第12話「瘴気核の正体」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
ランドルフは、しばらくレフィーナを見ていた。
細い眼鏡の奥にある目は、いつも通り厳しい。
けれど、その厳しさの奥には、どこか覚悟を決めたようなものがあった。
「そう言うと思っておった」
レフィーナは、少しだけ息を詰める。
ランドルフは古い航海記を閉じ、本棚の奥へ戻した。
それから、小屋の隅に置かれていた小さな木箱を手元へ引き寄せる。
「ならば、明日。森の奥へ行くぞ」
「森の奥……ですか?」
「光渡りの祭壇じゃ」
聞いたことのない名だった。
レフィーナが首を傾げると、ランドルフは木箱の蓋へ手を置いた。
「その前に、見せるものがある」
蓋が開く。
中には、二つの小さな硝子瓶が並んでいた。
一つには、熊から残った黒く乾いた残滓。
もう一つには、昨夜レフィーナがランドルフへ預けた、海魔の胸元、甲殻の裂け目にあった黒い核から砕け落ちた、爪ほどの黒い欠片。
どちらも灯りを受けても光らない。
むしろ、暖炉の明るさを鈍く吸い込んでいるように見えた。
「熊の時のものと……海魔の欠片」
レフィーナが呟く。
「そうじゃ」
ランドルフは二つの瓶を並べた。
小さな水晶板を取り出し、その上へ順に載せる。
老人が短く呪文を唱えると、水晶板の内側に淡い青い線が浮かんだ。
黒い残滓から伸びた線。
黒い欠片から伸びた線。
二つの線は、ゆっくりと同じ形を描いた。
レフィーナは、息を呑む。
「……同じものじゃ」
ランドルフの声は低かった。
「これは、瘴気核」
「瘴気核……」
「生き物の内側へ食い込み、魔力の流れを狂わせるものじゃ。痛み、飢え、恐怖、怒り……そういうものを、際限なく大きくする」
レフィーナは、硝子瓶の中の黒を見つめた。
「熊の方は、瘴気核から伸びた侵食枝の残滓。海魔の方は、核そのものから砕け落ちた欠片じゃろう」
熊の、赤く濁った目。
海魔の、甲殻の奥で脈打っていた黒い核。
どちらも、ただ怒っているようには見えなかった。
苦しみながら、何かから逃げようとしていた。
「帝国はこれを使い、獣を怪物へ変え、人の暮らす場所へ放っておる」
ランドルフは続ける。
「生き物の身体を歪め、理性を削り、痛みだけを残す。やがては、自分が何者だったのかさえ分からなくなる」
「……あの熊も」
「最初から、人を襲う怪物だったわけではない」
その言葉に、レフィーナの指が止まった。
「あの熊は、瘴気に侵され、苦しみながら変えられていたのじゃ」
小屋の中が、急に静かになった。
森で出会った灰色の熊。
肩から前脚へ走っていた黒い筋。
裂けた傷の奥で、脈打っていた黒い肉塊。
狩人へ爪を振り下ろそうとしていた巨大な身体。
そして。
自分の剣が届いた時、ほんの一瞬だけ揺れた目。
「私の……初太刀は」
レフィーナの声が、わずかに震えた。
「熊を斬ったんじゃない」
ランドルフが言った。
「お主の剣は、あの熊の肩から前脚へ伸びていた黒い根を断った」
レフィーナは、あの日のことを思い出す。
届かないと思った。
狩人へ迫る爪を止めるには、自分は遅すぎると思った。
けれど、目の前にあったのは熊の身体だけではなかった。
肩の傷から伸びた、黒いもの。
苦しみの根のようなもの。
そこへ、自分の剣は届いた。
「だから、熊は……」
「侵食枝を断たれ、暴走を駆り立てていた苦痛が、一時だけ弱まったのじゃろう」
ランドルフは、硝子瓶を見つめたまま答えた。
「完全に救えたとは言えん。侵食が、身体のどこまで進んでいたかも分からん」
その言葉は、厳しかった。
けれど、続く声は少しだけ柔らかかった。
「それでも、お主はあの熊を怪物としてだけ見なかった」
レフィーナは俯いた。
「怖かったです」
「うむ」
「狩人さんを助けたくて。熊を止めなければって思って……でも」
言葉を探す。
「苦しそうにも見えたんです」
暖炉の火が揺れる。
「だから、斬るべきものを間違えなかった」
ランドルフは、二つの瓶を木箱へ戻した。
「剣は、敵を倒すためだけのものではない。届くべき場所へ届くためのものじゃ」
レフィーナは、訓練用の剣へ目を向けた。
森で何度も握った剣。
自分の未熟さも、悔しさも、初めて届いた一太刀も知っている剣。
その柄へ、そっと手を伸ばす。
「海魔も……苦しかったんでしょうか」
「おそらくな」
「私の光は、あの子を救えたんですか?」
ランドルフは、すぐには答えなかった。
曖昧な慰めを、口にしない人だった。
「お主の光は、瘴気核を消し去ったわけではない」
やがて言う。
「だが、暴れていた痛みを、一時だけ鎮めたのじゃろう」
レフィーナは、静かに頷いた。
海へ沈んでいった巨大な影を思い出す。
赤く濁った目の奥に、一瞬だけ戻った、海のような青。
「すべてを助けられなくても」
レフィーナは、小さく言った。
「苦しみを止めることは、できるかもしれない」
「答えを急ぐな」
ランドルフの声が飛ぶ。
厳しい声だった。
「救えぬ命もある。届かぬ場所もある。お主一人の光で、すべてを元へ戻せるわけではない」
「……はい」
「だが、何のために力を持つのか。その答えを持たぬ者は、いずれ力に使われる」
レフィーナは、木箱を見つめた。
黒い欠片は、蓋の下へ隠れている。
それでも、あの冷たさは掌に残っているような気がした。
「明日、祭壇へ行く」
ランドルフは言った。
「そこで、お主の答えを見つけろ」
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