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プリンセスナイトサーガ  作者: 中津海人
第2章 旅立つ光

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第1話「港町の少年」

 森を抜けたところで、風の匂いが変わった。


 湿った土と若葉の香りに、冷たい潮の気配が混じる。


 レフィーナは、思わず足を止めた。


 視界の先に、海があった。


 朝の光を受けた水面が、どこまでも青く揺れている。


 空との境目は遠く、見ているだけで胸の奥が少し落ち着かなくなった。


 丘の下には、海へ向かって開けた小さな町がある。


 木造の桟橋。海へ伸びる帆柱。

 

 狭い通りの両側に並ぶ、板張りの家と倉庫。

 

 港の奥では製材所の大きな屋根が見え、丸太を切る乾いた音が、カモメの声に混じって聞こえていた。


「……ポートハーベン」


 地図で何度も見た町の名を、レフィーナは小さく口にした。


 腰には、ランドルフから借りた古い予備の剣がある。

 

 見慣れた鞘も、森の外では少しだけ頼りなく見えた。


 けれど、手を空にするよりは落ち着く。


 荷袋の中には、買うものを書いた小さな帳面が入っていた。


 薬草。保存食。塩。包帯。


 それから、海の情報。


 ランドルフは地図を広げながら、最後に一つだけ付け加えた。


『港は人も物も集まる。耳を澄ませば、森では聞けぬ話も拾えるじゃろう』


 レフィーナは帳面の端を指で押さえ、丘を下り始めた。


     ◇


 ポートハーベンは、戦場ではなかった。


 市場では魚が並び、焼いたパンの匂いがしていた。

 

 漁師たちは桟橋の端で網を繕い、製材所からは板材を積んだ荷車が出入りしている。


 子供たちは狭い通りを走り回り、店先では女たちが値段を言い合っていた。


 その賑わいに、レフィーナは少しだけ目を見張った。


 人が笑っている。


 仕事のことで怒っている。


 晩ごはんの話をしている。


 それだけのことが、今の彼女には眩しかった。


 けれど、町の隅には別の光景もあった。


 荷物を積んだまま動かない荷車。


 その脇で毛布にくるまる子供。 

 

『東部より避難してきた者、名を記せ』と書かれた板。


 夫や息子の名を探す貼り紙。値札を書き直された干し肉と麦の袋。


 通りの掲示板には、黒い文字で短い知らせが貼られていた。


『帝国軍、東方諸国にて進軍を継続。沿岸部は警戒を怠るな』


 レフィーナは、無意識に足を止めた。


 そのとき、通りの向こうから荒い声が飛んだ。


「どけ! 道を空けろ!」


 魚を山のように積んだ荷車が、石畳を跳ねながら近づいてくる。


 その声に、レフィーナの身体が強張った。


 雨の中で聞いた怒声。


 剣と鎧の音。


 崩れる城壁。


 息が、浅くなる。


 足が動かない。


「危ない!」


 横から伸びた手が、レフィーナの腕を掴んだ。


 身体が引かれた直後、荷車がすぐ目の前を通り過ぎる。


 魚の匂いと、濡れた木箱の冷たい風が頬を打った。


「大丈夫?」


 声の主は、レフィーナと同じくらいの年頃の少年だった。


 日に焼けた髪は海風で少し乱れ、袖をまくった腕には細かな傷がいくつもある。


 肩から下げた網からは、潮と魚の匂いがした。


「ぼんやりしてたら、魚の荷車に轢かれるよ」


「す、すみません! 助けてくださって、ありがとうございます」


 レフィーナが深く頭を下げると、少年は少しだけ目を丸くした。


「そんなにかしこまらなくていいって。怪我してない?」


「はい。大丈夫です」


「ならよかった」


 少年は、ほっとしたように笑った。


「俺はマーク。ここの漁師見習いみたいなもの」


「レフィーナです」


「レフィーナ、ね」


 マークはその名を一度だけ繰り返してから、彼女の荷袋と、手にしていた小さな帳面を見た。


「買い物?」


「はい。薬草と、保存食と……少し、海のことを知りたくて」


「この辺、初めて?」


 レフィーナは一瞬だけ迷った。


 どこから来たのか、何を失ったのか。まだ、知らない人に言葉にする勇気はない。


「……はい。初めてに近いです」


 マークはそれ以上聞かなかった。


 帳面をのぞき込み、書かれた品を指で追う。


「薬草屋なら裏通り。塩は市場の端の店の方が安い。乾燥肉は……その値段なら、こっちの店の方がましだな」


 レフィーナは驚いて彼を見た。


「詳しいんですね」


「港町で生きてたら、嫌でも覚えるよ」


 少し照れくさそうに頭を掻く。


「案内しようか」


「でも、お仕事があるんじゃ……」


「朝の漁は終わった。それに、薬草屋のばあさんは初めての客には高く売るんだ」


「そんな人なんですか?」


「悪い人じゃない。ただ、商売人って感じ」


 真顔で言われて、レフィーナは思わず笑いそうになった。


「……では、お言葉に甘えます」


「うん。こっち」


     ◇


 マークは、町のことをよく知っていた。


 港に泊まる船の名を見れば、どこの国から来た船かおおよそ分かるという。


 赤い帆の小船は近くの入江から貝を運び、青い旗の商船は遠い南から香辛料を積んでくる。


 桟橋に残る濡れ方で、朝にどの船が出たのかも分かるらしい。


「波の色が濃いところは、急に深くなってる。逆に薄いところは浅瀬。船を出すなら、そこを間違えると底を擦るんだ」


「海鳥も見ればいいんですか?」


「うん。あいつらが低く飛ぶ日は、だいたい天気が悪くなる。雨より先に、風の匂いが変わるから」


 森では、風は葉を揺らすものだった。


 けれど海では、風が船を運び、波を変え、人を遠くへ連れていく。


 レフィーナは桟橋の先へ目を向けた。


 海は、見えない場所まで続いている。


「海って、すごいですね」


「うん」


「ずっと先まで続いているみたいです」


 マークは、海を見たまま頷いた。


「続いてるよ」


 そして、当たり前のことを言うように続けた。


「風があれば、どこまでだって行ける」


「西の海の向こうには、時を読む賢者がいるって話もあるし」


「時を……読む?」


「嵐でたまたまイースランドに流された漁師の話さ」


 マークは、海の向こうを見た。


「最近の噂じゃ、雲まで届く塔に、未来も過去も見る姫騎士がいるんだってさ」


「……本当に、いるんでしょうか」


「さあね。船乗りの話は、波より大きくなるから」


 海の向こうにも、道がある。


 知らない国があって、知らない人がいて――もしかしたら、姉へつながる手がかりもあるかもしれない。


「……どこまででも、行けるんですね」


 マークは、少しだけ不思議そうに彼女を見た。


「行けるよ。時間はかかるけどね」

お読み頂き、ありがとうございます。

更新は週2~3回を目安に予定しています。

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どうぞ宜しくお願い致します。

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