第1話「時を止める少女」
マークが目を開けた時、そこは船の上ではなかった。
白い石でできた部屋だった。
壁も、床も、天井も、見たことのないほど滑らかな石でできている。
部屋の隅には古い寝台が一つ。
小さな机と椅子。水差し。窓らしきものもある。
けれど、窓の向こうに海はなかった。
空もなかった。
星のような光が、ゆっくりと横へ流れている。
「……どこだ、ここ」
マークは跳ね起きた。
さっきまで、確かにレフィーナと一緒にいた。
時空の塔の中に入った。
床の下で巨大な歯車が動いた。
世界がずれた。
レフィーナの姿が遠くなった。
声は聞こえていたのに、手は届かなかった。
「レフィーナ!」
マークは扉へ駆け寄った。
取っ手を掴む。
開かない。
「おい!誰かいないのか!」
何度も叩いた。
拳の音だけが、白い部屋に虚しく響く。
その時、壁に埋め込まれていた小さな水晶が、淡く光った。
マークは身構える。
水晶から、少女の声が響いた。
『騒がないでくださいまし』
「誰だ!」
『あなたは時空の乱流に巻き込まれかけていましたの。塔の外へ出れば、海へ戻るどころか、昨日と明日の狭間で迷子になりますわよ』
落ち着いた声だった。
けれど、どこか疲れている。
そして、妙に上品だった。
マークは扉を睨む。
「レフィーナはどこだ!一緒に来た女の子だ!金髪で、ティアラをつけてて――」
『知っていますわ』
声は、短く答えた。
『あなたと一緒に来た姫騎士に、話がありますの』
「話?」
『あなたはここでお待ちくださいな』
マークは扉を強く叩いた。
「待てよ!あいつに何をする気だ!」
沈黙。
水晶の光が、一度だけ弱くなった。
それから、声が少し低くなる。
『……彼女次第ですわ』
「おい!」
マークが叫ぶ。
けれど、水晶の光は消えた。
部屋は再び静かになる。
遠くで、鐘のような音が鳴っていた。
一度。
二度。
三度。
マークは歯を食いしばり、扉に額を押し当てた。
「レフィーナ……」
届かないと分かっていても、声がこぼれる。
「無茶するなよ」
* * *
白い廊下に、レフィーナの足音だけが響いていた。
遠くで、鐘の音が鳴っている。
一度。
二度。
三度。
そのたびに、壁に刻まれた銀色の紋様が淡く光り、すぐに消えた。
マークの姿はない。
さっきまで隣にいたはずだった。
塔の床の下で巨大な歯車が動いた瞬間、世界がずれて、声も手も届かなくなった。
どこへ行ったのかは分からない。
けれど、レフィーナは足を止めなかった。
光のティアラがかすかに温かい。
警告しているのか。
導いているのか。
まだ、分からない。
廊下の先には、大きな扉があった。
銀色の光を漏らす、白い扉。
その向こうに、誰かがいる。
なぜか、そう分かった。
レフィーナは剣の柄へ手を置いた。
怖い。
知らない塔。
届かない声。
見えない道。
けれど、ここで立ち止まれば、何も分からないままだ。
「私は……確かめに来ました」
誰に言うでもなく、そう呟く。
レフィーナは、一歩を踏み出した。
白い扉へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、扉の表面に刻まれた時計の紋様が静かに回り始めた。
カチ、カチ、カチ――。
音が、廊下の奥へ広がっていく。
そして、扉が音もなく開いた。
* * *
扉の向こうは、広い円形の部屋だった。
天井は見えない。
代わりに、頭上には無数の星が流れている。
床は白い石でできていた。
その下では、巨大な歯車のようなものが、ゆっくりと回っている。
壁一面には、砂時計と時計盤を組み合わせた紋様が刻まれていた。
大小さまざまな水晶が空中に浮かび、淡い銀色の光を放ちながら、静かに軌道を描いている。
部屋の中央には、大きな水晶球があった。
そして、その奥に。
一人の少女が立っていた。
薄汚れた黒いローブ。
銀に近い淡い紫の髪。
髪は縦ロールに巻かれている。
本来なら優雅に整えられていたのだろう。けれど今は、ところどころ乱れていた。
その目の下には、濃い疲労の影がある。
手には、場違いなほど立派な扇子。
少女は、レフィーナを見ていた。
ずっと前から、レフィーナがここへ来ることを知っていたかのように。
「あなたが……」
レフィーナが口を開きかける。
その瞬間。
時計の音が止まった。
カチ――。
最後の一音だけが、途中で切れる。
空中に浮かんでいた水晶が、動きを止めた。
流れていた星が、頭上で静止する。
レフィーナの髪が、肩の横で揺れたまま固まった。
剣の柄へ伸びかけた指も、途中で止まる。
白い光の粒が、空中に散ったまま動かない。
世界から、時間だけが抜き取られたようだった。
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