第13話「優しいまま強く」
翌朝。
森は薄い霧に包まれていた。
レフィーナは、ランドルフの後を歩いていた。
小屋から少し離れた場所に、見慣れない石段がある。
苔に覆われ、半ば土へ埋もれた古い石段。
この森へ来てから何度も歩いたはずなのに、その道の存在を知らなかった。
「ここは……」
「昔から、森の奥にあった」
ランドルフは短く答えた。
「誰にでも見せる場所ではないだけじゃ」
木々は高く、朝の光を細く切り分けている。
鳥の声も、いつしか遠ざかっていった。
やがて森が開けた。
そこには、小さな祭壇があった。
崩れかけた白い石柱。
蔦に覆われた壁。
中央には、浅い水盤のような石が置かれている。
水はない。
けれど、その底には朝の空を閉じ込めたような、淡い金色の光が揺れていた。
「ここが……」
「光渡りの祭壇じゃ」
ランドルフは祭壇を見上げた。
「古くから、光の女神レアリーを祀ってきた場所じゃよ」
石柱には、見たことのない紋様が刻まれていた。
翼のように広がる光。
その中心に、手を差し伸べる人影。
レフィーナは、その前へ立つ。
額のティアラが、いつもより温かかった。
「ここで、何をするんですか」
「問われる」
ランドルフの答えは短い。
「力を望む者が、何のためにそれを望むのか」
レフィーナは、祭壇の水盤を見つめた。
海魔の苦しみ。
熊の赤い目。
逃げる人々。
自分を置いて残った人たち。
姉の背中。
胸の奥に、たくさんの声が重なっている。
「手を置け」
ランドルフが言った。
レフィーナは、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、冷たい石へ触れた。
その瞬間。
水盤の底にあった光が、静かに広がった。
* * *
雨の音がした。
冷たい雨だった。
森は消え、足元にはぬかるんだ山道が広がっている。
崩れかけた崖。
黒い雲。
遠くで鳴る剣戟。
レフィーナは、息を呑んだ。
「……あの日」
手には、近衛騎士から渡された剣。
服は泥で濡れ、足は震えている。
忘れたことはない。
忘れられるはずもない。
姉と離れた日。
自分だけが、崖の下へ落ちた日。
少し先の崖際に、もう一人のレフィーナが立っていた。
泥に汚れた髪。
青ざめた顔。
震える手で剣を抱えている。
あの日の、自分だった。
少女が、ゆっくりと振り返る。
「どうして、お姉様を置いて逃げたの?」
胸が、強く締めつけられた。
「私は……」
「どうして、助けなかったの?」
「違います」
声が掠れる。
「私だって、助けたかった」
「でも、お姉様は一人で残った」
「分かっています」
「皆が、あなたを守るために残った」
雨が強くなる。
崖の向こうで、誰かの叫び声がした。
近衛騎士。
帝国兵。
エボルモンスター。
その中に、姉の声が混じっている気がした。
――生きるために走れ。
――そして、前に進め。
レフィーナは、両手を強く握った。
「私は……逃げました」
幻の自分が、黙る。
「怖かったから。何もできなかったから。お姉様のところへ戻りたかったのに、戻れなかった」
言葉にするたび、胸の奥の傷が開く。
「助けられなかったことは、消えません」
雨が頬を打つ。
「今でも苦しいです。私だけ生きていてよかったのかって、何度も思いました」
幻のレフィーナは、静かに見ている。
責めるように。
泣いているように。
けれど、レフィーナは目を逸らさなかった。
「でも」
雨の向こうに、姉の姿が見えた。
白銀の鎧。
血に濡れた髪。
それでも、まっすぐに自分へ伸ばされた手。
「でも――自分だけ助かりたくて、走ったんじゃありません」
レフィーナは、はっきりと言った。
「お姉様が、生きてって言ってくれたから。前へ進めと言ってくれたから、私は走ったんです」
雨音が、少しだけ遠のく。
「お姉様は、私に生きてほしかった。前へ進んでほしかった」
胸の奥で、何かがほどけていく。
「だから私は、お姉様がくれた命を……自分で否定したくありません」
幻のレフィーナの輪郭が、淡く揺れた。
「助けられなかった人を、忘れないために」
レフィーナは剣を握る。
「次は、助けられるようになるために」
雨の向こうの姉の姿が、少しだけ微笑んだように見えた。
「私は、前へ進みます」
その言葉と共に。
崖も。
雨も。
過去の叫びも。
金色の光へ溶けていった。
* * *
気がつくと、レフィーナは祭壇の前に立っていた。
額のティアラが、眩しいほど輝いている。
光は彼女の全身を包み、足元の草を淡く照らした。
風がないのに、髪が揺れる。
訓練用の剣の柄へ、細い金色の光が流れた。
剣身に、夜明けのような淡い輝きが宿る。
けれど、それは炎のように燃え上がる力ではなかった。
誰かを焼くための光ではない。
そこにいる者へ、進むべき道を示すような。
静かで、温かな光だった。
レフィーナは、胸の前で両手を重ねた。
「私は、優しいまま強くなります」
声は震えていなかった。
「助けたい人を、見捨てないために」
その言葉が、祭壇の奥へ沈んでいく。
雨の音が遠ざかった。
崖も、幼い自分の影も、姉の背中も、白い光の中へ溶けていく。
次にレフィーナが感じたのは、額の温かさだった。
光のティアラが、静かに輝いている。
青く澄んでいた中央の宝石の奥で、夜明けのような金色が揺れた。
その光は、強く燃え上がるのではなく、細い糸のようにレフィーナの身体へ流れていった。
何度も転び、泥に汚れ、枝に擦られてきた白いチュニックの布目を、光がそっとなぞる。
ほつれていた糸が結ばれ、裂けかけていた縁が滑らかに繋がっていく。
胸元に、薄く軽い白銀の胸甲が重なるように形を取った。
その中央には、小さな青い宝玉。
宝玉の奥には、ティアラと同じ金色の光が、かすかに息づいていた。
革の手袋の縁には銀の装甲が伸び、指先の動きを妨げない細いガントレットへと整っていく。
履き慣れた革靴もまた、膝下を守る白銀の脚甲に包まれた。
白い装束の裾には、ごく細い金色の線が走る。
それは飾りではなく、光が通る道のようだった。
けれど、それは別人になるような変化ではなかった。
レフィーナがこれまで身につけ、汚し、直しながら歩いてきたものが、彼女の答えに応えて、少しだけ形を整えたのだ。
守られるだけだった少女の装束ではない。
誰かの代わりになるための鎧でもない。
レフィーナが、レフィーナとして前へ進むための装いだった。
森に、静けさが戻る。
ランドルフは、しばらく何も言わなかった。
やがて、短く息を吐く。
「……本格的に同調したか」
レフィーナは、自分の額へ触れた。
ティアラは、いつものように静かだった。
けれど、さっきまでとは違う。
確かに、自分の中にある。
「これで、あの光を……自分の意志で使えるようになるんですか?」
「まだじゃ」
ランドルフは即座に答えた。
「同調しただけで、力の使い方まで身につくなら、誰も苦労せん」
レフィーナは、少しだけ肩を落とす。
「そうですよね」
「ただし」
ランドルフは、レフィーナの剣を見る。
「お主の光は、もう迷子ではない」
レフィーナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
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