第5話「時の賢者」
ディートリーゼに案内され、レフィーナは時空の塔の廊下を歩いていた。
白い石の床。
壁に刻まれた時計盤の紋様。
窓の向こうを、星のような光がゆっくりと流れている。
美しい塔だった。
けれど、どこか冷たい。
人の気配が、ほとんどない。
風もないのに、遠くで紙がめくれるような音がした。
誰かの笑い声が聞こえた気がして振り返ると、次の瞬間には、泣き声へと変わっていた。
レフィーナは、腰の剣にそっと手を添えた。
まだ肩が痛い。
膝にも、少し痛みが残っている。
さっき、ディートリーゼに杖で打たれた場所だ。
けれど、それよりも気になっていることがあった。
「あの、ディートリーゼさん」
「何ですの」
「マークさんに、会えますか?」
前を歩いていたディートリーゼの足が止まった。
ぱちり、と扇子が開く。
「本当にあなたは、心配事の多い方ですわね」
「すみません。でも、無事だと聞いても、顔を見るまでは……」
ディートリーゼは、面倒そうにため息をついた。
「分かりましたわ」
「本当ですか?」
「少しだけですわよ。あの少年が騒ぐと、塔の機構がまた変な反応を起こしかねませんもの」
「ありがとうございます」
「礼は不要ですわ」
ディートリーゼは、壁に埋め込まれた水晶へ扇子を向けた。
水晶が淡く光る。
その中に、小さな部屋が映し出された。
白い石の客室。
古い寝台。
その扉の前に、マークが座り込んでいる。
「マークさん!」
レフィーナが思わず声を上げた。
水晶の向こうで、マークが顔を上げる。
『レフィーナ!?』
「はい。無事です」
『そっちこそ大丈夫なのか?何かされたりしてないか?』
「えっと……」
レフィーナは一瞬、言葉に詰まった。
肩が痛む。
膝も痛む。
ディートリーゼを見る。
彼女は扇子で口元を隠し、目だけを少し気まずそうに逸らしていた。
「大丈夫です」
レフィーナは笑った。
「ディートリーゼさんが、泊まる場所を用意してくれるそうです」
『そうなのか?』
マークの視線が、水晶越しにディートリーゼへ向く。
『時の姫騎士様、レフィーナを頼む』
ディートリーゼは、扇子をさらに大きく広げた。
「おーっほっほ!頼まれなくとも、わたくしは時の姫騎士ですわ」
高らかな笑い声が廊下へ響く。
ほんの少しだけ、声が裏返った。
「あなたはそこで大人しくしていなさいな。外は時空の乱流で危険ですの。下手に動けば、三日前のあなたと明後日のあなたが廊下で鉢合わせしますわよ」
『それは……嫌だな』
「ですわよね?」
ディートリーゼは、得意げに扇子を閉じる。
レフィーナはマークへ向き直った。
「マークさん、もう少しだけ待っていてください」
『分かった。でも、無茶するなよ』
「はい」
水晶の光が薄れていく。
最後に、マークの声だけが届いた。
『ちゃんと帰ってこいよ』
レフィーナは小さく頷いた。
「はい。必ず」
水晶の光が消える。
廊下に静けさが戻った。
「これで満足ですの?」
「はい」
「でしたら、余計な心配はおしまいですわ」
ディートリーゼは再び歩き出した。
「あなたは今、塔の主であるわたくしの客人ですの。勝手な行動は許しませんわよ」
「はい」
「はい、ではありませんわ。本当に分かっていますの?」
「分かっています」
「……怪しいですわね」
ディートリーゼはそう言って、少しだけ歩調を速めた。
* * *
案内されたのは、塔の中層にある広い部屋だった。
最初、レフィーナは図書室だと思った。
けれど、すぐに違うと分かった。
図書室というには、あまりにも散らかりすぎている。
床には古文書の山。
机の上には水晶片、壊れた砂時計、歯車、羽根ペン、乾いたインク壺。
壁には星図のような紙が何枚も貼られ、細かな線と文字がびっしりと書き込まれている。
椅子の背には黒いローブ。
窓際には冷めきった飲み物。
そして机の隅には、半分だけかじられた硬いパンが置かれていた。
レフィーナは思わず足を止めた。
「ここは……」
「わたくしの研究室ですわ」
ディートリーゼは胸を張る。
「時空の塔の中枢記録、古代文字、未来観測、因果収束、並行可能性。すべてを扱う、極めて高度で繊細な知の殿堂ですの」
レフィーナは部屋を見回した。
知の殿堂。
たしかに、すごい場所なのだろう。
だが。
「あの……」
「何ですの」
「足の踏み場が、あまりありません」
「ありますわ」
即答だった。
「そこ、そこ、そこですわ。三歩目だけは踏まないように。そこは昨日の仮説ですの」
「昨日の仮説……?」
「踏むと崩れますわ」
「紙ですよね?」
「仮説ですわ!」
レフィーナは慎重に足を運んだ。
机の横まで進んだところで、一枚の羊皮紙が目に入る。
古い文字で、こう記されていた。
『因果修正経路――未検出』
その下には、荒い筆跡。
『ですから、どうすればいいんですの!?』
さらに別の紙。
『失敗』
『収束』
『救出不可』
『滅亡』
『失敗』
『失敗』
『失敗』
レフィーナは息を呑んだ。
紙の端は、何度も握り潰されたように皺になっている。
「勝手に読んではなりませんわ!」
ディートリーゼが慌てて扇子を開いた。
「す、すみません!」
「これは非常に高度で繊細な時空理論の研究記録ですの!あなたのような素人が見ても、頭がこんがらがって、明日の朝食と昨日の夕食を取り違えますわ!」
レフィーナは、机の端に置かれた硬いパンを見る。
「ディートリーゼさん」
「何ですの?」
「昨日の夕食は、これですか?」
扇子が、ぴたりと止まった。
「……非常食ですわ」
「いつから置いてありますか?」
「時を扱う者に、昨日今日の区別など些末な問題ですの」
「食べた方がいいと思います」
「話を時空理論へ戻しなさいな!」
レフィーナは、少し困ったように笑った。
怒っている。
けれど、その怒り方はどこか必死だった。
もう一度、部屋を見る。
古文書。
書き込み。
壊れた砂時計。
握り潰された紙。
冷めた飲み物。
乾いたパン。
ただ散らかっているのではない。
考えて。
考えて。
眠ることも、食べることも忘れて。
何かを探し続けた跡だ。
「ディートリーゼさん」
「今度は何ですの」
「ご飯は、食べていますか?」
「食事など、必要な時に摂っておりますわ」
「いつ食べましたか?」
「……」
沈黙。
レフィーナは少し待った。
返事はない。
「台所を借りてもいいですか?」
ディートリーゼが怪訝そうに眉をひそめる。
「何をなさるつもりですの?」
「夕食です」
「必要ありませんわ」
「でも、空腹のままですと」
レフィーナは、にこりと笑った。
「未来まで暗く見えてしまいます」
ディートリーゼは口を開きかけた。
だが、何も言えなかった。
扇子の向こうで、その瞳がわずかに揺れる。
しばらくして。
「……勝手にしなさいな」
ディートリーゼは顔を背けた。
「ただし、塔の食材は貴重ですの。無駄にしたら、時を止めてでも説教しますわよ」
「はい!」
「なぜ嬉しそうなのですの……」
冷たい塔の中で。
ほんの少しだけ、夕食の支度が始まった。
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