第15話「暗黒の姫騎士」
暗黒が、人の形を取っていた。
黒い外套。
風もないのに、ゆっくりと揺れる長い裾。
光を吸い込むような鎧。
顔を覆う、表情の読めない仮面。
その周囲には、煙のような闇がまとわりつき、石畳の上を這うように広がっている。
帝国兵たちは、少し離れた場所で膝をついていた。
つい先ほどまでレフィーナを嘲笑っていた男たちが、誰一人として顔を上げようとしない。
レフィーナの背後では、少年が震えている。
小さな手で、パンの包みと薬草を抱き締めていた。
レフィーナは、光をまとった剣を構えた。
さっきまで帝国兵の武装を弾き飛ばしていた金色の光が、今は闇に押されるように細く揺れている。
「あなたは……帝国の人ですか?」
声は震えた。
それでも、剣先は下げない。
暗黒の姫騎士は答えなかった。
仮面の奥の視線だけが、ゆっくりと動く。
レフィーナではない。
その隣に立つ、ディートリーゼへ。
「時の姫騎士」
低い声だった。
冷たい。
けれど。
ただ敵へ向けるだけの声には聞こえなかった。
ディートリーゼの肩が、かすかに揺れた。
「……わたくしを、知っていますの?」
暗黒の姫騎士が、一歩進む。
足音はしない。
だが、踏み出した先から、石畳へ闇が染み込んでいく。
「あの弱者が、ここまで厄介になるとはな」
ディートリーゼの表情が強張った。
「……!」
弱者。
その言葉が。
遠い過去をえぐる。
親善試合で一回戦敗退。
誰からも期待されず。
時の姫騎士でありながら、大した力もないと軽く見られていた頃。
それを。
この相手は知っている。
「あなた……」
ディートリーゼが扇子を閉じた。
カチリ。
柄が伸び、白い杖へ変わる。
「何者ですの!?」
答えはない。
仮面が。
今度はレフィーナへ向いた。
「そして、お前も」
「……私?」
その声には。
押し殺した苛立ちがあった。
怒りにも似ている。
だが。
レフィーナには、その理由が分からない。
けれど。
今、するべきことは分かっていた。
「走ってください」
背後の少年へ、小さく声をかける。
「お、お姉ちゃんは……?」
「あの角を曲がった先に、崩れた家があります。そこに隠れてください」
「でも……」
「大丈夫です」
レフィーナは振り返らなかった。
暗黒の姫騎士から。
目を逸らすことができなかった。
「お母さんのところへ、薬を持って帰ってあげてください」
「……うん」
少年は震えながら頷いた。
パンの包みと薬草を抱え直し。
走り出す。
暗黒の姫騎士は。
止めなかった。
まるで。
少年になど、最初から興味がないように。
小さな足音が、路地の角へ消えていく。
それを確認して。
レフィーナは、剣を握り直した。
* * *
「レフィーナ」
ディートリーゼが、低い声で呼んだ。
「相手の力が分かりませんわ。ここは一度、退きますわよ」
レフィーナは首を振る。
「逃げても、あの人は追ってきます」
「だからといって、正面から――」
言葉が途切れた。
暗黒の姫騎士が。
ゆっくりと片手を上げた。
ただ。
それだけだった。
剣を抜いたわけではない。
踏み込んでもいない。
なのに。
周囲の闇が、一斉に濃くなった。
「……っ!」
空気が重い。
石畳そのものが沈んだように感じる。
レフィーナは踏み込もうとした。
飛燕剣・初太刀。
届くべき場所へ届く剣。
だが。
「くっ……!」
足が動かなかった。
見えない重石が、全身を押さえつけている。
息を吸うだけで苦しい。
剣を支える腕が震える。
ルミナス・エンチャントブレードの光が。
細くなる。
押し潰されるように。
暗黒の姫騎士は、そこから一歩も動いていない。
ただ立っているだけ。
それなのに。
レフィーナは剣を振ることすらできなかった。
「その程度か」
冷たい言葉が落ちた。
「……っ」
レフィーナの胸に突き刺さる。
未来では。
自分は世界を滅ぼすかもしれない。
大魔王に呑まれ。
黒い力で、すべてを壊すかもしれない。
なのに。
今は。
目の前にいる、たった一人へ。
剣を届かせることさえできない。
「まだ……」
レフィーナは歯を食いしばった。
剣を支えに、一歩。
足を前へ出そうとする。
だが。
闇が、さらに重くなる。
膝が沈んだ。
ディートリーゼが杖を構える。
「クロックディビエーション!」
紫色の光が走った。
いくつもの光輪が、暗黒の姫騎士を包もうとする。
行動の時機をずらす。
ほんのわずかでも。
その間に、レフィーナを退かせる。
だが。
紫の光が闇へ触れた瞬間。
ぐにゃり、と歪んだ。
「……え?」
光輪がねじれる。
時間の流れそのものが乱れ。
次の瞬間。
弾け飛んだ。
「術式が……!」
ディートリーゼが息を呑む。
「乱されましたの?」
暗黒の姫騎士が。
ゆっくりと顔を向けた。
それだけで。
ディートリーゼの背中を、冷たいものが走った。
――まずい。
本能が告げている。
レフィーナも感じていた。
この相手は。
自分たちとは、立っている場所そのものが違う。
* * *
暗黒の姫騎士が。
上げたままの手を、ゆっくりと返した。
掌を、上へ。
その中心に。
ぽつり。
針の先ほどの黒点が生まれた。
「……?」
最初は。
ただの染みに見えた。
小さな。
何の変哲もない黒い点。
だが。
石畳の砂が。
ふわりと浮いた。
レフィーナの髪が、わずかに揺れる。
道端に転がっていた小石が。
カタ。
カタカタ……。
黒点の方へ動き始めた。
石畳に落ちていた帝国兵の剣が。
ズズズ……。
地を擦りながら。
ゆっくりと。
黒点へ引かれていく。
「何、ですか……あれ……」
レフィーナの声が震えた。
ディートリーゼは答えない。
答えられなかった。
路地の奥。
消えかけていた小さな火。
その光が。
糸のように細く伸びた。
黒点へ。
吸い込まれる。
そして。
消えた。
黒点は。
周囲の光を、喰らい始めていた。
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