第10話「最後の訓練」
夜明け前の森は、まだ暗かった。
小屋の前にある小さな稽古場には、薄い霧が降りている。
レフィーナは、訓練用の剣を腰へ下げていた。
背には荷袋。
その中には水袋と、乾いたパンと、薬草の包み。
そして、割れ物を守るための厚い布に包まれた小瓶が三本入っている。
向かいには、ランドルフが立っていた。
いつもの茶色いローブではない。
動きやすい革の上着に、古びた木杖を持っている。
「今日の課題は、北の沢を越えた先にある石標まで行くことじゃ」
「石標、ですか?」
「そうじゃ」
ランドルフは、レフィーナの荷袋を杖で軽く叩いた。
「この薬を、一つも割らずに届けろ」
「敵は、ランドルフ様ですか?」
「わしだけとは限らん」
老人の口元が、ほんの少しだけ動く。
「森では何が敵になるか、分からんからな」
レフィーナは、荷袋の紐を結び直した。
小瓶が触れ合わないよう、もう一度中身を確かめる。
「分かりました」
「目的は、わしを倒すことではない」
ランドルフの声が、朝の森に落ちた。
「薬を届けることじゃ。そこを間違えるな」
「はい」
「行け」
レフィーナは、森の奥へ走り出した。
* * *
最初の矢は、木の上から飛んできた。
矢といっても、先端に布を巻いた訓練用のものだ。
けれど、肩へ当たれば十分に痛い。
「っ……!」
レフィーナは身を低くし、矢を避けた。
足元の根を踏まないように進む。
朝露を含んだ草は滑りやすい。
急げば転ぶ。
慎重になりすぎれば、追いつかれる。
木々の間を抜け、細い獣道へ入った時だった。
前方に、倒木が横たわっていた。
その下から、かすかな呻き声が聞こえる。
「た、助けてくれ……」
レフィーナの足が止まった。
倒木の脇には、男物らしい外套が落ちている。
その下に、誰かがいるように見えた。
けれど。
風が、妙だった。
木々は東から西へ揺れているのに、外套の端だけが反対方向へ引かれている。
土にも、不自然な盛り上がりがあった。
レフィーナは剣の柄へ手をかける。
「……罠ですね」
次の瞬間。
倒木の向こうから、太い縄が跳ね上がった。
足を取るための輪が、レフィーナのいた場所を掠める。
もし一歩踏み込んでいたら、木の上へ吊り上げられていただろう。
「見えたか」
少し離れた木の陰から、ランドルフの声がした。
「はい」
「では、どうする」
レフィーナは、倒木の下にある外套を見た。
誰かがいるように見せるためだけのもの。
助けるべき相手ではない。
けれど、もし本当に誰かが下敷きになっていたなら。
自分は、立ち去れない。
「助ける方法を探します」
「ほう」
「でも、先に罠を外します」
レフィーナは、縄が伸びている先へ目を向けた。
木の根元。
土の下へ打ち込まれた杭。
そこからさらに、細い紐が枝の上へ伸びている。
彼女は一度だけ呼吸を整えた。
「飛燕斬!」
剣が低く走る。
細い紐だけが断たれた。
縄の輪は力を失い、地面へ落ちる。
木の上に仕掛けられていた重りも、危なくない場所へ転がった。
レフィーナは、倒木へ近づいた。
外套の下には、丸めた藁と木片しかない。
「……やっぱり、誰もいません」
「誰もおらぬと分かっておっても、立ち止まったな」
「本当にいたかもしれません」
「それで薬を割ったらどうする」
レフィーナは、荷袋へ手を当てた。
「それでも……見捨てたくはありません」
ランドルフは、すぐには答えなかった。
森のどこかで、鳥が飛び立つ音がした。
「ならば、迷うな」
やがて老人は言った。
「助けると決めたなら、助けながら目的を果たせ」
「はい」
「次が来るぞ」
言葉と同時に、木杖が横から振るわれた。
レフィーナは剣で受けない。
一歩下がり、杖の勢いを外へ逃がす。
だが、ランドルフは止まらない。
二撃目。
三撃目。
木杖は重く、速い。
正面から受け続ければ、腕が痺れる。
レフィーナは後ろへ下がりながら、周囲を見た。
左にはぬかるんだ斜面。
右には倒木。
前方には、細い沢へ続く岩場。
逃げ道は狭い。
けれど、沢を越えれば石標へ近づける。
ランドルフの杖が、大きく振り上げられた。
今なら、懐へ入れる。
飛燕剣・初太刀なら、杖を弾いて肩へ届くかもしれない。
けれど。
老人の足元には、見覚えのない細い枝が何本も落ちていた。
枝の先には、浅く掘り返された土。
その後ろには、岩場。
「……また、罠ですね」
「どうした。来んのか」
「行きません」
レフィーナは、剣を下げた。
そして、横へ走る。
ぬかるんだ斜面を避け、倒木の上へ飛び乗った。
木の幹は湿っていた。
足を滑らせれば、薬瓶が割れる。
レフィーナは片足を慎重に置き、身体を低くして進んだ。
背後で、ランドルフが追ってくる気配がする。
けれど、沢へ飛び降りる前。
レフィーナは振り返った。
倒木の根元。
さきほどの外套が、風に揺れている。
誰もいない。
それでも、もし倒木が崩れれば、後から通る誰かを傷つけるかもしれない。
レフィーナは、木の上から剣を振った。
倒木の先端を、危うく持ち上げていた細い枝を断つ。
幹はゆっくりと斜面の下側へ沈み、道へ倒れ込む危ない角度から外れた。
「何をしておる!」
「このままだと、誰かが怪我をするかもしれません!」
「余計なことをしている間に、敵が追いつくぞ!」
「はい!」
レフィーナは答えた。
そのまま沢へ飛び降りる。
冷たい水が、靴を濡らした。
石の上を選びながら、向こう岸へ渡る。
背後で、木杖が水面を叩いた。
水しぶきが跳ねる。
レフィーナは振り返らない。
敵を倒すためではない。
届けるために。
前へ進む。
やがて、苔むした大岩の横に、古い石標が見えた。
そこには、かすれた文字でこう刻まれている。
――北の沢、ここより西。
レフィーナは石標の前へ立った。
息を切らしながら、荷袋を下ろす。
小瓶を取り出す。
一つ。
二つ。
三つ。
どれも割れていない。
「……届けました」
背後から、ランドルフが歩いてきた。
息は、ほとんど乱れていない。
レフィーナは少しだけ頬を膨らませた。
「ランドルフ様、追いつくのが早すぎます」
「わしを誰だと思っておる」
「先生です」
思わず出た言葉に、ランドルフが一瞬だけ目を丸くした。
レフィーナも、少し恥ずかしくなって視線を逸らす。
老人は咳払いをした。
「……薬は無事じゃな」
「はい」
「途中で、わしへ一太刀入れる機会があった」
「ありました」
「なぜ使わなかった」
「罠だったからです」
「それだけか」
レフィーナは、しばらく考えた。
沢の水音が、静かに響いている。
「もし私が、ランドルフ様を倒すことだけを考えていたら……薬を届けられなかったと思います」
ランドルフは黙っている。
「勝てない相手に、勝とうとしすぎると……守るべきものまで失うかもしれません」
レフィーナは荷袋の中を見た。
「だから、今日の私は逃げました」
「逃げたのではない」
ランドルフが言った。
「進むために、退いたんじゃ」
その言葉が、胸へ残る。
「勝てぬ相手に勝とうとするな」
老人は、石標へ刻まれた古い文字を見ながら続けた。
「生き延びろ。守るべき者を守れ。そして、次の一手を探せ」
「……はい」
「それができるなら、もう森で教えられる剣はない」
レフィーナは、顔を上げた。
「え?それって……」
「今日で、森での剣の修行は終わりじゃ」
風が、沢の上を抜けていった。
レフィーナはすぐに言葉を返せなかった。
木剣を持つことさえできなかった日。
何度も転び、手のひらを擦りむいた日。
熊を前にして、怖さで剣が震えた日。
初めて飛燕剣が届いた日。
全部が、この森にあった。
「……ありがとうございます」
レフィーナは、深く頭を下げた。
「私、まだ足りないことばかりです。でも……前より少しは、誰かを守るために動けるようになった気がします」
「それを決めるのは、これから出会う者たちじゃ」
ランドルフは言った。
「森の外へ行け。人を見ろ。町を見ろ。自分の剣が、何へ届くべきかを見失うな」
レフィーナは、ゆっくりと頷いた。
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