第3話 帰れない少女
「言葉で分からないなら、身体で分からせるしかありませんわね」
レフィーナは目を見開く。
「え?」
ディートリーゼは、閉じた扇子を正面へ掲げた。
カチリ、と小さな音がした。
扇子の柄が伸びる。
細く、白い杖へ変わった。
先端には、小さな砂時計の形をした宝石がついている。
その中で、紫色の砂が逆さに流れていた。
「あなた程度では、この塔の奥へは進めませんわ。諦めて帰りなさいな」
レフィーナは剣を抜かなかった。
「私は、戦いに来たわけではありません」
「ならば、なおさら帰りなさいな」
ディートリーゼが杖の先で床を叩いた。
白い石床に刻まれた時計盤の紋様が、淡い紫に光る。
次の瞬間。
レフィーナの周囲の空気だけが、重くなった。
「……!」
身体が、思うように動かない。
指を伸ばす動きさえ、ひどく遅い。
息を吸うのさえ、遠くなる。
ディートリーゼの姿が、消えたように見えた。
気づいた時には、杖の先がレフィーナの肩を打っていた。
「っ……!」
鋭い痛み。
レフィーナは膝をついた。
床に手をつく。
ディートリーゼは淡々と言った。
「これが時間操作の力ですわ。あなたの剣では、わたくしに届きませんの」
レフィーナは歯を食いしばった。
剣の柄へ手を伸ばす。
だが、抜く前に時計の音が一つ鳴った。
カチ。
また世界がずれる。
ディートリーゼはいつの間にか背後にいた。
杖が、レフィーナの手首を軽く打つ。
「あっ……」
力が抜ける。
剣は鞘に収まったまま。
レフィーナはよろめき、何とか踏みとどまった。
「帰りなさいな」
ディートリーゼの声は冷たい。
「ここは、あなたが来る場所ではありませんわ」
レフィーナは顔を上げる。
「まだ……です」
その言葉に、ディートリーゼの眉が動いた。
「まだ?」
「まだ、帰れません」
レフィーナは剣の柄を両手で握った。
抜くためではない。
立つために。
「お姉様のことが何も分からないままでは、帰れません」
「分からないままの方が幸せなこともありますわ」
「それでも、知りたいです」
「知って、折れたらどうしますの?」
「折れないように、頑張ります」
「頑張ればどうにかなると思っていますの?」
「分かりません」
レフィーナは正直に答えた。
「でも、分からないから、確かめに来たんです」
ディートリーゼの目が、わずかに揺れた。
その言葉を、さっき聞いた。
白い廊下で。
扉の向こうから。
確かに聞いた。
レフィーナは、一歩踏み出そうとする。
だが、足が震えた。
ディートリーゼの杖が再び動く。
レフィーナの膝を軽く打つ。
力が抜け、床に片膝をついた。
「これで分かったですわよね。あなたは、わたくしにすら届きませんわ」
ディートリーゼの声が、少しだけ鋭くなる。
「この先にあるものは、もっと残酷ですの。あなたが進んでも、何も救えませんわ」
レフィーナは、肩で息をした。
痛い。
身体が重い。
剣を抜くどころか、立つだけで精一杯だった。
それでも、顔を上げる。
「それでも……」
「まだ言いますの?」
「はい」
レフィーナは剣を支えに、ゆっくり立ち上がった。
「私は、進みます」
ディートリーゼの手が止まる。
止まった時間の中で、何度も未来を見てきた少女。
何度見ても、同じように世界は壊れていた。
だから、目の前の少女を諦めさせようとした。
帰れと言った。
痛みを与えた。
力の差を見せた。
倒れなさい。
諦めなさい。
泣いて、逃げて、帰りなさい。
そうすれば、わたくしはあなたを殺さずに済みますわ。
そう思っていた。
なのに。
レフィーナは立っている。
震えながら。
怖がりながら。
それでも、帰ると言わない。
「どうして、そこまでしますの」
ディートリーゼは、思わず尋ねていた。
「未来も、敵も、何も知らないくせに」
レフィーナは答える。
「知らないからです」
静かな声だった。
「お姉様がどこにいるのかも。帝国が何をしているのかも。私が危険だという意味も。何も知らないままでは、帰れません」
レフィーナは一歩、前へ出る。
すぐに膝が崩れそうになる。
それでも立つ。
「私は……確かめに来ました」
ディートリーゼは、杖を握り直した。
時間を止めれば、また倒せる。
何度でも倒せる。
この塔の中では、自分が圧倒的に有利だ。
レフィーナはまだ弱い。
剣も届かない。
光も使いこなせていない。
けれど。
振り下ろせなかった。
目の前の少女は、未来で世界を滅ぼす怪物ではない。
何も知らないまま、それでも前へ進もうとしている少女だった。
長い沈黙が落ちた。
やがて、ディートリーゼは大きくため息をつく。
「はあ……」
杖を下ろした。
カチリと音がして、杖は再び扇子へ戻る。
「わたくしの根負けですわ」
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