第21話「時空の塔へ」
イースランド。
地図には載らない西の島。
近づくほど、海は静かになった。
波の音が消え、船が水を切る音さえ遠くなる。
海面は鏡のように平らで、空と塔を映していた。
けれど、そこに映る塔だけが、実際の塔より少し遅れて揺れている。
まるで、違う時間の影を映しているようだった。
島の岸辺には、古い石の桟橋があった。
海藻も貝もついていない。
長い年月を経たものには見えないほど滑らかで、それでいて新しく造られたものにも見えなかった。
マークは慎重に船を寄せる。
「ここ、潮がない」
「潮が?」
「普通は少しでも動いてる。船が押されたり引かれたりする。でも、ここは……止まってる」
船が石の桟橋へ触れた。
こつん、という小さな音が、何拍も遅れて耳へ届く。
島の草は風に揺れない。空には雲が流れているのに、塔の周囲だけは時間が止まっているようだった。
世界の中で、この島だけが別の決まりで動いているようだった。
振り返れば、乗ってきた船も水面に浮かんだまま、波に揺られることさえない。
海そのものが息を止めているようだった。
「本当に……あった」
マークが呟く。
レフィーナは塔を見上げた。
白とも銀とも言えない石。
表面には、時計の針のような模様と、星座に似た線が刻まれている。
「あれが……」
上部は雲に隠れ、どこまで続くのか分からない。見上げすぎると、空の方が落ちてくるような感覚がした。
「時空の塔……」
* * *
塔の正面には、読めない文字を円状に刻んだ巨大な門があった。
レフィーナが近づくとティアラが淡く光り、門の文字が一つずつ目覚めていく。
金色。
銀色。
そして、薄い紫色。
「レフィーナ。俺も行く」
「でも、船が」
「船は縛った。たぶん……しばらくは大丈夫」
「たぶん、なんですね」
「ここで絶対なんて言えないよ」
マークは苦笑したが、一歩も退こうとはしない。
「一人で入るよりはましだろ」
レフィーナは迷った。
この塔が何なのか分からない。
中に何がいるのかも分からない。マークを巻き込んでいいのか。
そう思った時、マークが先に言った。
「連れてこられたんじゃない」
レフィーナは顔を上げる。
「俺が、自分で来た」
その言葉は静かだった。
「だから、そこは間違えないで」
「……はい」
二人は塔の門の前に立った。
レフィーナが手を伸ばし、冷たい石へ触れる。
その瞬間、門の向こうから風が吹いた。
潮でも、森でもない匂い。
古い紙。
星の冷たさ。
そして、遠い未来の雨のような匂い。
門が音もなく開いた。
その奥には暗闇ではなく、遠い星空のような光が広がっていた。
レフィーナは一度だけマークを見た。
二人は同時に、塔の中へ足を踏み入れた。
* * *
塔の中には、空があった。
外から見れば石の塔だったはずなのに、天井は見えない。
上空には無数の星が流れ、白い床の下では巨大な歯車がゆっくりと回っている。
廊下は右や左だけでなく、上にも下にも伸びていた。
階段は宙に浮かび、途中で折れた柱が別の場所へ繋がっている。
遠くで誰かの笑い声が聞こえたと思えば、次の瞬間には泣き声へ変わった。
足音まで、踏み出した直後ではなく、少し遅れて後方から追いかけてくる。
「……ここ、変だ」
「はい」
レフィーナは剣の柄へ手を置く。
ティアラは温かい。だが、警告しているのか、導いているのか分からない。
廊下の先に、月光を受けた時計の針のような、冷たい銀色の光が見えた。
「向こうでしょうか」
「たぶん」
二人が歩き出そうとした時、床下の歯車が大きく動いた。
音はしなかった。
けれど、世界がずれた。
すぐ隣にいたはずのマークが、突然遠く見える。
「マークさん!」
「レフィーナ!?」
声は聞こえるのに距離が分からない。手を伸ばしても届かず、何もないはずの空間に壁があるようだった。
塔の奥から、鐘の音が響く。
一度。
二度。
三度。
鳴るたびに、レフィーナの周囲だけが淡い光に包まれていく。
「レフィーナ!」
マークが走ろうとする。
だが、足元の階段が彼の前で別の方向へ折れ曲がった。
「待ってください!」
レフィーナは叫んだ。
けれど、声は外へ届く前に、巻き戻されるように自分の耳へ戻ってきた。
足元に銀色の円が浮かぶ。
円の中を読めない文字が流れ、ティアラと腰の剣が強く輝いた。
次の瞬間、視界は白く塗りつぶされた。
* * *
時空の塔、上層。
窓のない部屋の中央に、水晶球が浮かんでいた。
その中を、無数の光景が通り過ぎる。
燃える王都。
雪に沈む要塞。
森を焼く炎。
砂漠へ消えた姫騎士。
白銀の尖塔に繋がれた聖なる騎士。
そして、崩壊した世界にたたずむ金髪の少女。
額には、光のティアラ。
だが、その光は黒く濁っていた。
空が割れ、無数の世界が赤黒い闇へ落ちていく。
水晶球を見つめる少女は、その未来をすでに何度も目にしていた。
どれほど別の可能性を探しても、結末は同じ場所へ収束する。
救われたはずの国も、立ち上がった姫騎士も、最後には赤黒い闇へ呑まれていった。
汚れた黒いローブ。
銀に近い薄紫の髪は、ところどころ乱れている。
疲労の影が残る頬。
額には時を象る細いティアラ。
その宝石は、砂時計の中で星が崩れるような光を宿している。
時の姫騎士、ディートリーゼ。
彼女は手にした扇をゆっくり開き、水晶球に映るレフィーナを見た。
光のティアラ。
新しい剣。
そして、まだ何も知らない瞳。
部屋の外では、時間の歯車が静かに回る。
過去。
現在。
未来。
いくつもの可能性が塔の中で交差していた。
ディートリーゼが水晶球へ指先を伸ばす。
触れた瞬間、水晶球に映るすべての光景が止まった。
炎も。
雪も。
風も。
海も。
そして、レフィーナを包む白い光さえも。
「この未来だけは」
ディートリーゼは低く呟いた。
「必ず、止めますわ」
時空の塔の鐘が鳴った。
* * *
扉の外から、人が近づいてくる気配がした。
「とうとう来ましたわね」
ディートリーゼの声は静かだった。
ずっと待っていたものが、予定通り現れたと告げる声。
しかし、その声には気の重さがにじんでいた。
水晶球の中で、レフィーナの姿が揺れる。
その力は、まだ弱い。
けれど未来では、世界を滅ぼすほど大きくなる。
ディートリーゼは扇で口元を隠した。
「世界を滅ぼす、光の姫騎士」
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