第9話「大地の姫騎士、墜つ」
タルタロスケイブは、ただの洞窟ではない。
地の底へ向かって、何層もの岩盤が穿たれている、暗黒へ続く洞窟だった。
鉱脈を掘り出すための坑道もあり、超古代の遺構を暴き出すために作られた穴もあった。
そして、最も相応しい目的。
それは、人を沈めるための場所だった。
入口から奥へ進むほど、外の光は細くなっていく。
砂漠の熱は、何層もの岩壁に遮られ、途中で死ぬ。
残るのは、湿った冷気だけだった。
天井からは地下水が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
水滴が石床を打つ音は、あまりにも規則正しく、耳から離れなかった。
岩壁には黒い苔が広がり、所々に埋め込まれた魔導灯が、弱々しい青白い光を放っている。
明るくするための光ではない。
ただ、闇の中にいる者が、自分のいる場所から逃げられないことを理解するためだけの光だった。
空気には、湿った土の匂いがあった。
錆びた鉄の匂い。
古い血と、冷えた地下水と、魔導炉の焦げたような匂い。
遠くでは、低い唸りが響いている。
ごう……。
ごう……。
地の底に埋め込まれた魔導炉が、眠り損ねた獣のように息をしていた。
その音は止まらない。
昼も夜もない地下で、時間だけがゆっくり腐っていく。
収容区画は、さらに奥にあった。
太い鉄格子。
石壁へ直接打ち込まれた鎖。
そして、魔力を吸い取るための黒い魔導杭。
大地を操る姫騎士を閉じ込めるために。
帝国は、彼女が愛した土そのものを、檻へ変えていた。
アルファースは、その石壁へ背を預けていた。
両手は頭上で鎖に繋がれている。
足首にも、重い拘束具。
首には、黒い金属の封印首輪が嵌められていた。
首輪には、細かな魔導文字が刻まれている。
彼女の魔力がわずかでも動くたび、それは鈍い光を放ち、身体の奥へ冷たい痛みを流し込んだ。
何度か、大地へ呼びかけようとした。
石壁のひびへ、小さな芽でも生まれないかと願った。
けれど、指先がかすかに震えただけだった。
土は近くにある。
岩もある。
それなのに、何一つ応えてくれない。
大地の姫騎士は、自らが最も知るはずの場所で、力を奪われていた。
鎧は、捕縛の途中で傷ついていた。
片方の肩当てには深いひびが入り、白い布地には砂と煤が残っている。
頬には浅い裂傷。
淡い砂金色の髪は乱れ、湿った前髪が頬へ張りついていた。
けれど、彼女が最も見つめられなかったのは、自分の傷ではなかった。
鉄格子の外。
石の台の上に置かれた、大地のティアラだった。
黄金の冠は、地下の青白い光を受けて、鈍く輝いている。
かつて、自分の額にあったもの。
ピラミッドの叡智を受け、大地と共鳴し、数え切れない民の命を守るために使ってきたもの。
それが今は、届かない場所にある。
細い指を伸ばしても。
鎖が、かすかに鳴るだけだった。
シェーラは、逃げ切れただろうか。
ルッツフェルトと合流できただろうか。
解放された農民たちは、無事にピラミッドへ辿り着けただろうか。
考えるほど、胸の奥が重くなる。
知恵の間で得た知識は、未来をすべて救う答えではなかった。
どれほど先を読んでも。
どれほど多くの道を知っていても。
目の前で命を盾にされた時、自分は一歩も進めなかった。
足音が近づく。
ゆっくりと。
迷いなく。
硬い靴音が、湿った石床を踏むたび、地下の闇へ深く沈んでいく。
暗黒の姫騎士が、独房の前に立った。
黒い外套の裾が、石床を静かに擦る。
その姿は、魔導灯の青白い光さえ吸い込んでいるようだった。
アルファースは顔を上げない。
暗黒の姫騎士は、格子の外に置かれたティアラを手に取った。
黄金の装飾が、黒い手袋の中で小さく震える。
「まんまと出し抜かれたぞ」
冷たい声が、独房の中に落ちた。
「蚊も殺せないふりをして、恐ろしい奴だ」
アルファースの指が、鎖を握る。
「ピラミッドを先に押さえ、帝国軍を誘導し、王都から民を逃がした」
暗黒の姫騎士は続ける。
「お前とセリアが合流していれば、世界情勢はひっくり返っていたな」
短い沈黙が落ちる。
遠くで、魔導炉が低く唸った。
ごう……。
「だが」
暗黒の姫騎士は、アルファースを見た。
「知恵に溺れ、最も低俗な欲望に足をすくわれた」
ハシムの脂ぎった笑みが、脳裏に浮かぶ。
シェーラが、いつも通りの顔で言った。
『わたくしはニンジャですので』
その笑顔の奥にあった疲れに。
自分は、本当に気づいていただろうか。
「それがお前の敗因だ、アルファース」
アルファースの唇が、かすかに震えた。
それでも、声は崩さなかった。
「……殺しなさい。覚悟はできていますわ」
「そうか。だが、ピラミッドの叡智を得ているお前を殺すわけにはいかない」
暗黒の姫騎士は、ためらわずに答えた。
「ピラミッド攻略の際は、防衛機構を解除してもらわねばな」
その言葉は、冷たい石壁よりも冷えていた。
「黙秘は通じんぞ。手段はいくらでもある」
アルファースは、しばらく何も言わなかった。
うつむいた髪の隙間から、頬に落ちた水滴が見える。
地下水なのか。
それとも、別のものなのか。
暗黒の姫騎士には、分からなかった。
「ティアラはこちらで預かる」
黒い手袋が、黄金の冠を握り込む。
「首輪も最新式だ。もう、お前の力は使えん」
地下の魔導灯が、一度だけ弱く明滅した。
「諦めろ」
暗黒の姫騎士は言った。
「お前は負けたのだ」
長い沈黙が落ちた。
アルファースは、すぐに答えられなかった。
大地を愛した少女は。
民を守るために知恵を求めた賢者は。
誰より多くの道を知りながら、最も残酷な一つの道へ追い込まれていた。
やがて、彼女は目を閉じた。
鎖を握る力が、少しだけ抜ける。
蒼い瞳に宿っていた静かな光は、深い地の底へ沈むように揺らいだ。
暗黒の姫騎士は、それ以上何も言わずに背を向けた。
鉄扉が閉じる。
重い音が、地下の収容区画全体へ響く。
その音が消えた後も。
水滴は落ち続けていた。
ぽたり。
ぽたり。
誰にも届かない地の底で。
大地の姫騎士は、奪われたティアラを見つめたまま、静かにうなだれていた。
外では、砂漠の朝が訪れている。
けれど、タルタロスケイブの底にいる彼女へ、その光は届かなかった。
世界から一つ、大国の光が消えた。
――この日、ライゼルは陥落した。
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