第21話「風の姫騎士、墜つ」
帝国大戦艦の収容区画は、鉄の檻だった。
空を行く大戦艦の、最も奥まった場所。
鉄の壁。
鉄の床。
鉄の格子。
どこを見ても、木の葉はない。
土の匂いもない。
遠くで鳴く鳥の声も。
枝と枝が擦れる音も。
雨を待つ森の静けさも。
何もなかった。
あるのは、油と煤の匂い。
焼けた樹脂の匂い。
冷えた鉄の硬さ。
戦艦の奥にある魔導炉が、低く唸る音だけだった。
ごう、と。
ごう、と。
止まることのない振動が、床から足首へ伝わってくる。
まるで巨大な鉄の獣の腹の中へ、飲み込まれたようだった。
独房は狭い。
横になれば、肩が壁へ触れる。
立てば、すぐ目の前に格子がある。
エレゼリアは、壁へ繋がれた鎖を見下ろしていた。
両手。
両足。
首輪。
白銀の鎧は、煤と泥で汚れている。
深い緑のマントは片側が裂け、床へ重く垂れていた。
指先を動かすたび、鎖が小さく鳴る。
その音が。
森で葉が揺れる音とは、あまりにも違っていた。
エレゼリアは、そっと目を閉じた。
風を呼ぼうとする。
ほんの少しでいい。
髪を揺らすほどの風でいい。
誰かが生きている森の匂いを、ここまで運んでほしい。
けれど。
首輪の封印紋が、鈍く光った。
集まりかけた風は、指先でほどける。
何も残らない。
何度試しても。
何度、心の中で呼んでも。
格子の外。
黒い金属の台の上に、奪われたティアラが置かれていた。
ティアラは、まだかすかに光っている。
けれど、その光は弱い。
森を渡り、人々を抱き上げ、炎を押し返した風の光ではない。
檻の外へ置かれた、小さな灯り。
届かない場所で。
ただ、弱く緑に光っている。
エレゼリアは、そこから目を離せなかった。
あのティアラを取り戻せば。
風を呼べる。
森へ戻れる。
フリッツのところへ。
ヴェンツェルのところへ。
逃げた人々のところへ。
けれど、手首の鎖は短い。
格子まで、あと数歩。
その数歩が、どうしても届かない。
戦艦の通路を、兵士たちの靴音が通り過ぎていく。
重い足音。
笑い声。
金属の扉が閉まる音。
どこか遠くで、エボルモンスターが低く唸った。
エレゼリアは、肩をすぼめた。
森なら。
こんな音はしない。
森なら、風がすべての音をさらってくれる。
苦しい声も。
怖い声も。
誰かの泣き声も。
ここでは、何もさらってくれない。
音は鉄の壁にぶつかり、戻ってくる。
逃げ場もなく。
ずっと耳の奥に残る。
格子の向こうに、黒い影が立った。
暗黒の姫騎士だった。
エレゼリアは、ゆっくり顔を上げる。
「森は」
声が掠れていた。
「みんなは、どうなったの」
「防衛隊と住民は、保護地から離れた」
暗黒の姫騎士は答えた。
「炎は、止めた」
エレゼリアは、わずかに息を吐いた。
安心ではない。
ただ、胸の奥の張りつめていた糸が、少しだけほどけた。
「……よかった」
「お前は、森を守った」
暗黒の姫騎士は言う。
「だが、お前自身は犠牲になった。意味が無いな」
その言葉が、静かに刺さる。
エレゼリアは鎖を握った。
冷たい鉄が、掌へ食い込む。
「違う」
声は小さい。
けれど、消えなかった。
「みんなが生きてるなら、それでいい」
「それが、お前の敗因だ、エレゼリア」
暗黒の姫騎士は、台の上のティアラを手に取った。
ティアラの微弱な魔力が、黒い手袋の中でかすかに瞬く。
「お前は、森を愛しすぎた」
エレゼリアは、目を逸らさなかった。
「それが、あたしだから」
「コーディアラだけを守られる限り、我々に打つ手はなかった。だが――」
胸の奥が痛んだ。
分かっていた。
「さっさと殺せばいい」
「風を司るお前は、息をするものをことごとく味方にしてしまう」
暗黒の姫騎士の声には若干、畏怖が混じっていた。
「だが、この鉄の檻には、お前に応える森の命がない。土も、水も、枝葉もな。ここに収監されている限り、お前は脅威ではない。殺す必要はないな」
守りたいという思いは、弱さではない。
けれど。
敵がそこへ刃を向けるなら。
優しさは、傷つけられる場所にもなる。
「諦めろ」
暗黒の姫騎士は、静かに告げた。
「お前は負けたのだ」
エレゼリアは、動かなかった。
泣かなかった。
泣けば、森が遠くなる気がした。
けれど、目を閉じた瞬間。
燃える木々が浮かんだ。
焼けたドライアドの腕。
フリッツの震えた声。
そして。
空を行く大戦艦の鉄の檻。
そこにいたのは。
森を駆け、空を翔けた風の姫騎士ではなかった。
鎖の中。
白銀の鎧を煤で汚し。
深い緑のマントを床へ垂らし。
うなだれた、疲れ切った、ただの少女。
暗黒の姫騎士は、しばらくその姿を見ていた。
やがて、彼女から抵抗の気配が消えたことを見届けると、暗黒の姫騎士は背を向けた。
鉄扉が閉じる。
重い音が、大戦艦の中へ響いた。
ふと。
高い位置にある細い窓の向こうで、雲が流れた。
遮るもののない、広大な空。
けれど。
鉄格子と魔力封印の鎖が、エレゼリアと風の繋がりを引き裂いている。
それでも。
窓の隙間をかすめていく、ごく微かな風を感じていた。
風を束縛することはできない。
風は自由だ。
どこへでも行ける。
エレゼリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「魔水晶のかけらは、妖精が守っている」
誰にも聞こえない声で、呟く。
「帝国の手は、絶対に届かない」
今は、機を窺う。
森へ帰るために。
フリッツたちと、もう一度並んで立つために。
エレゼリアは、そう決め、目を伏せる。
世界から一つ、大国の光が消えた。
――この日、コーディアラは陥落した。
* * *
朝。
深い森の中にある、小さな小屋の前。
レフィーナは、荷袋を背負っていた。
中には、水筒。
乾いたパン。
薬草。
地図。
そして、ランドルフから預かった訓練用の剣。
額には、光のティアラ。
まだ大きな力を見せることはない。
それでも朝日を受け、静かに輝いている。
ランドルフは、戸口の前に立っていた。
いつもの茶色のローブ。
いつもの厳しい顔。
「地図は覚えたな」
「はい」
「町では剣を抜く前に、まず人を見ろ」
「はい」
「困ったら戻れ」
レフィーナは、老人を見た。
ランドルフは少しだけ間を置く。
「だが、逃げるために戻るな」
「……はい」
西へ続く森の道は、朝の光に照らされていた。
その先に、ポートハーベンがある。
海がある。
まだ見ぬ人々がいる。
姉へ近づくための道も、きっとどこかにある。
レフィーナは、深く頭を下げた。
「行ってきます」
ランドルフは頷いた。
「行ってこい」
レフィーナは、歩き出した。
振り返らない。
怖くないわけではない。
足が震えないわけでもない。
それでも、一歩ずつ進む。
彼女はまだ知らない。
炎の姫騎士が、火の谷に囚われていることを。
水の姫騎士が、氷の島に閉じ込められていることを。
そして、風の姫騎士が、森から遠い鉄の檻の中にいることを。
光を継いだ少女は初めて。
誰の背中にも隠れず、森を出た。
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