しだけ」
眠るレフィーナを見つめる。
「見極めて差し上げますわ」
そして。
静かに部屋を出た。
扉が、音もなく閉じる。
廊下には、また時計の音だけが残った。
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