第2話 止まった世界の刃
止まった世界の中で、少女だけが動いた。
コツ、コツ、コツ。
白い石床に、靴音が響く。
少女――ディートリーゼは、レフィーナの前で立ち止まった。
じっと、その顔を見る。
「……本当に、あなたですのね」
止まったレフィーナは答えない。
答えられるはずもない。
それでもディートリーゼは、しばらくその顔を見つめ続けた。
金色の髪。
額の光のティアラ。
まだ幼さを残した、真っ直ぐな顔。
怯えがある。
迷いもある。
けれど、その奥には、ここまで来た理由を手放さない強さがあった。
ディートリーゼは、唇を噛んだ。
「どうして……」
ローブの内側へ手を入れる。
小さな短剣を抜いた。
白い刃が、止まった光を受けて鈍く光る。
ディートリーゼは、ゆっくりと短剣を持ち上げた。
刃先が、レフィーナの喉元へ近づいていく。
「ここで終わらせれば……」
声が震えた。
その瞬間、ディートリーゼの脳裏に、いくつもの光景がよぎる。
冷たい石壁。
手首を拘束する鎖。
目の前で閉じる鉄格子。
届かなかった手。
白い光。
時空の塔の中枢に浮かぶ巨大な水晶。
黒く崩れた空。
枝を枯らしながら軋む、巨大な樹の影。
世界を覆う赤黒い闇。
そして。
光のティアラをつけた、黒い影の少女。
泣いている。
確かに泣いているのに。
その口元だけが、ゆっくりと笑っていた。
まるで、少女の奥で、別の何かが笑っているように。
その中心にいたのは、目の前の少女だった。
レフィーナ。
世界を滅ぼす、光の姫騎士。
「あなたがいなければ……」
ディートリーゼは、短剣を握る手に力を込めた。
ここで終わらせれば。
未来は変わるかもしれない。
もう誰も死なないかもしれない。
あの黒い空も、崩れる世界も、泣きながら笑う少女も。
すべて、なかったことにできるかもしれない。
刃先が、レフィーナの喉元で止まる。
ほんの少し、押せばいい。
時間は止まっている。
レフィーナは動けない。
抵抗もできない。
悲鳴も上げない。
誰も、止めない。
それなのに。
ディートリーゼの手は、それ以上進まなかった。
目の前のレフィーナは、未来の怪物には見えなかった。
ただ、誰かを探してここまで来た少女に見えた。
引き離された少年を心配し、知らない塔の中で不安を隠しながら、それでも扉を開けた少女。
ディートリーゼは、奥歯を噛みしめる。
「……まだ、できませんわ」
短剣の刃先が、ゆっくりと下がった。
殺せない。
ならば。
「帰らせるしかありませんわね」
短剣をローブの内側へ戻す。
ディートリーゼは扇子を開き、自分の顔を隠した。
少しだけ、呼吸を整える。
そして、指先で空気を弾いた。
止まっていた時間が、動き出す。
* * *
カチ。
時計の音が戻った。
空中に止まっていた光の粒が、ゆっくりと落ちる。
レフィーナの髪が、肩へ戻った。
伸びかけていた手が、剣の柄へ触れる。
「……?」
レフィーナは、自分の前に立つ少女に気づいた。
さっきまで、部屋の奥にいたはずだ。
それなのに、今は目の前にいる。
薄汚れた黒いローブをまとい、立派な扇子を持った少女。
レフィーナは一瞬、身構えた。
けれど、相手が自分と同じくらいの年頃の少女だと気づくと、慌てて手を下ろした。
そして、深く頭を下げる。
「あ……初めまして!」
声は、塔の部屋によく響いた。
「私はレフィーナといいます!」
ディートリーゼは、扇子の向こうで一瞬だけ目を伏せた。
何事もなかったかのように、扇子を優雅に構え直す。
「おーっほっほ!」
高らかな笑い声が、静かな塔に響いた。
響いたが、少しだけ空々しかった。
「……ディートリーゼですわ」
レフィーナの顔が明るくなる。
「では、あなたが時の姫騎士様ですか!」
ディートリーゼは即座に扇子を閉じた。
「帰りなさいな」
「え?」
レフィーナは、きょとんとした。
「あなたがここへ来るべきではありませんわ」
ディートリーゼは冷たく言った。
「時空の塔は、助けを求める者が軽々しく踏み入れてよい場所ではありませんの」
レフィーナは少しだけ身を固くした。
拒まれることは、覚悟していた。
けれど、ここまで来た理由は、簡単に消えるものではない。
「でも、私はお姉様を探しています」
レフィーナは両手を胸の前で握った。
「帝国に連れて行かれてしまって……時の姫騎士様なら、何か知っているかもしれないと思って、ここまで来ました」
ディートリーゼの表情が、ほんのわずかに曇った。
姉。
レフィーナが探している姉。
その言葉は、ディートリーゼの胸の奥に、正体の分からない棘のように刺さった。
けれど、顔には出さない。
「知りませんわ」
短く切り捨てる。
「知っていたとしても、あなたに話す理由はありませんの」
レフィーナは俯いた。
指が、腰の剣の柄へ触れる。
ランドルフから渡された、新しい剣。
自分の足で前へ進むための剣。
「……分かりました」
ディートリーゼは、少しだけ目を細めた。
諦めたのか。
そう思った。
だが、違った。
レフィーナは顔を上げる。
「でも、帰れません」
「何ですって?」
「お姉様を助ける手がかりがあるなら、私は帰れません。何も分からないまま、ここを出ることはできません」
ディートリーゼの手が、扇子を強く握った。
「あなたは、自分がどれだけ危険な存在か分かっていませんわ!」
レフィーナが、わずかに怯む。
「……私が、危険?」
ディートリーゼは息を止めた。
言いすぎた。
その先を口にしてはいけない。
未来で何を見るのか。
世界がどう滅びるのか。
あなたが何になるのか。
まだ言えない。
言えば、この少女はどうなる。
怯えて、折れるのか。
それとも、それでも進むのか。
どちらも見たくなかった。
ディートリーゼは、深く息を吐いた。
「言葉で分からないなら、身体で分からせるしかありませんわね」
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