第18話「ドライアドの涙」
帝国大戦艦の司令室。
壁一面に広げられた戦略地図へ、赤い魔導灯の光が落ちている。
コーディアラ王都。
エターナルグリーン。
迷いの大森林。
ルディアガーデン周辺の保護地。
地図の上には、帝国軍の駒が並んでいた。
「北方先遣隊、壊滅」
「避難民の保護地への移動を許しました」
「風の姫騎士が、森道を封鎖しています」
報告を聞くたびに、バルナバス提督の表情が険しくなっていく。
巨体を黒い軍装へ包んだ男だった。
握りしめた拳は、今にも卓上の地図を破りそうだった。
「たかが一人の姫騎士に、何をしている!」
部下たちが、身を竦ませる。
「申し訳ありません。しかし、森の中では彼女の動きが速すぎて……!」
「エアロブーストによる加速と、広範囲の竜巻術。兵を寄せれば、まとめて吹き飛ばされます!」
その時。
司令室の扉が開いた。
黒い外套。
黒い鎧。
仮面で顔を隠した姫騎士が、静かに入ってくる。
暗黒の姫騎士。
「手こずっているようだな、バルナバス提督」
低い声だった。
バルナバスは奥歯を噛んだ。
「暗黒の姫騎士……」
「この大戦艦を旗艦にする。指揮を移せ」
「ですが、あの女は森の中では強すぎます。兵を増やしても――」
「正面から倒すな」
暗黒の姫騎士は、地図の上へ指を置いた。
避難路。
泉。
ドライアドの集落。
そして、エレゼリアが必ず駆けつける森の外縁。
「森を焼け」
バルナバスが、目を細める。
「世界樹はどうします」
「手を出すな」
わずかな沈黙。
「――まだな」
その一言に、司令室の空気が冷える。
暗黒の姫騎士は、さらに地図を指先でなぞった。
「エレゼリアは、森の命が傷つく時だけ判断を鈍らせる」
「ならば、火を一か所へ集めるのではなく」
「散らせ」
「避難路へ。水脈へ。森の民の集落へ、ですか?」
「そうだ」
仮面の奥の声は、少しも揺れなかった。
「森の中のエレゼリアは強い。深追いするな。彼女に、守るものを選ばせろ」
バルナバスは頭を下げた。
「承知しました」
だが、顔を上げた時。
その目には、隠しきれない苛立ちが浮かんでいた。
自分の兵では届かなかった相手を。
この女は、剣を交える前から追い詰めようとしている。
その事実が、気に入らなかった。
* * *
翌朝。
エターナルグリーン東部。
グリーンボーダー――緑の境界。
森の東側から、黒煙が上がった。
「森が……!」
エレゼリアは、声を上げるより早く走り出していた。
フリッツと森林防衛隊が続く。
だが、着いた時には。
すでに何本もの木が燃えていた。
炎を纏った蜥蜴型のエボルモンスターが、木々へ体当たりしている。
背中には赤い魔導管。
口を開くたび、燃え尽きない火が吐き出される。
焼けた枝が落ちる。
草が燃える。
小さな獣たちが、火から逃げようとして互いを押し退ける。
「ウィンドショット!」
エレゼリアの指先から、圧縮された風の弾丸が放たれる。
赤い魔導管の継ぎ目を、正確に撃ち抜く。
一体。
二体。
火を失った怪物が、地面へ倒れる。
「北の火を抑えろ!」
フリッツが叫ぶ。
「水運びを回せ! 風下へは行かせるな!」
「でも、隊長! 炎が広がっています!」
風を強く起こせば、火は広がる。
風を止めれば、煙が人々の呼吸を奪う。
エレゼリアは、一瞬だけ目を閉じた。
それから、剣を握る。
「火の粉だけを上へ逃がす!」
「そんなことが……!」
「やる!」
燃えた木の幹を蹴る。
「エアロブースト!」
風が、彼女の身体を包む。
炎の中を駆け抜ける。
「ドゥブリーレン!」
一撃目で外殻を割る。
二撃目で、炎を吐く喉元を切り裂く。
だが。
火は消えない。
怪物の身体から漏れた炎が枯葉へ移り、森の奥へ広がろうとしていた。
「エレゼリア!」
フリッツの声。
その先で。
焼け落ちた木の下に、小さなドライアドがいた。
髪の先は焦げ。
片腕の樹皮には、深いひびが入っている。
それでも、根元へ水を送ろうとしていた。
「もういい。逃げよう」
エレゼリアは、駆け寄る。
「この木は……私の家です」
「生きていれば、また育てられる」
「でも……」
「森は、また芽吹くよ」
エレゼリアは、ドライアドを抱き上げた。
涙が、煤のついた頬を一筋だけ落ちた。
「だから、生きて」
その時。
炎を纏った怪物たちが、森道の奥から一斉に現れた。
数十。
いや、それ以上。
エレゼリアはドライアドをフリッツへ預ける。
「連れて行って」
「姫様は!」
「ここを止める」
彼女は、燃える森を見上げた。
炎を消すための力ではない。
森へ広がろうとする火を、ここで断つための力。
風が集まる。
木々の葉が震える。
火の粉が、空へ引かれていく。
「サイクロントルネード!」
竜巻が立ち上がった。
炎を地面から引き剥がす。
怪物たちをまとめて巻き込み、燃える境界の外へ投げ飛ばす。
煙を空高く運び。
火の粉を、まだ燃えていない森から遠ざける。
炎は弱まった。
だが。
すでに失われた木々は戻らない。
黒く焼けた幹だけが、灰の中へ立ち尽くしていた。
エレゼリアは、その前に立った。
剣を握る指が震えている。
「……守れなかった」
「姫様」
「全部は、守れなかった」
フリッツは、何も言えなかった。
その背後で。
ヴェンツェルが、静かに頭を下げていた。
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