第6話「今日は二人です」
塔の片隅に、小さな調理場があった。
石造りのかまど。
古い鍋。
保存食の入った棚。
中には、乾燥野菜、豆、硬いパン、それから何種類かの香草が残っている。
ポートハーベンのように新鮮な魚はない。
ランドルフの小屋のように、森で採れた木の実や野菜もない。
それでも、温かいスープくらいなら作れそうだった。
レフィーナは袖をまくった。
「火を起こしますね」
「強すぎますわ」
少し離れた場所で見ていたディートリーゼが、すぐに口を出した。
「そのかまどは古いのですの。強く燃やすと、下の歯車室まで熱が伝わりますわよ」
「そうなんですか?」
「そうですわ。ですから、火はこのくらいに――」
ディートリーゼは言いながら近づき、薪を少しずらした。
空気の入り口を狭める。
燃え上がっていた炎が、すぐに穏やかになった。
慣れた手つきだった。
レフィーナは目を瞬かせる。
「詳しいんですね」
ディートリーゼの手が止まった。
「……昔、少しだけ習いましたの」
「誰にですか?」
「余計なことを聞かないでくださいまし」
「すみません」
レフィーナは、それ以上聞かなかった。
鍋に水を注ぐ。
乾燥野菜を入れる。
豆を少し。
香草を少し。
硬いパンは薄く切り、火のそばで炙った。
豪華な食事ではない。
それでも、塔の冷たい空気の中では、鍋から立ち上る湯気だけで少し温かく感じられた。
やがて、調理場に香草と豆の匂いが広がる。
レフィーナは小さな食卓に、二つの器を並べた。
「どうぞ」
ディートリーゼは、その器をじっと見つめた。
「わたくしは、一人でも問題ありませんわ」
「はい」
レフィーナは頷く。
それから、自然に続けた。
「でも、今日は二人です」
ディートリーゼが顔を上げた。
何か言い返そうとした。
けれど、言葉が出てこない。
しばらくして、黙って椅子に座った。
スプーンを手に取る。
一口。
温かなスープを口に運ぶ。
ディートリーゼの瞳が、ほんの少しだけ見開かれた。
レフィーナは、気づかないふりをした。
「おいしいですか?」
「……普通ですわ」
「よかったです!」
「褒めてはおりませんわ」
ディートリーゼは扇子で口元を隠す。
けれど、二口目を飲むまでの間は短かった。
レフィーナもスープを口にする。
温かい。
肩に残っていた痛みまで、少しだけ和らいだ気がした。
しばらく、二人は黙って食べた。
塔の奥から、時計の音だけが聞こえてくる。
カチ。
カチ。
カチ――。
ディートリーゼは、器を見下ろしたまま口を開いた。
「あなたは、変な方ですわね」
「そうですか?」
「ええ」
スプーンが止まる。
「さっきまで、わたくしに打たれていたのに」
レフィーナは、自分の肩に触れた。
「痛かったです」
「でしょうね」
「でも、手加減してくれました」
ディートリーゼの瞳が、わずかに揺れる。
「急所を避けただけですわ」
「それを、手加減と言うのだと思います」
「……本当に、調子が狂いますわ」
ディートリーゼはそう言って、残りのスープを飲んだ。
* * *
食事を終え、二人は研究室へ戻った。
改めて見ると、やはりすごい散らかり方だった。
古文書。
水晶片。
紙束。
歯車。
食器。
使いかけの布。
羽根ペン。
床には、古びた羊皮紙まで落ちている。
レフィーナは、それを拾おうと手を伸ばした。
「触れてはなりませんわ!」
鋭い声が飛んだ。
レフィーナは、すぐに手を引く。
「ご、ごめんなさい!」
ディートリーゼは、自分でも少し言いすぎたと思ったのか、目を逸らした。
「……古い記録ですの。順番を変えられると、困るだけですわ」
「分かりました」
レフィーナは素直に頷いた。
けれど、視線はそのままディートリーゼへ向いていた。
「ディートリーゼさん」
「今度は何ですの」
「眠っていませんよね」
「時を扱う者に、睡眠など必要ありませんわ」
「必要です」
レフィーナは、きっぱり言った。
ディートリーゼが少し驚いたようにレフィーナを見る。
「眠らないと、悲しいことばかり考えてしまいます」
レフィーナは、静かに続けた。
自分にも覚えがあった。
イルファリアから逃げた夜。
姉を失ったと思っていた頃。
ランドルフの小屋で、眠れずに天井を見つめていた夜。
目を閉じれば、炎と黒煙がよみがえった。
眠らないまま考え続けると、心はどんどん暗い場所へ沈んでいく。
ディートリーゼは返事をしなかった。
扇子で口元を隠す。
「……あなたは、何も知りませんわ」
「はい。何も知りません」
レフィーナは頷いた。
「でも、誰かが困っていることは分かります」
ディートリーゼの指が、扇子の縁で止まる。
「困っているように見える者すべてを助けていたら、あなたはいつか壊れますわよ」
レフィーナは少し考えた。
「それでも」
ディートリーゼを見る。
「見なかったことにはしたくありません」
ディートリーゼの瞳が揺れた。
未来で見た少女。
黒く濁ったティアラ。
泣きながら笑うレフィーナ。
そして今、目の前にいる少女。
どうしても、二つが繋がらない。
その時だった。
レフィーナの額で、光のティアラがかすかに温かくなる。
「……?」
研究室の奥。
暗い棚の向こうで、何かが淡く光った。
古い水晶だった。
「今、何か……」
「触れては駄目ですわよ」
「はい」
レフィーナは頷いた。
近づくつもりはない。
ただ、棚の奥は暗かった。
何があるのか確かめようと、ほんの少しだけティアラへ意識を向ける。
淡い金色の光が、額からこぼれた。
その光が。
壁の奥に埋め込まれた水晶へ触れた。
ギィィィン――!
突然。
塔全体に、鈍い警報音が響き渡った。
「えっ!?」
壁の歯車が、一斉に逆回転を始める。
空中に浮かんでいた水晶が、赤く明滅する。
ディートリーゼの顔色が変わった。
「消して!その光を消しなさいな!」
「えっ?」
「早く!」
レフィーナは慌ててティアラの光を抑えた。
金色の光が消える。
だが。
遅かった。
廊下の奥で。
ガラ……。
何かが動いた。
ガラガラガラ――。
石が砕ける音。
レフィーナとディートリーゼは、同時に廊下へ顔を向けた。
そこには、いくつもの崩れた鎧があった。
折れた剣。
石の腕。
割れた仮面。
長い年月の中で壊れ、床へ散らばっていたはずの破片。
その一つ一つが、ゆっくりと宙へ浮かび上がる。
「これは……」
レフィーナが息を呑む。
石片が戻る。
折れた剣が繋がる。
割れた仮面が元の形へ戻っていく。
まるで。
壊れた時間そのものを、逆向きに辿っているように。
一体。
二体。
三体。
古代の人形兵が、白い廊下に立った。
胸部には、紫色の水晶。
仮面の奥に、赤い光が灯る。
無機質な声が響いた。
「未登録光源、確認」
人形兵たちが、一斉に剣を構える。
「塔内侵入者、排除」
レフィーナは剣へ手を伸ばした。
「私のせいです……!」
ディートリーゼは扇子を鋭く構える。
「謝っている場合ではありませんわ!」
次の瞬間。
三体の人形兵が、同時に動いた。
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