第20話「風を封じる炎」
翌日。
完全体となった風のティアラは、エレゼリアへ応えた。
コーディアラ王城。
帝国軍に占拠されていた城壁の上を、翡翠色の風が駆け抜ける。
魔導弩が放たれる。
だが、矢は彼女へ届かない。
風がすべてを逸らす。
エボルモンスターが群れで迫る。
だが、エレゼリアの剣は止まらない。
疾風の剣技が、怪物たちの間を走る。
黒い外殻が砕ける。
魔導管が断たれる。
帝国兵が武器を落とす。
石畳の広場へ、風が吹き抜ける。
止められていた風車が、遠くで一つ、二つと羽を回し始めた。
最後に。
王城の中庭へ集結した敵部隊を見下ろし、エレゼリアは空へ剣を掲げた。
「サイクロントルネード!」
巨大な竜巻が、城の外へ向かって渦を巻く。
城壁を壊さない。
民家を傷つけない。
帝国軍だけを飲み込み、王城の外へ吹き飛ばしていく。
風が収まった時。
コーディアラの旗が、再び城壁へ掲げられた。
「奪還した……!」
フリッツが叫ぶ。
森林防衛隊が、声を上げる。
人々が泣きながら、互いの手を握る。
風車の羽が、青い空を切って回る。
エレゼリアは、城壁の上へ立った。
疲労で身体は重い。
それでも。
今だけは、少しだけ笑った。
「このまま帝国軍を、一気に追い出すよ」
その時だった。
空が暗くなった。
太陽を覆い隠すほど巨大な影が、王城の上を通る。
帝国大戦艦。
黒い船体。
無数の砲門。
甲板の端には、炎を纏ったエボルモンスターが並んでいる。
そして、その背には。
赤黒い爆裂魔法陣の刻まれた、太い魔導管が埋め込まれていた。
上空の戦艦から。
炎の怪物たちが、次々と投下される。
森へ。
水脈へ。
避難民の保護地へ続く森道へ。
迷いの大森林の外縁へ。
火を吐ける場所へ、正確に。
エレゼリアの表情から、笑みが消えた。
* * *
夜明け前。
ヴェンツェルの精霊たちも各地で火を抑えている。
だが、戦艦から落とされた炎は、その手を上回る速さで森へ広がっていた。
炎に照らされた森の中で、エレゼリアは剣を構えていた。
その向こう。
黒い大戦艦の前。
甲板から降りてきた暗黒の姫騎士が、静かに立っている。
「剣を置け、エレゼリア」
「嫌だよ」
エレゼリアは即答した。
疲労で、手は震えている。
それでも、剣を下ろさない。
「あたしが剣を置いたら、誰が森を守るの」
「お前が剣を持てば、森は燃える」
暗黒の姫騎士が片手を上げる。
各地の怪物たちが、同時に口を開いた。
避難民が通る森道。
保護地の周囲。
水脈。
古代遺構の外縁。
さらに、迷いの大森林へ至る方角へ向けられた魔導砲。
「風を起こせば、火は広がる」
暗黒の姫騎士は言った。
「怪物を斬れば、背の魔導管が破裂するよう仕掛けた」
エレゼリアは、唇を噛む。
火を止めるための風が、火を広げる。
怪物を倒すための剣が、炎を爆ぜさせる。
完全体のティアラを得ても。
守りたいものすべてを、同時には守れない。
「姫様!」
フリッツが前へ出る。
「俺たちが行きます! 防衛隊を分ければ、まだ――」
「だめ!」
エレゼリアは叫んだ。
フリッツの後ろには、避難民がいる。
怪我人がいる。
焼けたドライアドたちがいる。
ルディアガーデン周辺の保護地へ逃げようとする人々がいる。
誰かを行かせれば、その誰かが死ぬ。
誰かを残せば、その場所が燃える。
どうすれば、全部を守れる。
答えは、どこにもなかった。
小さなドライアドが、震える声で言った。
「エレゼリア」
焼けた腕を抱えながら。
「私たちは、どうすれば」
その問いに。
エレゼリアは、すぐに答えられなかった。
いつもなら言えた。
大丈夫だ、と。
あたしが守る、と。
けれど。
守りたいと思うほど。
敵は、そこへ刃を向けてくる。
守るための剣が。
守るための風が。
今は、誰かを燃やす理由にされている。
「……フリッツ」
エレゼリアは、ゆっくり口を開いた。
「みんなを、保護地の西側。湿地の避難路へ移して」
「姫様」
「迷いの大森林の外縁から離れて。ヴェンツェルにも伝えて」
「何を、するつもりですか」
エレゼリアは答えなかった。
答えれば、フリッツが止める。
止められたら、自分は決められなくなる。
だから。
彼女は、剣を地面へ置いた。
白銀の剣が、土へ触れる。
乾いた音が、炎の中へ響いた。
「……あたしが降伏する」
フリッツが息を呑む。
「駄目です!」
「森と人に、手を出さないで」
エレゼリアは、暗黒の姫騎士を睨んだ。
「その代わり、あたしを連れていけばいい」
「いい判断だ」
暗黒の姫騎士の返事は、短かった。
「火は止める」
「みんなにも手は出さないで」
暗黒の姫騎士は沈黙した。
誰も動かなかった。
炎の爆ぜる音。
怪物の荒い息。
戦艦の魔導炉が低く唸る音。
やがて、暗黒の姫騎士は片手を振って合図した。
帝国兵が攻撃中止の伝令を送る。
「住民が保護地を離れるまで、手も出さん」
エレゼリアは、その言葉を信じていない。
信じてはいけない。
それでも。
今は、その言葉へ賭けるしかなかった。
「フリッツ」
彼女は振り返る。
「行って」
「……必ず、迎えに行きます」
フリッツの声は震えていた。
けれど、彼は剣を抜かなかった。
ここで戦えば、森が燃える。
そのことを、彼も理解している。
「みんなを頼むね」
エレゼリアは、小さく笑った。
それから、額のティアラへ手を伸ばす。
翡翠の光が、指先に触れる。
その時。
外套の影から、小さな妖精が現れた。
葉のように薄い羽。
掌に乗るほどの小さな身体。
怯えながら、それでもエレゼリアの前を飛んでいる。
エレゼリアは、誰にも見えないよう指先を動かした。
ティアラの内側に収まっていた翡翠の魔水晶片を、そっと外す。
翡翠の光が、ほんのわずかに揺らいだ。
小さな妖精の手へ。
彼女は結晶を預けた。
「逃げなさい……!」
声は、ほとんど風の音だった。
妖精は目を見開く。
「迷いの大森林へ」
妖精は、震えるように頷いた。
次の瞬間。
風がひとひら、葉を巻き上げる。
妖精の姿は、その葉の影へ溶けるように消えた。
深い森の奥。
誰も簡単には辿り着けない、迷いの大森林へ。
エレゼリアは、その方角を一度だけ見た。
それから。
ティアラを外した。
手の中で、緑の光が弱くなる。
暗黒の姫騎士は、無言でそれを受け取った。
「魔水晶のかけらを逃がしたか」
「森は、あんたたちのものにはならない」
黒い拘束具が運ばれてくる。
両手の枷。
足首の鎖。
魔力を封じる首輪。
冷たい鉄が、手首へ触れた。
鎖が閉じる。
首輪の封印紋が、鈍く黒く光る。
「姫様!」
フリッツの声が響く。
「来ないで!」
エレゼリアは叫んだ。
泣きそうな声だった。
けれど、泣かなかった。
「今は、みんなを連れて行って!」
フリッツは、唇を噛んだ。
森林防衛隊も。
避難民たちも。
ドライアドたちも。
誰も、動けなかった。
風の姫騎士が、鎖に繋がれている。
いつも最初に空へ飛び。
最後まで皆の前に立っていた彼女が。
今、自分から剣を置いた。
それでも。
フリッツは深く頭を下げた。
「……必ず、生きて戻って下さい」
エレゼリアは返事をしなかった。
返事をすれば。
きっと、声が震えてしまうから。
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