第19話「聖なる姫騎士、墜つ」
「ガ、ガァァァァーーーッ!!」
ラーフェンが、吠えた。
暗黒の姫騎士へ、体ごとぶつかる。
「何!?」
不意を突かれた暗黒の姫騎士が、横へ弾き飛ばされる。
奪われたティアラが、地面を転がった。
ラーフェンは、血と泥に汚れた手でそれを掴む。
ティアラの中央。
白い宝石の奥に埋め込まれていた、小さな魔水晶のかけらを毟り取った。
「貴様……なぜ主を助ける!?」
暗黒の姫騎士の声が、初めて大きく揺れた。
「脳は完全に入れ換えたはずだぞ!」
ラーフェンは答えない。
答えられない。
ただ。
その胸の奥には。
命を捨てるなと言った声が残っていた。
怪物になりかけた自分の手を、離さなかった光が残っていた。
白銀の姫騎士の背中が残っていた。
「セ、リ……ア……様……」
掠れた声だった。
人の言葉に戻ったのは、一瞬だけ。
ラーフェンは、魔水晶のかけらを胸へ抱いた。
そして。
猛然と走り出した。
平原を抜け。
ミッドベルン城近郊にある、聖なる墳墓へ向かって。
「止めろ!」
帝国兵が追う。
だが、ラーフェンは止まらない。
古い石門の向こう。
王家と、姫騎士の親衛隊だけが知る、聖なる墳墓の地下迷宮へ。
黒い影は、闇の中へ消えていった。
「ばかな……!」
暗黒の姫騎士の怒号が、平原へ響く。
「ありえん! これではティアラが起動せん……!」
しかし。
もう遅かった。
聖のティアラは奪われた。
セリアも捕らえられた。
けれど、完全な力へ至る鍵である魔水晶のかけらだけは。
帝国の手から逃れた。
* * *
その日の夕方。
ミッドベルン王城の上には、黒い旗が掲げられた。
白銀の城壁は、夕陽を受けてももう光らない。
城門には帝国兵が立ち。
広場には、押収された武器が積まれている。
軍靴の音が、石畳を叩く。
かつて兵士たちが行進した道を。
今は黒い鎧が歩いていた。
ミッドベルンの鐘は、鳴らなかった。
鐘楼には帝国の旗が巻きつけられ、風に揺れている。
市場も静かだった。
店は閉じられ。
窓は板で塞がれ。
人々は家の中から、息を殺して外を見ていた。
誰も泣かない。
泣けば、兵に聞かれるかもしれない。
誰も叫ばない。
叫べば、連れていかれるかもしれない。
白銀の不敗騎士が敗れた。
その事実が、町全体の喉を塞いでいた。
王城の最も高い尖塔。
そこは、雲に近い場所だった。
風が強い。
冷たい風が、石壁を叩き続けている。
塔の外壁には、鉄の枷が打ち込まれていた。
そこへ。
セリアは繋がれていた。
両手と両足を、重い鎖で固定され。
首には、黒い金属の封魔の首輪。
首輪に刻まれた紋様は、彼女がわずかに魔力を動かそうとするたび、鈍い光を放った。
白銀の鎧は、平原での戦いで傷ついている。
肩当ては砕け。
胸元には黒い鎖が擦れた跡が残り。
白い外套は、風に裂かれていた。
だが。
最も痛むのは、身体ではない。
額にあるはずだったティアラが、ない。
その場所だけが、冷たかった。
眼下には、ミッドベルンの町が広がっている。
守るはずだった民。
守るはずだった城壁。
守るはずだった旗。
すべてが、遠い。
すべてが、手の届かない場所にある。
塔の石壁には、風の音しかなかった。
高すぎる場所では。
兵士の声も。
町の足音も。
もう届かない。
聞こえるのは、鎖が風に揺れる音だけだった。
かすかに。
からり、と。
その音が鳴るたび。
セリアは、目を閉じた。
ラーフェン。
ジャン。
兵たち。
自分を信じていた者たち。
自分は、守れなかった。
尖塔の扉が開く。
冷たい足音が近づく。
暗黒の姫騎士が、セリアの前に立った。
黒い外套が、風に揺れている。
その手には、奪われた聖のティアラがあった。
けれど、中央の魔水晶には。
小さな欠けが残っている。
セリアは、ゆっくりと顔を上げた。
血と泥に汚れた頬。
疲れ切った呼吸。
それでも、その目は死んでいない。
「くっ……!」
鎖が鳴る。
「殺せ!!」
暗黒の姫騎士は、しばらく黙っていた。
やがて。
静かに言う。
「殺さんと言ったはずだ」
セリアは、睨み返す。
「……何が目的だ」
「見せしめだ」
暗黒の姫騎士は、塔の下に広がる町を見た。
「最強の姫騎士が敗れたことを、この国に、いや、世界に刻む」
セリアの拳が、鎖の中で強く握られる。
暗黒の姫騎士は続けた。
「正攻法では、まず勝てなかった」
仮面の奥の声は、少しも揺れない。
「だが、これは試合ではない」
風が、二人の間を吹き抜ける。
「勝つためなら、どんな手でも使う」
セリアは、唇を噛んだ。
「この覚悟の差が、お前の敗因だ。セリア」
暗黒の姫騎士は、聖のティアラを掲げる。
「ティアラはこちらで預からせてもらった。首輪も最新式だ」
「もう諦めろ」
セリアの視線が、一度だけ町へ落ちる。
黒い旗。
閉ざされた家々。
遠くに見える白銀の城壁。
守れなかった。
その事実は、消えない。
けれど。
ラーフェンは、まだ走っている。
ジャンも、生きている。
地下迷宮の奥には、魔水晶の欠片がある。
だから。
セリアは、完全には俯かなかった。
傷ついた白銀の姫騎士は。
風の中で、ゆっくりと目を閉じた。
暗黒の姫騎士は、しばらくその姿を眺め、やがて、背を向けた。
尖塔の扉が閉まる。
重い音が、石壁の内側へ響いた。
からり、と。
鎖が鳴る。
黒い旗の下で。
セリアが目を開いた時。
その瞳には、まだ小さな光が残っていた。
そして王家と、姫騎士の親衛隊だけが知る、聖なる墳墓の地下迷宮。
黒い影が、白い魔水晶のかけらを胸に抱きながら。
闇のさらに奥へ進んでいた。
世界から一つ、大国の光が消えた。
――この日、ミッドベルンは陥落した。
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