第17話「握った手」
黒点が消えた。
路地には。
倒れたレフィーナが残されていた。
石畳はえぐれ。
壁はひび割れ。
砕けた瓦礫が、あちこちへ散らばっている。
先ほどまで満ちていた金色の光も。
もうない。
レフィーナは。
動かなかった。
「……」
ディートリーゼも。
動けなかった。
「今、楽にしてやろう」
暗黒の姫騎士が。
ゆっくりとレフィーナへ歩み寄る。
一歩。
また一歩。
足音はない。
けれど。
近づくたびに、黒い影が石畳へ広がっていく。
ディートリーゼの頭の中に。
冷たい答えが並び始めた。
――ここで終わる。
未来の怪物が。
今、ここで消える。
レフィーナがいなくなれば。
あの未来は訪れないかもしれない。
世界は。
救われるかもしれない。
自分は。
何もしなくていい。
そう。
何もしなくていい。
暗黒の姫騎士が。
倒れたレフィーナへ手を伸ばす。
黒い指先が。
額のティアラへ近づいていく。
ディートリーゼは。
その光景を見ていた。
これでいい。
そう思わなければならない。
自分ができなかったことを。
目の前の相手がしてくれるだけ。
何もしなければ。
それだけで――。
ふと。
温かい湯気が、脳裏をよぎった。
『わたくしは、一人でも問題ありませんわ』
『はい。でも、今日は二人です』
「……」
レフィーナの笑顔。
何の疑いもなく。
当たり前のように。
自分の前へ、二つの器を並べた少女。
『ディートリーゼさんは、優しいですね』
違う。
優しくなどない。
そう否定した。
何度も。
それなのに。
今度は。
別の光景が浮かんだ。
冷たい石壁。
閉じていく鉄格子。
伸ばした手。
届かなかった手。
残してきた、一人の男。
ダン。
あの時。
自分は。
戻れなかった。
助けられなかった。
置いてきた。
――また。
胸の奥で。
誰かの声がした。
――また、見捨てるのですの?
「……っ」
ディートリーゼの足が。
動いた。
考えるより先に。
「レフィーナ!」
暗黒の姫騎士が振り返る。
だが。
それより早く。
ディートリーゼは倒れたレフィーナの手を掴んだ。
指先が震えていた。
それでも。
ディートリーゼは、握った手を離さなかった。
「時の跳躍――帰還!」
紫色の光が弾けた。
時計の針が。
一斉に逆回転するような音。
カチ。
カチ、カチ、カチ――!
暗黒の姫騎士が手を伸ばす。
黒い指先が。
紫の光へ触れかけた。
「逃がすか!」
空気が歪む。
闇が、紫の光を掴もうとする。
ディートリーゼは歯を食いしばった。
「帰りますわよ……!」
時空の流れが軋む。
レフィーナ一人を連れての強制跳躍。
しかも。
時の流れを乱す闇の中から。
術式が悲鳴を上げていた。
「わたくしの塔へ――!」
時計の音が。
ひときわ強く鳴った。
次の瞬間。
二人の姿が。
路地から消えた。
* * *
白い光。
落下するような感覚。
そして。
「きゃっ――!」
ディートリーゼは時空の塔の石床へ投げ出された。
肩を打つ。
息が詰まった。
そのすぐ横で。
レフィーナも、床へ横たわる。
白い円形の広間。
流れる星の天井。
床下で回る巨大な歯車。
帰ってきた。
「はぁ……はぁ……」
ディートリーゼは、左手の杖を床へついた。
呼吸が整わない。
額から汗が落ちる。
杖の先にある砂時計も、激しく明滅していた。
「無茶苦茶ですわね……」
自分でやったことなのに。
思わず、そう呟いた。
術式を整える暇もなく。
他人まで巻き込んで。
時の流れが乱れた場所から無理やり帰還した。
少しでも術式が崩れれば。
二人とも、時空の狭間へ投げ出されていたかもしれない。
「ですが……」
レフィーナを見る。
呼吸はある。
弱い。
けれど。
生きている。
ディートリーゼの肩から。
少しだけ力が抜けた。
「……うまくいきましたわ」
ようやく。
そこで気づいた。
自分の右手。
その手は。
まだ。
レフィーナの手を握っていた。
「……」
離そうとする。
けれど。
指が動かなかった。
ついさっきまで。
この少女を置いていけばいいと思っていた。
未来の滅びを招くかもしれない少女。
殺すべきかもしれないと。
今も考えている少女。
なのに。
「つい……」
声が。
小さくこぼれた。
「咄嗟に手を取ってしまいましたわ」
答えはない。
レフィーナは眠ったまま。
ディートリーゼは、その横顔を見つめる。
「あのまま何もしなければ……」
一拍。
「よかったはずですのに」
未来のためなら。
正しいはずだった。
なのに。
できなかった。
レフィーナの額では。
光のティアラが、かすかに輝いている。
弱くても。
温かな光。
ディートリーゼは。
その光から目を逸らした。
「あなたは、本当に……」
握った手へ視線を落とす。
「困った方ですわね」
それでも。
手は。
まだ離れなかった。
* * *
イルファリアの路地は。
静まり返っていた。
黒い闇の名残が。
えぐれた石畳の上を漂っている。
暗黒の姫騎士は。
二人が消えた場所を見つめていた。
あと一歩だった。
レフィーナも。
時の姫騎士も。
まとめて手に入るはずだった。
「……あやつ」
黒い闇が。
足元で低く渦を巻く。
「時を跳躍する力にまで目覚めたか?」
少し離れた場所で伏せていた帝国兵が。
恐る恐る顔を上げた。
「暗黒の姫騎士様……あの者たちは、どこへ……?」
「まだ遠くへは行けぬはずだ」
即答だった。
時空の塔。
その存在を。
暗黒の姫騎士は知らない。
「イルファリア全土を探せ」
「はっ!」
「森も、村も、地下もだ」
仮面の奥から。
低い声が続く。
「港も封鎖しろ」
「ただちに!」
「何としても、あの二人を探し出せ!」
帝国兵たちは一斉に立ち上がった。
誰も逆らわない。
誰も問い返さない。
足音が遠ざかっていく。
やがて。
路地には。
暗黒の姫騎士だけが残った。
彼女は。
レフィーナが倒れていた場所へ視線を落とす。
石畳には。
一本の深い傷が残っていた。
光の剣が。
闇に抗った跡。
仮面の奥で。
何かが揺れた。
「レフィーナ……」
その名は。
怒りにも聞こえた。
悲しみにも聞こえた。
けれど。
その意味は。
黒い仮面の奥に隠されたままだった。
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