第2話「港に迫る影」
「それ、重くない?」
「大丈夫です」
レフィーナは、荷袋を抱え直した。
「そう? 無理なら言ってよ。港の道、石畳が多いから」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
買い物を終え、市場の端を通りかかったときだった。
小さな子供が、抱えていた魚の籠を落とした。
銀色の魚が泥の上へ散らばる。
「何をしている!」
店主が忙しさのあまり、思わず大きな声を上げた。
「商品が駄目になるだろう!」
子供は肩をすくめ、泣くのをこらえていた。
レフィーナは、考える前に駆け寄っていた。
膝をつき、泥だらけになりながら魚を拾う。
「大丈夫です。一緒に拾いましょう」
子供は目に涙を溜めたまま、こくりと頷いた。
マークも何も言わず、反対側に散った魚を拾い始める。
「こっちは籠に入れる。泥がひどいのは、洗って別にしよう」
「うん……」
三人で魚を集める姿を見て、店主はしばらく黙っていた。
やがて、深いため息をつく。
「……もういい。傷んだ分は俺が引く。次から気をつけろ」
「ご、ごめんなさい」
「謝る前に、手を洗ってこい」
ぶっきらぼうな言い方だったが、怒鳴り声はもうなかった。
子供はレフィーナを見上げた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
レフィーナは、泥のついた手のまま微笑んだ。
「どういたしまして」
子供が走っていくのを見送ってから、マークが横目で言った。
「変わってるな」
レフィーナは首を傾げる。
「そうですか?」
「自分だって困ってそうなのに、先に他人を助ける」
レフィーナは少し考えた。
「困っている人を見たら、放っておけません」
それから、ほんの少しだけ視線を落とす。
「……それだけです」
マークは、口元をゆるめた。
「じゃあ、俺も変わってるな」
「え?」
「放っておけなかったから」
その言い方がおかしくて、レフィーナは一瞬きょとんとした。
次の瞬間、声がこぼれた。
大きな笑いではない。
けれど、胸の奥に固まっていたものが、少しだけほどけていくような笑いだった。
マークは驚いたように彼女を見たあと、つられるように笑った。
◇
夕方、二人は桟橋の端に座っていた。
買い物を詰めた荷袋は、レフィーナの足元に置かれている。
マークが小さな焼き魚を差し出した。
「腹、減ってるだろ。これは売り物じゃない。失敗作」
「でも……」
「食べないなら、カモメにやる」
すぐ近くで一羽のカモメが鳴いた。
レフィーナは少し迷ってから、受け取った。
一口食べて、目を丸くする。
「おいしいです」
「だろ?」
マークは少し得意そうに笑った。
港の鐘が鳴る。
漁師たちは網を片づけ、帰り支度を始めていた。
けれど、いつもより魚籠は軽いのだろう。話し声には、どこか沈んだものが混じっている。
マークは海を見たまま言った。
「物騒な世の中になっちゃったよな」
レフィーナの手が、わずかに止まる。
「ここにも、いつ帝国が現れるか分からない。昔は、港で一番怖いものって言ったら、嵐か、借金取りくらいだったんだけどな」
冗談めかした言い方だった。
けれど、マークの横顔は笑っていなかった。
レフィーナは、焼き魚を包んでいた紙をそっと握る。
海の向こうにいるかもしれない姉。
今この町で、明日の食べ物を心配する人たち。
戦争は、城壁を壊すだけではない。
誰かの当たり前を、静かに削っていく。
少し長い沈黙のあと、レフィーナは言った。
「……会いたい人がいるんです」
マークは、すぐに聞き返さなかった。
「すごく、大切な人です」
言葉を選びながら、レフィーナは続ける。
「でも今は……簡単には行けない場所にいて」
マークは海を見たまま、静かに頷いた。
「なら、会いに行けばいい」
レフィーナは俯く。
「簡単には、行けないんです」
「海だって、最初は向こう岸が見えないだろ」
マークは、港に並ぶ船を指さした。
「でも船を出して、風を読んで、進み続ければ……いつか着く」
彼は少しだけ笑う。
「行けない場所なんて、たぶん最初から決まってるわけじゃない」
レフィーナは顔を上げた。
夕日に照らされた海の向こうには、まだ何も見えない。
けれど、そこに道がないわけではないのだ。
「……はい」
その返事は小さかった。
けれど、朝より少しだけ強かった。
◇
日が沈みかけたころ。
沖合の海面に、黒い泡が浮かんだ。
ぷつり、ぷつりと。
まるで海そのものが、深いところで息をしているように。
レフィーナは立ち上がった。
「マークさん」
声に気づき、マークも沖を見る。
夕暮れの水面の下を、何か巨大な影が横切った。
魚の群れではない。
船の影でもない。
海の底から、ゆっくりと港へ近づいてくる、黒く濁った何か。
桟橋の見張り台で、鐘が鳴り始めた。
短く、切迫した音だった。
港にいた人々が、次々と海の方を振り返る。
レフィーナは、無意識に剣の柄へ手を伸ばした。
胸の奥に、森では感じたことのない冷たい気配が広がっていく。
影が、町を呑み込もうとしていた。
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