第20話「出航」
夜明け前。
森はまだ眠り、木々の間には白い霧が漂っていた。
レフィーナは、小屋の前に立っていた。
背には、水筒、保存食、薬草、包帯を入れた荷袋。
祭壇での同調を経た白い装束には、軽い白銀の胸甲が備わっていた。
両手にはガントレット。
膝下には、白銀の脚甲。
見習いだった頃とは違う、姫騎士としての装いだった。
腰には、ランドルフから授かった新しい剣。
刃の中央に淡い金色の筋を宿した、レフィーナ自身の剣だった。
何度も握った訓練用の剣は、小屋の壁へ戻してある。
悔しさも、怖さも、初めて届いた一太刀も知る剣だった。
けれど、これから持っていくのは、自分の足で前へ進むための剣だ。
戸口には、いつもの茶色いローブ姿のランドルフがいた。
「地図は覚えたな」
「はい」
「薬草は」
「持ちました」
「飯は」
「……焦がさないようにします」
「違う。食べる分は持ったかと聞いておる」
「はい。持ちました」
ランドルフは、わざとらしくため息をついた。
「最後まで手のかかる弟子じゃ」
レフィーナは小さく笑った。
ここへ来た日、自分は起き上がることさえできなかった。
剣を握れば震え、鍋を焦がし、森で何度も転んだ。
熊の前では、怖くて動けなくなった。
それでもランドルフは、生きることを、周囲を見ることを、届くべき場所へ届くための剣を教えてくれた。
「ランドルフ様。ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「礼を言うには早い。お主の道は、ここからじゃ」
老人は、いつもより静かな声で続けた。
「森の外で学ぶべきことは、わしにも教えられん。人を見ろ。町を見ろ。痛みを見ろ。間違いも見るのじゃ」
「はい」
「そして、見たものから逃げるな」
ランドルフは、レフィーナの額にあるティアラを見た。
「お主は優しい。だが、優しいだけでは守れん」
「……はい」
「だからといって、優しさを捨てた強さにも意味はない」
朝の光を受け、ティアラがかすかに輝く。
「お主は、お主のまま行け」
レフィーナは、胸の前で両手を握りしめた。
「私は、このまま進みます。――前へ」
ランドルフは、少しだけ目を細めた。
「行け」
「はい」
レフィーナは小屋を背に、森の道へ踏み出した。
「行ってきます」
「行ってこい」
振り返らなかった。
戻る場所を確かめるためではなく、進むために森を出る。
朝霧の中で、小屋の影が少しずつ遠ざかっていった。
* * *
ポートハーベンでは、壊れた桟橋や倉庫の修理が進んでいた。
町はまだ海魔の傷を残している。
それでも漁師は網を繕い、大工は木槌を鳴らし、市場には魚が並んでいた。
あの日、逃げ遅れた人や泣いていた子供たちも、今は港の日常へ戻ろうとしている。
完全には癒えていなくても、町は確かに立ち上がっていた。
「レフィーナ!」
桟橋の先で、マークが手を上げた。
その後ろには、漁船より少し頑丈な小型帆船がある。
「……行くんだね。イースランドへ」
「はい。確かめに行きます」
「遠いよ。海図にない潮もあるし、変な霧も出る。戻れる保証もない」
「分かっています」
レフィーナが頷くと、マークは帆船の縁を叩いた。
「この船で行く」
「え……?」
「西の海なら、俺が出す」
「でも、マークさんまで危険な目に――」
「危ないのは分かってる。でも、レフィーナ一人じゃ海を渡れないだろ」
マークは帆綱を握った。
「俺は剣を使えない。怪物と戦う力もない。でも、風と潮なら少しは読める」
誇るのではなく、自分にできることを確かめるような声だった。
「それに、俺も西の海の向こうに、本当に塔があるのか確かめたいんだ」
レフィーナは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「だから、かしこまらなくていいって」
マークは照れたように笑い、レフィーナの荷袋を見た。
「それ、重くない?」
「大丈夫です」
「……前もそう言ってた」
「はい」
「今回は本当に遠いよ。無理なら言って」
「はい。でも、本当に大丈夫です」
マークは、仕方ないなという顔で船を示した。
「じゃあ、乗って」
* * *
白い帆が朝風を受け、船は港を離れた。
板張りの家々。製材所の屋根。修理中の桟橋。
手を振る人々も、少しずつ遠ざかっていく。
森を出た時よりも、さらに遠くへ進んでいる。
怖い。
けれど、もう戻るための旅ではなかった。
「大丈夫?」
舵を取るマークが声をかける。
「はい」
揺れる甲板を進んだ直後、船が大きく傾いた。
身体が投げ出されそうになり、マークに受け止められる。
「……大丈夫?」
「はい。大丈夫、です」
「顔、赤いよ」
「あの……海は、思ったより動くんですね」
「波があるからね」
話をそらしたことに気づいたのか、マークは少し笑った。
レフィーナは、自分がまだマークの腕の中にいることに気づいた。
頬がさらに熱くなり、慌てて身体を離す。
潮の匂い。風の冷たさ。船底を叩く波。
すべてが初めてだった。
けれど西の海の向こうには、時を観る者がいるかもしれない。
姉の行方を知る手がかりもあるかもしれない。
「分からないから、確かめに行きたいんです」
マークは舵を握り直した。
「うん、そうだね」
* * *
異変が起きたのは昼過ぎだった。
海鳥が、羽ばたいたまま空中で止まっている。
風と波、その下の深い潮が、それぞれ別の方向へ流れていた。
「変だ」
マークが後ろを見る。
来たはずの海は白い霧に覆われ、ポートハーベンの方角が分からない。
「……戻る方角が、分からない」
レフィーナの指が船縁を強く掴む。
けれど、マークは慌てず帆を緩め、細かく舵を動かした。
「風を見る。波じゃなくて、帆の張りを見る。レフィーナは右の海を見て。水面が黒くなったら教えて」
「分かりました」
水面の色は、青、白、灰色へと移り変わる。
そして時折、底の見えない黒い帯が現れた。
船がその黒い帯へ近づくたび、額のティアラが危険を警告するかのように反応する。
「右、黒いです!」
「帆を引く!」
船が大きく傾き、黒い水を避ける。
直後、その場所の海面だけが音もなく沈み、穴のような渦を作った。
「今の……」
「見なかったことにしたいな」
マークの声は震えていたが、舵を離さなかった。
霧が濃くなる。
昼の空に夕暮れと朝の光が入り混じり、船に置かれた小さな水時計が、逆向きに流れ始めた。
「時間が……変なんでしょうか」
「船乗りの冗談なら笑えたんだけどね」
その時、霧の向こうで鐘が鳴った。
一度。
二度。
ティアラが強く温まり、剣の金色の筋が光る。
「レフィーナ。あれ、見える?」
霧の奥に、島があった。
黒い岩肌と、白い霧に包まれた海岸。
そして中央には、雲を突き抜けるほど高い塔が立っていた。
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