第1話「港町の少年」
森を抜けたところで、風の匂いが変わった。
湿った土と若葉の香りに、冷たい潮の気配が混じる。
レフィーナは、思わず足を止めた。
視界の先に、海があった。
朝の光を受けた水面が、どこまでも青く揺れている。
空との境目は遠く、見ているだけで胸の奥が少し落ち着かなくなった。
丘の下には、海へ向かって開けた小さな町がある。
木造の桟橋。海へ伸びる帆柱。
狭い通りの両側に並ぶ、板張りの家と倉庫。
港の奥では製材所の大きな屋根が見え、丸太を切る乾いた音が、カモメの声に混じって聞こえていた。
「……ポートハーベン」
地図で何度も見た町の名を、レフィーナは小さく口にした。
腰には、ランドルフから借りた古い予備の剣がある。
見慣れた鞘も、森の外では少しだけ頼りなく見えた。
けれど、手を空にするよりは落ち着く。
荷袋の中には、買うものを書いた小さな帳面が入っていた。
薬草。保存食。塩。包帯。
それから、海の情報。
ランドルフは地図を広げながら、最後に一つだけ付け加えた。
『港は人も物も集まる。耳を澄ませば、森では聞けぬ話も拾えるじゃろう』
レフィーナは帳面の端を指で押さえ、丘を下り始めた。
◇
ポートハーベンは、戦場ではなかった。
市場では魚が並び、焼いたパンの匂いがしていた。
漁師たちは桟橋の端で網を繕い、製材所からは板材を積んだ荷車が出入りしている。
子供たちは狭い通りを走り回り、店先では女たちが値段を言い合っていた。
その賑わいに、レフィーナは少しだけ目を見張った。
人が笑っている。
仕事のことで怒っている。
晩ごはんの話をしている。
それだけのことが、今の彼女には眩しかった。
けれど、町の隅には別の光景もあった。
荷物を積んだまま動かない荷車。
その脇で毛布にくるまる子供。
『東部より避難してきた者、名を記せ』と書かれた板。
夫や息子の名を探す貼り紙。値札を書き直された干し肉と麦の袋。
通りの掲示板には、黒い文字で短い知らせが貼られていた。
『帝国軍、東方諸国にて進軍を継続。沿岸部は警戒を怠るな』
レフィーナは、無意識に足を止めた。
そのとき、通りの向こうから荒い声が飛んだ。
「どけ! 道を空けろ!」
魚を山のように積んだ荷車が、石畳を跳ねながら近づいてくる。
その声に、レフィーナの身体が強張った。
雨の中で聞いた怒声。
剣と鎧の音。
崩れる城壁。
息が、浅くなる。
足が動かない。
「危ない!」
横から伸びた手が、レフィーナの腕を掴んだ。
身体が引かれた直後、荷車がすぐ目の前を通り過ぎる。
魚の匂いと、濡れた木箱の冷たい風が頬を打った。
「大丈夫?」
声の主は、レフィーナと同じくらいの年頃の少年だった。
日に焼けた髪は海風で少し乱れ、袖をまくった腕には細かな傷がいくつもある。
肩から下げた網からは、潮と魚の匂いがした。
「ぼんやりしてたら、魚の荷車に轢かれるよ」
「す、すみません! 助けてくださって、ありがとうございます」
レフィーナが深く頭を下げると、少年は少しだけ目を丸くした。
「そんなにかしこまらなくていいって。怪我してない?」
「はい。大丈夫です」
「ならよかった」
少年は、ほっとしたように笑った。
「俺はマーク。ここの漁師見習いみたいなもの」
「レフィーナです」
「レフィーナ、ね」
マークはその名を一度だけ繰り返してから、彼女の荷袋と、手にしていた小さな帳面を見た。
「買い物?」
「はい。薬草と、保存食と……少し、海のことを知りたくて」
「この辺、初めて?」
レフィーナは一瞬だけ迷った。
どこから来たのか、何を失ったのか。まだ、知らない人に言葉にする勇気はない。
「……はい。初めてに近いです」
マークはそれ以上聞かなかった。
帳面をのぞき込み、書かれた品を指で追う。
「薬草屋なら裏通り。塩は市場の端の店の方が安い。乾燥肉は……その値段なら、こっちの店の方がましだな」
レフィーナは驚いて彼を見た。
「詳しいんですね」
「港町で生きてたら、嫌でも覚えるよ」
少し照れくさそうに頭を掻く。
「案内しようか」
「でも、お仕事があるんじゃ……」
「朝の漁は終わった。それに、薬草屋のばあさんは初めての客には高く売るんだ」
「そんな人なんですか?」
「悪い人じゃない。ただ、商売人って感じ」
真顔で言われて、レフィーナは思わず笑いそうになった。
「……では、お言葉に甘えます」
「うん。こっち」
◇
マークは、町のことをよく知っていた。
港に泊まる船の名を見れば、どこの国から来た船かおおよそ分かるという。
赤い帆の小船は近くの入江から貝を運び、青い旗の商船は遠い南から香辛料を積んでくる。
桟橋に残る濡れ方で、朝にどの船が出たのかも分かるらしい。
「波の色が濃いところは、急に深くなってる。逆に薄いところは浅瀬。船を出すなら、そこを間違えると底を擦るんだ」
「海鳥も見ればいいんですか?」
「うん。あいつらが低く飛ぶ日は、だいたい天気が悪くなる。雨より先に、風の匂いが変わるから」
森では、風は葉を揺らすものだった。
けれど海では、風が船を運び、波を変え、人を遠くへ連れていく。
レフィーナは桟橋の先へ目を向けた。
海は、見えない場所まで続いている。
「海って、すごいですね」
「うん」
「ずっと先まで続いているみたいです」
マークは、海を見たまま頷いた。
「続いてるよ」
そして、当たり前のことを言うように続けた。
「風があれば、どこまでだって行ける」
「西の海の向こうには、時を読む賢者がいるって話もあるし」
「時を……読む?」
「嵐でたまたまイースランドに流された漁師の話さ」
マークは、海の向こうを見た。
「最近の噂じゃ、雲まで届く塔に、未来も過去も見る姫騎士がいるんだってさ」
「……本当に、いるんでしょうか」
「さあね。船乗りの話は、波より大きくなるから」
海の向こうにも、道がある。
知らない国があって、知らない人がいて――もしかしたら、姉へつながる手がかりもあるかもしれない。
「……どこまででも、行けるんですね」
マークは、少しだけ不思議そうに彼女を見た。
「行けるよ。時間はかかるけどね」
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